第3話 聖なるもの


 すでにウィヴルは、メアリーにとって気の置けない存在だった。というのも、愚痴の言い合いができるからである。


『なんだ。嫌いなのに罪悪感なんか感じてるのか』


「わたしが一方的に悪者だわ。ただ意見を言っただけなのに」


『女ってなあ分からん生きものだな』


「ほんとそうだわ」


『お前も女だろ』


「そうね」


 はあ、と息を吐くと、ウィヴルは面倒そうに折り曲げた膝に肘をついて顔を支えているメアリーを見上げた。


『つまんねえな。刺激的な話でもするか? 特別に提供してやってもいい』


「偉そうね」


『ジャンヌは死ぬ。十九歳でな』


メアリーが目を見開いてウィヴルを視た。確かに、刺激的だ。刺激的にも程がある。


 ウィヴルは平然と言ってのけた。


『言ったろ。オレは本当にすごいやつなんだ。人の一生を見通せる。このままだとジャンヌは死ぬぞ』


「何……病気? あんなに元気なのに」


『詳しく言うつもりはない。が、ジャンヌの秘密に関わっていることは確かだ』


「分からない、分からないわよ、それだけじゃ。ちょっと、詳しく教えなさいよ!」


『だったらオレの封印を解いてくれよ』


 ぐっとメアリーは言葉に詰まった。それを出されると何もできない。

 ウィヴルが琥珀色の目をすがめた。


『オレは、お前とジャンヌのことは、ただ封印を解くために使えそうな人間としか思っていない。だがジャンヌには一応感謝しているんだ。長い年月ずっと暇で仕方がなかったオレに食べ物をくれた。オレが見えないくせに、馬鹿なくらい優しい娘だ。穏やかそうに見えるこの村でだって、妖精に関わっていることが知られたらやばいのにな』


「ジャンヌは、甘いから」


『ちょっと違うな。ジャンヌは平和な甘ちゃんじゃない。何度も人間が起こしたむごたらしい現実を見ている。その上で神を信じた。メアリー、近いうちに嫌でもそれが分かるよ。あと少ししたら、な』


 ウィヴルは言うだけ言うと、自身の体に頭を預けて目を閉じた。メアリーはそっと気付かれないようにウィヴルに触ろうとしたが、見えない何かがウィヴルの体に触れる前にメアリーの手を押しのけた。

 ジャンヌが泣いたのは、メアリーの言葉が原因だ。だが気になるのは、メアリーのどの言葉に反応したか、ということだった。

 だって今まで同じようなことをジャンヌに言い続けていたのに、どうして今回に限って泣いたのか、メアリーには分からなかったのだ。



 ジャンヌの秘密が分からないまま、そしてウィヴルとの交流もそのままで何カ月か経った。そしてまたウィヴルの言葉を思い出す出来事が起こった。


 ドンレミ村に盗賊が来た。兵士の格好をしていた。どこの兵なのかも分からない。イングランド兵ではなく、もしかしたらフランス兵だったのかもしれない。

 そのときは何軒かの家のものが強奪されたが、幸い奇跡的にも死者は出なかった。その代わりその家々は暮らしを続けて行くことが非常に難しくなった。

 メアリーたち一家も含め、ドンレミ村の人々は近隣のヌーフシャトーの街に避難した。

 約四日間ではあるが、それでもやっと住み慣れた家から離れたということに、少しばかり焦燥感があった。ジャンヌも同じように避難していたが、変わらず神への祈りを絶やさなかったと聞くからメアリーはまた苛立った。


 ドンレミ村へ戻るとき、街道の近くにある森を見て、どきりとした。

 木々の根元には捨てられた麻袋や、壊れた荷車、他にも盗賊たちが捨てて行ったのであろうものがたくさんあった。

 ウィヴルは大丈夫だろうか。

 そんな心配はいらないのだろうが、どうしても考えずにはいられない。あの《妖精たちの樹》に傷がついたりしたら、ウィヴルはどうなるのだろう。

 はたと気付けば、メアリーと同じく真っ青になって森を見る者がいた。ジャンヌだ。じっと見つめていると彼女も気付いてメアリーを見たが、メアリーはすぐに顔を背けた。


 村は酷い有様だった。

 教会は焼け落ち、全ての家が踏み荒らされていた。悪ふざけとしか思えないのは、壊す必要のない柵や家の扉などが斧か何かで壊されていたことだった。

 多くの人が茫然として、それから嘆いた。

 大事なものを持って避難していたとはいえ、帰る場所がこんな、侮辱されたような扱いを受けたのでは、悔しくて腹が立った。だけどもこちらは抵抗することはできず、ただ避難するしかできないのだ。


 ジャンヌは教会へ向かっていた。自宅を見たあとで教会へ行った。こんな、こんな悲惨なことがあったときにも、あいつはいるかどうかも分からない神へと祈るのか。

 ふざけているとしか思えない。一発ぶってやる。メアリーはジャンヌの後を追った。

 教会に着くと、ジャンヌはそのままフラフラと中へ入っていった。メアリーも中へと入る。扉はすでに開け放たれていて、物音に気遣うことはなかった。

 教会もやはり村と同様で、金になりえそうなものは全て根こそぎ奪われていた。床は泥で出来た足跡がいくつもあって、何かをこぼした跡さえところどころにあった。


 ジャンヌはそんな汚れた床に、力が抜けたかのように膝をついた。それから苦しそうにかがみ、祈った。


「神様……」


 ジャンヌの呟きが聞こえた。続いて嗚咽が聞こえた。


「わたしが……村娘の一人でしかないこのわたしが、あなた様の言うとおりに王太子様を救えば、こんなこともなくなっていくのでしょうか? わたしにそんなことが出来るのでしょうか? メアリーに言われたように、わたしはただの偽善者なのではないでしょうか? そうです。わたしは、不安なのです。だからあなた様の御言葉さえ疑ってしまう。なんと愚かなことでしょう……」


 ジャンヌが呻き、さらに体をかがめた。そんな彼女を見ていて、ギクリとした。

 彼女の肩に手を置く者がいた。白く淡く光る、人の形をした者がいた。

 輪郭は分かるものの、はっきりと視ることが出来ない。生きた人間でないことは分かる。ここは教会だ。たとえ荒らされていたとしても、妖魔にとっては近寄り辛い場所のはずではないのか。

 白い人影は、ジャンヌの耳元に口を近づけたように見えた。その途端にジャンヌはびくりと体を震わせ、「ありがとうございます、ありがとうございます……」と言った。それから白い人影が物影に隠れているメアリーの方へ、頭を向けたように見えた。


 この子に近付くな、と言っているような気がした。いや、言っている。何故だか確信できた。そしたら、急にウィヴルが言っていたことを思い出した。


 ジャンヌは、一九歳で死ぬ。


「ジャンヌ!」


 咄嗟に叫んでいた。

 教会の中にメアリーの声が響きわたった。この空間が保っていたジャンヌを取り囲んでいた静謐さが割れ、砕け散った。

今だ、とメアリーは走り出した。

 メアリーの声に驚いたジャンヌが「ひゃっ」と小さく声をあげた。その反応はわずかに遅かった。それは今の今まであった彼女を囲んでいた『何か』がなくなったからなのか。ジャンヌが振り返るころには、もうメアリーは目の前にいた。


「ちょっとあんたここで何してんのよ。こんなとこにいたってなんにも出来やしないでしょ! ここで祈るよりも先に村を優先するべきなんじゃないの?」


「メアリー、なんでここに」


「わたしの話聞いてる? 早くここから出るわよ! こんな陰気なことしてたってどうにもならないわ。大体あんたあの森を見たでしょ。どうしてウィヴルの様子を見に行かないのよ、あいつはどう考えたって、あんたのことが大好きなのに!」


 ジャンヌの目が丸くなった。


「ウィヴル? 昔話で出てくるあの妖精のこと? その妖精があの森にいるの?」


「あんたがいつも何くれと世話をしてやってた、《婦人たちの樹》にいる妖精のことよ!」


 ぽかん、とジャンヌがメアリーの顔をただただ見つめた。


「あなた、どうして」


 そんなの、ウィヴルに聞いたからに決まっている。

 言おうとしてメアリーはぐっと口をつぐんだ。

 そんなことを大嫌いな奴に、しかも信心深いやつに言えるはずがない。妖精が見えて話ができるなどと言えば、どうなるか。

 口ごもったメアリーの手を、ジャンヌが優しく自身の手で包みこんだ。潤んだ黒い瞳はメアリーの顔をはっきりと映した。そこには、ひどく怯えている子どもがいた。


「ねえ、メアリー。ここにはわたしとあなたしかいないわ。それにここはドンレミよ。あなたが昔いた村ではないわ」


 もう大丈夫なのよ。ジャンヌは言って、体の横で拳を作ったメアリーの手をなでた。

 ぶわ、と何かが胸の中にあふれ出すのを感じた。

 本当のことを言えば確実に魔女と言われた。だけど本当のことを言わずにいたら、友人が『悪者』に……魔女なのだと言われてしまった。自分を恨むのが辛くて他人を恨むことにした。もっともなようにジャンヌを罵倒するが、それはただの逆恨みでしかない。


「わたしは、小さい頃から妖精が見えるのよ」


 絞り出した言葉の後に、後悔した。どうして大嫌いなジャンヌに、しかも信心深いやつに言ってしまうのだろう。何も言わず、何もしなければ無事でいられるのに。


「あんたがウィヴルに毎回食べ物をやっていたことは……信じられないでしょうけど、ウィヴル自身から聞いたのよ」


「それは、本当?」


 先程まで元気がなかったジャンヌの顔が明るくなっていく。本当に、分かりやすい。


「あの子、ウィヴルは喜んでくれてた?」


「喜んではいたけど……あんた、ウィヴルって妖精がどんなものなのかちゃんと分かってる? 村の司祭が毎度あの森でミサをあげているでしょ。ウィヴルは人間に害をなすような妖精なのよ」


「だけど、喜んでくれていたのならそんなに嬉しいことってないわ!」


 うふふ、と幸せそうに笑う目の前の彼女に何か悪口でも言ってやろうとしたが、止めた。その無邪気な笑顔は、偽善者というよりも純朴な子どものそれであるように見えたから。


「ジャンヌ。ウィヴルがあんたには秘密があるって言ってた。あんたの人生を揺るがしかねない秘密だと。わたしはあんたに秘密を言った。あんたもわたしに秘密を言うべきではないの?」


「それは」


 ジャンヌの顔が再びくもる。うつむいて、何かを思案したのちに顔を上げる。


「ごめんなさい。今は言えない」


「なんで」


「時が来るまで……いえ、わたしの覚悟がちゃんと出来るまで言えない。まだわたしは迷っているから。ごめんなさい」


「さっき、あんたが話をしていたのは、天使?」


 ジャンヌの顔がわずかに強張った。それで十分だった。


 メアリーが現れる前にジャンヌが『誰か』に言っていた『王太子を救う』という言葉。ジャンヌみたいな奴が、軽々しくそう言うものか。もし言うきっかけになるとすれば。

 メアリーはジャンヌに掴まれていた手でジャンヌの手を逆に掴んで強く握った。


「もういい。今のは忘れなさい。早く村に戻るわよ。ここでした話はお互いの秘密。しゃべったりしたらその髪引っ張って泣かすから!」


「あ、メアリー」


 ジャンヌの手を引いて教会の出口へと一歩踏み出していたメアリーは、逆に手を引かれて立ち止まった。ジャンヌは緊張したように、メアリーの手を握り返した。


「わたし、覚悟が出来たらきっとあなたに秘密を言うわ。あなたはわたしにわたし自身の弱い部分を気付かせてくれたから。ねえ、そのときは聞いてくれる?」


 メアリーの目の前に、すまなさそうに眉尻を下げている者がいた。メアリーと同い年くらいの少女だ。

 ドンレミ村で、初めてジャンヌに会ったときを思い出した。緊張して、不安そうにメアリーに家に来ないかと言ってきたあの少女は、今も変わらない。


「……聞いて、やらないことも、ない」


 なんだか恥ずかしくなって視線をそらして言った。ジャンヌが嬉しそうに笑い、すぐにまた教会の出口を向いて彼女の手を強く強く握ったまま、足を速めた。彼女がたたらを踏んだ気配がしたが、速度は緩めてやらなかった。




 ――ここで、もし。


 もしもわたしが彼女のお願いを聞いていなかったら。

 あるいは彼女を酷く罵倒して落ち込ませていたのなら。

 そうであったのなら、彼女はこの村を出て行く決心などしなかったのではないのだろうか。


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