8.星のある夜(6)
時の魔女は部屋に香を焚いて、シンゲツを迎えた。カールたち三人はとっくに帰っていたが、スグラスだけは変わらずソファで寝ている。
「この煙、どうにかなんないの?」
姿を現したシンゲツは、わざと咳き込んで文句を言う。
時の魔女は、ソファを囲むように大きく描いた魔法陣の中に立っていた。シンゲツは中に入れない仕様だ。
「あなたが不用意に私の名前を呼んだりしなければ、結界なんていらないのよ」
「あはは、僕のせい? 自業自得って言いたいの?」
シンゲツは黒髪の五十代くらいの男の姿をしている。子供じみた笑い方が似合わないこと甚だしいが、時の魔女の前に現れるときはいつもこの初代サントランド国王の姿だった。
「君の名前を呼べるのはもう僕くらいでしょ? ゲートリデートバトリー」
シンゲツが名前を呼んだ途端、家具が音を立てて揺れ、窓ガラスにひびが入った。時の魔女は踵を鳴らし、一瞬で場を収めると、
「さあ、どうかしらね」
同じ称号を持つ魔女が複数いたうちは良かったのだが、一人になったら誰からも名前を呼ばれなくなった。名前を呼んではいけない魔女の名前は、ほとんど誰も知らない。
時の魔女は思わせぶりに笑ってから、「私の話はいいのよ」と首を振る。
「それで、どうだった? ニナに名前を呼んでもらえたのかしら?」
「ああ! それ! 呼んでもらったよ。魔女ニナはいいね。気に入った! 思いがけずいいものをくれたからね、契約したんだ。勝手に連れ出さない、触らない、閉じ込めない。そんな約束をさせられたよ。おかしいだろ? 僕が! 闇の王たる僕がだよ!」
芝居がかった動作で、実に楽しそうに嘆いてみせる。時の魔女はニナに大いに同情した。ニナを守護したエヌの、彼を厄災だと判断した気持ちもわからないこともない。
「いいものって?」
「それは秘密」
自分の狙った以上にうまくいったのだろう。
「それじゃあ、交換条件ね」
「ああ、約束だったね。さて、僕は何をすればいいんだい?」
シンゲツはニナとの接触を望んだ。時の魔女が望むのは、
「この人から種を出してあげてちょうだい」
ソファの上のスグラスを示すと、シンゲツは眉を寄せた。
「種って、あの闇の種? それよりもこいつはあのときの黒幕じゃないのか? 王家の血に連なるから何もできなかったが」
「種のせいよ。あなたどうして気付かなかったの?」
「あんな建国前の呪いなんて、もうなくなったと思ってたよ。力も弱いし、小さすぎてわかりにくい。……ふん、なるほどね」
シンゲツは、スグラスを顎で指し、「手を」と短く言う。時の魔女は一歩横にずれ、魔法陣を自分に合わせて動かした後、スグラスの右手を取り上げ陣の外に出した。その人差し指を抜くように引っ張ると、シンゲツの手の中には小さな黒い塊が残った。木の実の燃えかすにしか見えない。
「こんなものに出し抜かれたのか」
シンゲツが親指と人差し指で押しつぶすと、さあっと霧散した。
「カールが生まれる前だったわね」
時の魔女が過去に思いを馳せると、シンゲツも遠くを見る目をした。
「君はこの男から『兄の子を害する魔法』を依頼された」
「ええ。どうせ魔法の攻撃ならあなたが守るでしょう? 私はあなたに知らせた上で、彼の依頼に応じた」
時の魔女の魔法具はリーンを相手に使われ――スグラスはもちろん人を雇って襲わせた――、その請負人はシンゲツが跳ね返した魔法をまともに受けて右目に怪我をした。それで終わるはずだった。
「まさか、もう一人『兄の子』がいたなんてね」
時の魔女もシンゲツも、そしておそらくスグラスも、カールが王妃の腹の中に宿っていたことを知らなかった。
「胎児の存在は不安定だった。僕の守護からは外れていたのに……」
「私の魔法の対象には入ってしまっていた」
シンゲツは寸前で守り、最悪の事態は避けたものの、カールの顔には傷ができた。
そんなわけで、時の魔女とシンゲツはカールに負い目があるのだ。
ため息をつく時の魔女を見遣り、シンゲツは聞く。
「今さらだけど、君の魔法の対象にカールが含まれたのは、どうしてだったんだろうね? 最初は君に騙されたのかと思ったよ」
「わからないわ。ただ、私はずっと昔に子どもを産んだことがある。思いつくのは、そのくらいね」
「ふうん、子どもね。……人間のことは、結局僕には謎だらけだよ」
君だってそうだ、とシンゲツは続ける。
「君なら、僕に頼んで種を取り出すなんてまどろこしいことせずに、えいっとやってしまえたんじゃないの?」
シンゲツはニヤニヤ笑って、短剣で刺す仕草をした。物理的な攻撃ならシンゲツも跳ね返せない。
時の魔女も何度そう思ったかわからない。
「私の落ち度でもあったから、というのは言い訳ね。一番効果的に打ちのめすにはどうすればいいかタイミングを計ってるうちに、情が湧いたのよ」
昔から優秀な兄と比べられて、何をやっても空回りしているスグラス。呪いの影響を受けていたせいもあるだろうけれど、大小様々な騒動を引き起こして、結果肉親からも疎まれている。――見ているうちにかわいそうになってきたのだ。
「君の男の趣味は、相変わらずだなぁ。時の魔女が聞いて呆れるよ」
「放っておいて」
「まぁいいよ。どうでもね。……それじゃあ、機会があればまた会おう」
シンゲツは、軽く手を振って、
「金の薔薇によろしくね」
黒い霧になって、香の煙に混ざって消えた。
時の魔女は魔法陣を片付けると、窓を開け煙を逃がした。果実酒と焼き菓子を用意してから、シンゲツを呼んだときに比べるとずいぶんと小さい新しい魔法陣を描く。今度は自身が中に入る必要はない。
「エヌ、いらっしゃい」
それだけの一言で、時の魔女はエヌを召喚した。
「簡単に呼びつけないでくれる?」
エヌは不機嫌に髪をかき上げ、時の魔女が用意した椅子に座った。自分の想像が的を得ていたことに、時の魔女は軽く目を瞠る。
「本当に? そうなの?」
魔法陣に描いた母を意味する模様。それに、時の魔女はエヌの育ての母だった。子どもを産んだこともある。朱い海の影響を受けたとも聞いたから、試してみたのだが、こんなにうまくいくとは思っていなかった。
エヌは時の魔女を睨んだ。
「あの闇の魔物、ニナを気に入ったみたいね。守護って言っても、ニナの意に沿わないことはできないんだから、馬鹿みたいに見ているだけ。私がどれだけイライラしたか! どうしてくれるのよ?」
久しぶりに会った上に、エヌは魔物になっている。それなのに、お互いに挨拶すらしない。二人はいつもそんな感じだった。
「あなただって、王家の依頼を残していったくせに」
「あれは、ニナから先に辿り着けたら、逆に魔物を制することができるかもって思ったのよ。実際そうでしょう?」
口を尖らせるエヌに、時の魔女は苦笑する。
「当代唯一の名前を呼んではいけない魔女の名前を知っている魔女、それがニナよ」
それを聞いたエヌは息を飲んだ。
「まさかニナが? 私も知らないのに」
「ええ。私は教えていないわ。どうして知っているかはわからない」
エヌは椅子にふんぞり返って、足を高く組む。果実酒のグラスを一つ手に取った。
「ああ、全く! 金の薔薇と白磁の葉を飾って、時の魔女の秘密を握り、闇の王を虜にして……」
「人の王も、時間の問題でしょうね」
エヌのセリフを時の魔女は引き継ぐ。エヌは舌打ちで答えた。
時の魔女もグラスを手に取って、エヌのそれに軽く合わせた。高い音が響いて、夜を震わす。
「なんでお菓子しかないのよ」
「魔物のくせに、つまみに文句を言うつもり?」
昔と変わらない応酬に、母娘は顔を見合わせて笑った。
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