第2話 妖精たちの樹

 同い歳ではあったものの、ジャンヌとメアリーの性格は硬貨の裏表のように違った。

 ジャンヌはとても素朴で優しく、信心深かった。教会には欠かさず行き、村一番のできた娘だと言われていた。


 対してメアリーは気が強く、よく働きはするが人にとても厳しかった。ジャンヌを見れば眉間にしわを寄せて悪い言葉を使った。そんなメアリーにそれでも優しくするジャンヌがメアリーにとっては許しがたいことであり、ジャンヌの全てを否定したいと思っていた。「誰にでも良い顔をする偽善者」というのがメアリーのジャンヌに対する見解であり、ジャンヌへの嫌味はもはや日課になっていた。だって嫌みを言ってやると、えらく気分がすっきりするのだ。


 だがある日のこと。もう一つ日課が増えることになった。

 父や母からの「ジャンヌを悪く言うのはいい加減やめなさい」というお小言から逃げ、メアリーが村の中を歩いていたときのこと。

 道端で会ったオメットと目が合い、相手が睨んできたからこっちも睨み返してやった。そうしたら「あんたに友達なんて絶対できない」と言われたからつい追いかけまわしてしまった。地の利もあるのだろうが、オメットはなんとも逃げ足の速いことですぐにまかれてしまった。が、きっと今頃くちゃくちゃになった赤ら顔のまま往来を歩いているに違いないのだ。ざまあ見ろ。


 オメットめがけて全力で走っていたものの、息切れは少ししたら治まった。こちらとてだてに働いてはいない。逃げた家畜をよく追いかけまわしていたものだ。別に逃げたのはメアリーが失敗したわけではない。家畜が悪いのだ。

 額の汗を乱暴に拭い、ここはどこかとあたりを見渡した。オメットのせいで家から随分と離れてしまった。今まで行こうとしなかったヴォージュの森も近くに見える。

 不意に、森の方から誰かが歩いてくるのが見えた。女性だ。体をちぢこめて足早に立ち去ろうとしている、ように見える。

 何だか気になって、相手に気付かれないよう背の高い草に隠れ近づいた。彼女が誰なのか分かって息を止めた。ジャンヌだ。連れの姿はいない。一人なのだろうか。


 様子がおかしい。ジャンヌの顔は青ざめ、両手を口にやって何かを考え込んでいるようだった。そんなジャンヌを見たのは初めてだった。

 森で何かあったのだろうか?

 あのジャンヌをあんなにさせるまでのものとは、一体なんなのか。メアリーはなんとなく周囲を見回してから、森に向かった。

 


 

 そう深く森に入る前に気がついた。ヌーフシャトーの街に通じる道の近くにあるブナの巨木の根元。そこで見てはならないものを見てしまった。


『よお』


 視界に入ってしまったそれを一度は無視したものの、見てしまったものは仕方がないと、もう一度視線を戻した。

 滑らかな光沢を持つ黒に近い緑の鱗。鈍重そうな蛇の体から飛び出た四つの小さな、しかし長く鋭い爪を持った手足。琥珀色の透き通った目。額には灰色に濁り、くもっていて綺麗とは言えないが、それはきっと宝石なのだろうと思った。ああ、これは知っている。想像していたものよりもずっと、子犬みたいに小さくて驚いたけれど。


 妖精、ウィヴル。


『おい、気付いてるだろ。お前だよ。ごまかすな』


「……気安く話しかけないでもらいたいものだわ」


 メアリーは昔からこうして妖精を見てしまうことがある。いつだって妖精の声は普通に音として耳に届くが、どこか遠い場所から聞こえ、不思議な感覚がする。

 決して距離を詰めないように気をつけながら、メアリーはウィヴルを睨みつけた。


「あんた、ウィヴルって妖精でしょ」


『そう言うのならそうなんだろ』


 人間と全く違う姿であるのに、意地の悪そうな目でにやにやとメアリーを見ているのが分かってしまう。

 ウィヴルというのは伝承でちょくちょく登場するトカゲみたいな姿の妖精だ。メアリーが知っている中でも野蛮で、たちの悪い妖精である。人を襲うのはもちろんだが、何故だか衣服を身に付けた者を特に襲ってくるらしい。本物を見るのは初めてだが、妖精がよく出没していたと言われているこの森では珍しくもないのかもしれない。


『おい、こっちこいよ。暇なんだ』


 ウィヴルは短い足で樹の根元をペしペしと叩く。


「近付くわけないでしょ。どうしてわたしがあんたの言うことを聞かないといけないの」


『そんなこと言うなって。お前が嫌いなジャンヌの秘密を教えてやるからよ。本当ならもう退屈しのぎにお前を襲っているところなんだぞ、メアリー』


 ぴくりとメアリーの眉が動いた。名前を、それどころかジャンヌが嫌いなことも当てられた。どうやったのかは知らないがジャンヌの秘密、と今こいつは言ったのか?


「あんた、封じられているわね」


 ウィヴルは答えない。その代わりにフン、と顔を背けた。

 この森では毎年村の司祭がミサをあげる。古い神々を追い払うためと聞いていたが、こうしたウィヴルのような悪い妖精を封じ続けるためにもやっていたのかもしれない。

 メアリーは心の中で笑ってしまう。こうして話せるとはその程度が知れる。妖精に対する封印とはそんなに生易しいものなのか。


『ああそうさ。オレはここに封じられている。だからここから離れられない。しかもこりゃ《妖精たちの樹》だ。オレを封じるにゃおあつらえ向きってわけさ』


「《妖精たちの樹》?」


 それは、確か以前ジャンヌが言っていた《婦人たちの樹》の別称だ。昔は妖しい女たちがこの樹の下で踊ったという。その《婦人》はここらでは《妖精(フエ)》と呼ばれている。このブナの巨木は何か魔的なものを秘めているのだろうか。

 ふふ、と笑いがこみ上げた。そんな場所でジャンヌやオメットたちは歌い、踊って花飾りを作っているのか。


「ねえ、秘密って何よ。教えなさい」


『だったらこっちへ来い。それで、封印を解いてくれよ』


「誰が解くものですか。明らかに自殺行為じゃない」


『……だったら、せめてオレの話し相手にでもなれ。そしたら、ジャンヌの秘密を話してやってもいい』


 ウィヴルは機嫌が悪そうにブルル、と鼻を鳴らした。

 話し相手。それだけ聞くと可愛い響きだ。だが、長い間ここに一匹で何をするでもなく過ごしていたのなら、仕方のないことなのかもしれない。


「いいわ、分かった。話し相手になるから色々教えなさい」


 これでいよいよあのジャンヌの面の皮をはがすことができるというわけだ。ウィヴルから一定の距離を保つのを忘れないようにしながら、メアリーはその場に座りこんだ。




 最初のうちはウィヴルの自慢話ばかりだった。

 聞けば、封印がなかった頃のウィヴルは、それはもうすごかったのだとか。どうすごかったのかはよく分からないが、とにかくすごすぎて人は容易にウィヴルのことを口にはしないし、関わろうともしなかったらしい。

 一度悪魔よりも悪魔みたいな奴に捕まったりもしたが、果敢にも隙をついてお宝を盗みだし、一時その街を支配したこともあるとか。……一時、ということはすぐにやり返されたんだろうなとメアリーは思った。

 そう自信満々にそう言うウィヴルの言葉を否定する気も、からかう気もない。

 信じるも信じないもない。まず確かめるための材料が不足している。とりあえず人間よりはまあ能力は上だと認めてあげる。そう言ったらまた不機嫌になった。少し可愛いかもしれない。


 次にまた、ウィヴルのもとへ人目を忍んで行ってみたら、メアリーを見ると丸めていた体を持ち上げて『よお』と少し嬉しそうに言った。気がした。

 よく見てみれば、ウィヴルの背中には翼があった。器用に折り曲げて背中に密着させていた。木陰の中にいたせいで気づかなかった。蝙蝠のように骨ばっていて、固そうだった。はて。ウィヴルという妖精に翼などあっただろうか。


 メアリーは昔聞いたおとぎ話を思い出そうとして、途中であきらめた。妖精のことを全て理解把握しようだなんて正気の沙汰ではない。妖精なんて神秘、深入りしない方がいいと親に何度言われたかしれない。

 ウィヴルは、ジャンヌたちがここで遊んでいる姿をずっとここで見てきた。見ているだけしかできなかった。眠ることも飽きてしまっていた。

 でもある日変化が訪れた。ジャンヌがウィヴルの存在に気付いたのだ。

 ウィヴルの声も姿も声も聞こえないのに、何かの気配を感じた樹の根元にパンの欠片を一つ置いたのだという。

 そうしてウィヴルは久々の食べ物を前に我慢できずペロリとたいらげてしまった。見えない何かにパンが食べられたのをジャンヌは見てしまった。それからはこの《妖精たちの樹》のもとへやってくるたび、ジャンヌはこっそりパンやクルミなんかを樹の根元にそっと置いていくようになったのだとか。

 なぜ封じられているのにパンが食べられるのか、とウィヴルに聞けば、さあな、とにやりと笑った。ように見えた。


 それから何度もヴォージュの森へ足を運んだが、ウィヴルが話すのは何がいいのかよく分からない自慢話と、泉の近くで遊ぶジャンヌたちのことばかりだった。

 結局その日もジャンヌの秘密を知ることはできなかった。ジャンヌがウィヴルに食べ物をやっている、というのはウィヴルの言う『ジャンヌの秘密』とはまた違うらしい。

 うなりながらメアリーは今日も考える。ジャンヌが抱えている秘密とは何か。今までのウィヴルとのやりとりで分かったことと言えば、その秘密とはジャンヌという少女の人生を揺るがしかねないものだ、ということだけだった。


 


 人目を盗んでウィヴルの話し相手になるようになってから数日後。

 メアリーはジャンヌに呼ばれた。それだけでも不快なのに、ジャンヌが連れてきたオメットを見てもっと不快になった。

 オメットは少し不満げではあったが、メアリーに「この間はごめんなさい」と謝った。どうやら前追いかけまわした後にジャンヌに見つかり、理由を聞いたのちにオメットも悪いと説教されたらしい。メアリーは人目を忍んでウィヴルのところに行っていたから、オメットが謝ろうにも今まで見つけられなかったのだ。 


「ねえ、メアリー。オメットから色々聞いて思ったのだけど、やっぱりオメットもメアリーもどっちも悪いんじゃないかしら。

最初に睨んであなたを嫌な気持ちにさせたことを今、オメットは謝ったわ。これで全部帳消しにはできないだろうけど、メアリーからも何か言うことはない?」


 高圧的というわけでもなく。へりくだっているわけでもなく。ジャンヌはただメアリーにそう提案していた。いつも通りの真摯な態度だ。

 それが、メアリーにはたまらなく嫌なのだ。


「ジャンヌ、あんたってやっぱり偽善者にしか見えないわ」


「え……」


「わたしはね、あんたみたいな偽善者が嫌いなの。あんたが信心深いのも癇にさわる。お祈りをし始めるところに居合わせてしまっただけで後悔するの。

 わたしのいた村ではね、よく『悪者』を探してこらしめていたの。『悪者』に全ての厄を背負わせて、自分たちは神様を信じて日々を安全に過ごす。

 『悪者』に選ばれた者は毎日石を投げられて、他にも酷いことをたくさんされて、され続けて……だからね、最後には死んじゃう。死ぬしかないのよ。それで、大抵その『悪者』を探し出して告発するのがあんたみたいな奴よ。神の言葉を代弁して悪しきものを言い当てる。腹が立つ。腹が立つわ。許すことなんかできるわけない!」


 だから、メアリーは両親以外には妖精が視えることを言っていない。親に口止めされていなければ、今頃魔女だと指をさされて縄であちこちを縛られていたに違いない。

 メアリーがあの村にいた頃のこと。『悪者』に選ばれ石を投げられたのは、メアリーの数少ない友達だった。病弱だったからすぐに死んでしまった。

 村人は皆喜んだ。厄の源が死んだと大喜びした。動かなくなった彼女を抱いて、彼女の両親は村を去った。

 しばらくして、盗賊が村に来るようになった。きっと村を出てったあいつらが呼び寄せたんだと誰かが言った。『悪者』探しがまた始まった。さて悪事を働いたのは誰か。厄を引き寄せたのは誰か。そこに住む老夫婦か。そこにいる汚い子どもか。そこで咳をしている女か。

 ――そういえば、お前のところはまだ盗賊に押し入られてなかったな?


 沈黙がおりた。オメットだけがジャンヌとメアリーをちらちらと見ていた。

 ぽろり、と一粒透明な水滴がジャンヌの頬を伝った。


「あれ……」


 続いてぽろぽろと涙がこぼれ始めたジャンヌを見て、オメットが慌てて自分の手でジャンヌの頬を拭う。ジャンヌは顔を歪ませるでもなく、ただ茫然と涙を流していた。


「メアリー!」


 オメットがメアリーを睨みつけた。


「あたしやっぱり、あんたのこと好きになれない。あたしの大事な友達を泣かせるあんたなんか、もう知らない」


 オメットの澄んだ青い瞳にメアリーが映った。だけどメアリーには自分の姿がよく分からなかった。だって彼女の目は小さいから。なのに大事な友達を守ろうとするオメットの姿だけはよく分かったのだ。


 しばらくして、メアリーは何も言わずその場を去った。

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