異端者のオンゲージモン

白樺セツ

第1話 嫌いな人

 初めて会ったときにジャンヌのことが嫌いになった。

 それは彼女を知る人の中ではとても稀な部類に入る。


「ねえメアリー、わたしたち明日ヴォージュの森へ遠足に行こうと思うの。あなたも行かない?」


 偶然出くわしたジャンヌからそう言われた。黒い瞳は不安そうにメアリーを映していた。そのそばには彼女の親友である四歳年下のオメットが、その青く大きな目で黙ったままじっとメアリーを睨んでいる。断ったら許さないと考えていることがバレバレだ。偶然などではなく、ジャンヌがわたしを誘うために来たのだろう。


 くす、とメアリーは笑った。


「そうね、行こうかしら」


 メアリーが自身の明るい茶髪を指でいじりながら言うと、ぱあ、と分かりやすくジャンヌの顔が明るくなった。


「でもちょっと遅れるかも」


「いいのよ、来てくれるならそれで」


「そう。ありがとう。それじゃあ明後日になったら行くわ」


 すっ、とジャンヌの顔が悲しそうに色を変える。オメットが顔を赤くして眉間にしわをいくつも作った。


「ちょっとあんた、せっかくジャネットが誘っているのに酷いじゃない!」


「酷い? ただわたしはわたしの都合を述べただけよ。貴女たちがいるときだと、わたしは口がとっても忙しくなるの。だから休むにはあなたたちがいなくなってからじゃないと」


 結局その日の口喧嘩は、メアリーの悪態に負けて泣きながら怒るオメットをジャンヌがなだめるまで続いた。

 メアリーは口が上手く、オメットはすぐ言葉に詰まる。それはいつものことで、けれどこの日のオメットはまだ頑張った方だ。まあ、結局メアリーは痛くもかゆくもなかったわけだが。

 そんな調子だから、メアリーはこのドンレミ村で友人の一人も出来ていない。しかしそれはメアリーにとってとても気楽なことだった。


 ドンレミ村に来て三年経つものの、まだもとの村で暮らした記憶の方が色濃く残っている。このドンレミ村もまだ絶対に安全とは言えないが、それでも生まれ育ったもとの村よりも圧倒的に空気がましだった。

 メアリーのいた村は……あれは、そう。つまりはタールのようなものだったのだ。べったりとタールに浸かってしまったような村。便利で厄介な空気に、思わず口をつぐんで古い慣習のままに生きる村。


 今、メアリーはこのドンレミ村で歯に衣着せぬ物言いができる。嫌われるけれど、叱られるけれど、それだけだ。それだけですむ。なのに……いや、だからこそ疑心は完全には消えない。その火はメアリーの中で今もずっと消えずにくすぶっている。いつ燃え上がるともしれない、危険な火だ。

 ドンレミ村で一番気立てが良く真面目で信心深い優等生。それは間違いなくジャンヌを指す。そんな彼女に悪態ばかりつくのはただのひがみだろうと言われ、言ったやつが泣くまで罵倒すればジャンヌ自身が仲裁に入るのだからメアリーの神経はまた逆なでされた。

 本当ならば、メアリーはジャンヌに対して感謝してもしきれない立場だ。戦禍から逃れてきたメアリーたち一家をこの村で一番に受け入れたのは彼女だったのだから。




 あのとき、十になったばかりのメアリーは布に包まれ眠る弟を背負っていた。

 母は咳をしていて、父はあちこち怪我をしていた。ドンレミ村には入れたものの世情は優しくなく、その日は村の隅で野宿をすることになった。


 ヴォージュ山脈と平地との間。そこはロレーヌとシャンパーニュの境で、ずっと戦禍に見舞われている場所だ。理由は簡単だ。片側に『敵』がいるからそうなる。だから多くの人は余裕をなくして、よそ者には強い警戒心を持っていた。ドンレミ村も同じで、避難民であるメアリーたち一家に積極的に手を差し伸べようとする者はそういなかった。


 もうちょっと元気なら、小枝と枯れ葉で簡易のベッドを作ることが出来た。だけどメアリーにはそんな体力もなかった。ぐずり始める弟をあやす自分の手は傷だらけで、伸びた爪の先は泥がつまって黒くなっていた。

 父はまだ起きていて、静かに横になっている母の頬をなでていた。大丈夫だ、と示すように父はうなずいて見せた。だけどもメアリーはちっとも安心はできなかった。

 寒くはないかという父の問いに、大丈夫と言う。だけどこれから冬が来たら大丈夫ではなくなるのだろう。


 今起きている戦争はメアリーが生まれる前からずっと続いている。自分が体も心も幼く、知識も乏しいと知っていた。けれどこの戦争が王位継承のいざこざでずっと昔から続いてきたものだということだけは知っていた。

 今、フランスにはちゃんとした王様がいない。フランスの王太子様はお家に帰られなくなってしまったのだ。

 王太子派とも呼ばれるアルマニャック派はブルゴーニュ派というものに敵対していて、ブルゴーニュ派はイングランドと手を組んでいるらしかった。だから『敵』がどこの出身であろうとほとんどの人にとってそれは『イングランド人』だった。


 フランス王家もイングランド王家も、メアリーにはどうでもいい。そいつらはわたしたちの暮らしを守ってくれるのか。メアリーには厳しい税を取るばかりの領主をぽんぽん生み出すだけの厄介者なのだとしか思えない。

 それにしたってどうしてこう、自分が生まれる前に終わってくれなかったのかと思う。戦争は人の心を歪ませる。メアリーは平和というものがよく分からない。

 これからわたしたちは、どうなるのだろう。そう思ったときだった。


「大丈夫?」


 ほとんど閉じかけた目を大きく開いた。弟を抱いて眠ろうとしていたメアリーの目の前に、すまなさそうに眉尻を下げている者がいた。メアリーと同い年くらいの少女だ。


「立てる?」


 少女はメアリーに手をさしのべて言った。ここの村人であることは確実だろうが、これは一体どうしたことだろう。この村に来てから今まで、村人たちからは怪訝な目しか向けられなかったのに。それとも同情を言うためだけにやってきたのか。


「ジャネット、先に行っちゃだめだよ」


 若い男の声。いよいよメアリーは警戒心をむき出しにした。ジャネットと呼ばれた少女は緊張したように自身の両手をぎゅっと握りしめた。


「あの、もしよければわたしの家に泊まりませんか? 食べものはあまりないけど……」


 何を言っているのか全く分からない。こんな風体の人間を家に迎え入れようなどと、相当のお人好しなのか、それとも頭がおかしいのか。普通は見て見ぬふりだろう。


「いた、ジャネット……ここか」


 後からやってきた男が顔を出した。メアリーと、後ろで様子を見守っていたメアリーの父に向かって頭を掻きながら言う。


「見ての通りこいつが言い出しっぺだよ。あんたらのことほっとけないってさ。いつものことだし、たぶん親父も許してくれるだろうけど、もし変なことしたら俺は容赦しねえから」


「兄さん!」


「ああもう、うるさいなあ。少しくらい感謝しろよ」


 いきなり目の前で喧嘩をし出した兄妹を、メアリーは怪訝な目で見るほかなかった。一体こいつらは何が目的だろう。わたしたちから奪えるものなど一切ないというのに。


 だけどしばらくして、御言葉に甘えようという父の言葉にメアリーは仕方なく従った。




 ジャネットという少女の家は、素朴な、しかしメアリーにとっては立派な石造りの家だった。農民でもまだゆとりのある家なのだろう。


 迎え入れられ家の中に入ると、少しばかり空気が暖かく感じた。台所で火を使っているのかもしれない。

 ジャネットにうながされるまま近くの椅子に座った。父に助けられ母もなんとか座った。ジャネットの母らしき女性がスープを持ってきて、メアリーはそれをじっと見つめた。底の深い皿によそわれた透明なスープに野菜のくずが浮いていた。表面がかすかに光で反射してゆらめいている。それからやや大きめの丸いパンが一つ机に置かれ、メアリーは父に促されて家族分ちぎってそれぞれに配った。


 無言のまま食事は始まり、お腹は空いていたけれどなるべくゆっくり食べた。いきなり食べると胃が震えてせっかくの食べものを吐き出してしまう。

 薄味のスープは温かかった。貰ったパンは固くて噛めなかったから、スープに浸して食べてみた。少し柔らかくなったパンから、じわりとしたたるスープの感覚がとても美味しかった。弟の口元にスープに浸したパンをくっつけると、弟はあぐあぐと口を動かしてスープの滴るパンをなめて吸った。


 食事に夢中になっていたメアリーだが、いつの間にか見知らぬ男が食卓の近くに立っていることに気が付いた。男はメアリーたち一家の食事が一息つくのをみはからい、自己紹介をした。

 ジャック・ダルク。ジャネットの父で、ここの家主。

 ジャネットとは違って、この男はちゃんとわたしたちを疑心に満ちた目で見た。そのはっきりとした口調は、メアリーたちのことを好ましく思っていないと言外に伝えていた。それに比べて、ジャネットの母親、イザベルは幾分か優しかった。気づかう言葉のはしばしに信心深さを感じた。


 ジャネットはメアリーたちを寝室に案内をした。お客様用だと彼女は言っていたが、それは彼女の寝室であることに間違いなかった。事実、翌日起きてきたメアリーに、昨日見かけたジャネットの兄が、よく恩人のベッドを使う気になれるよなと嫌味を言ってきた。どうやらジャネット自身は屋根裏部屋で寝たらしい。


 ジャネットはそれからもメアリーたちに良くした。メアリーたち一家がドンレミ村に移住することを決めたときには、はりきってその手伝いをした。

 実家はすでに住める状態ではないし、今もとの村に戻れば確実に盗賊の餌食だ。メアリーたちが避難したのは、村に盗賊が来るようになってしまったからだった。赤ん坊を抱える体の弱まった母と、一人娘のメアリー。

 父はこのまま村で耐えることより、まだ安全な場所へと移住することを決心した。でも親戚がいるはずだった村はすでに焼かれた後で、行くあてがなくなったどころか、血縁者が消息不明になっていた。ジャネットの父、ジャックは一応その村の生き残りについて気には止めておく、と言っていた。期待はできなかった。

 

 ジャネットはいろんなことを教えてくれた。


 まず教会の場所、それからドンレミ村の風習についても聞いた。聖歌を歌う日曜日には、近くのヴォージュの森に行き《婦人たちの樹》と呼ばれるブナの巨木の下で歌って踊り、そばにある泉の水を飲んでその周りで花を摘んだりするのだとか。泉の日曜日と呼んでいるらしい。


 生活の基盤は、ほとんどジャネットを通して作られた。

 それからドンレミ村へやってきて三年過ぎたころ。

 その頃にはすでにジャネットという名前が愛称であり、本当はジャンヌという名であることをメアリーは知っていた。

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