8.星のある夜(2)

 時の魔女は「まだ仕事が残ってる」と言って帰っていった。ニナは一人でカールを診ていた。ベッドの横に椅子を置いて、彼の手を握ってみる。シンゲツの影響なら、ニナの魔力で回復が早まったりしないかと思ったのだ。

 貴族の――ましてや王様の手なんて、傷一つない綺麗なものなんだろうと思っていたのに、カールの手は剣を使う人の手だった。手のひらは固く、マメができていて、爪は磨かれてはいたものの短く整えられていた。指にはペンだこもある。

 ニナが「すごい」の一言でまとめてしまった裏には、きっと途方もない努力があるのだろう。それなのに彼の自己評価は「大したことない」なのだ。

「う……」

 カールがうめいたから、ニナは顔を覗き込む。端正な顔が苦しそうに歪んでいる。

「カール? 大丈夫?」

 手を放そうとしたら逆に強く握られた。カールからの返事はなく、目が覚めたわけではなかったらしい。ニナは空いている手で、落ちかけた手巾をカールの額に乗せ直す。そのまま手を当てていると、眉間の皺が消え、表情が落ち着いたので、ニナはほっと息を吐いた。

 カールの顔の傷が目に入った。ニナはそっとそれに触れる。魔力が宿っている気配はない。普通の古傷だ。

 皮膚が盛り上がってうっすら赤みが差しているけれど、あんなに必死に隠すほどの傷とは思えない。ラルゴの方が痛々しいし、迫力があり、相手に与える影響は大きい。それに比べたら、カールの傷は小さいほうだ。

 ドアが開く音がして、ニナは傷に触れていた指を離す。振り返るとリーンだった。簡素な庶民のドレスなのに、姿勢の良い足音のしない歩き方には気品がある。黒い色の大きな瞳が印象的な小柄な女性だ。後ろで一つに束ねた髪は煉瓦色だけれど、女将が染めていると言っていたから、きっと元々はカールと同じ黒なのだろう。

「どうでしょうか?」

「まだ寝てます」

 立ち上がって場所を開けようとしたら――カールに握られた手が離れなくて立ち上がれなかったのだけど――、リーンはニナを手で留め、自ら椅子を隣に持ってきて座った。

 自己紹介だけしたものの、リーンときちんと話すのはこれが初めてだった。王女に対する口調や振る舞いなんて全くわからない。もっとも、王であるカールに対してずいぶんぞんざいな口をきいてしまっているので、今さらかもしれない。

「カールを守ってくださって、どうもありがとうございます」

 リーンは丁寧な言葉で、ニナに頭を下げた。ニナは慌てる。

「全然、そんなことない、です。守ってもらったのは私の方で、怪我させてしまって……」

 ニナがカールを見ると、リーンもそれを追った。ニナの手の上から、リーンはカールの手を握る。そのせいでニナは手を放すタイミングをますます失ってしまった。

「カールのことを、わたくしも守ってあげたいといつも思っているのですが、力不足で、だめですね。自分の身もろくに守れず、逆に守ってもらってばかりですわ」

 何て言ったらいいのかわからず、ニナはどうにでもなれと気になっていたことを聞く。

「カールの傷、そんなにひどくないと思うのに、どうして隠してるんですか?」

 気を悪くするかと心配したけれどそんなことはなく、

「王位に就いても変わっていないのですね……」

 そうつぶやくと、リーンは深いため息をついた。

「カールの右目の傷は生まれたときからなのです」

「生まれたときから?」

「ええ。そのせいで、お母様はカールを遠ざけてしまいました」

「え? こんな傷一つで?」

 リーンは静かにうなずく。

「王城にはレフトレア宮という建物があります。以前は『王のサロン』と呼ばれていました」

 突然変わった話題に、ニナは黙って耳を傾けた。

「美しいものには力がある――魔女の世界では常識ですわね?」

「はい」

「王家でもそうなのです。美しいものを集めることで、王の力を誇示していました。サロンには、外国の珍しい動物や綺麗な花が集められ、人も集められていました。見た目が美しい人、美しい音楽を奏でる人、美しい絵を描く人……。芸術家は王がパトロンになってサロンから作品を発表しました。見目麗しい女性なら王の愛妾に、男性なら侍従になったりもしました。無理やり閉じ込めて出歩くことを禁止するような、不健全なものではなかったのですが、……見せびらかすのが目的ではありましたし、時代によっては、その……人と思わないような扱いがされることもあったようです」

「今はないんですか?」

「ええ。先王が廃止しました。今でも残っているのは、タウダーラーの里からの人質をサロンに住まわせるという掟だけです。それがシイナです」

 リーンの瞳が揺れた。悲しげに少し微笑む。その掟がなかったら、きっとリーンとシイナは出会わなかった。

「タウダーラーの存在は秘されていて、人質を取る決まりはサロンとは別の背景があったため、シイナは今でもレフトレア宮から出ることができません。あなたが彼の翼を消してくれて、やっと出ることができるのです。……そのことも、感謝させてください。どうもありがとうございます」

「いえ、それはエヌが」

「ふふっ。魔女エヌは偉大ですわ」

 恐縮して首を振るニナに、リーンは片目をつぶる。

「お父様が王子だったころ、まだサロンはありました。エヌの美貌を聞きつけ、自分のサロンに迎えたいとエヌのところに行ったそうなのですが、こっぴどく断られたらしく……何を言われたのかわかりませんが、サロンを廃止することに決めたのはその後です」

「そんなことが……」

 先王崩御の知らせを聞いてエヌが痛ましげにしていたのは、知り合いだったからなのか。

「もうサロンはないのですが、美しさへの信仰は根強くあって、自分の産んだ子どもに傷があることが、王家の傍流から嫁いできた母には耐えられなかったようです」

「そんなのカールのせいじゃないのに」

 ニナは改めてカールの傷を見る。

 ただの傷だけれど、ニナは魅力を感じ、名前をつけた。

 ――稲妻のしるし。

「美しいものには力がある」

 ニナは言葉に力を込める。

「でも、完璧なものだけが美しいとは限らない。不完全なものに宿る美しさもある。私は、カールの傷は綺麗だと思う。この傷には力がある」

 魔物が現れるわけでも、魔法が発動するわけでもない。リーンが何も言わなかったから、わずかに沈黙が流れた。

 ニナは少し気まずくなって、取り繕うように言い足す。

「私はこの傷好きです」

「ええ。わたくしも、そう思いますわ」

 リーンの笑顔に、ニナもほっとして微笑んだ。

 そのとき、カールが身じろぎした。はっとして目をやると、カールの瞼がうっすら開いた。

「……ん……」

「カール! 起きたの?」

「ニナ?」

 ニナと目が合うと、カールは身を起こそうとして、うめいた。

「ううっ……。ああ、殴られたのか……」

「大丈夫?」

「大したことはない。それより、あなたは無事か?」

「うん、私は大丈夫」

「そうか、良かった……」

 ニナがうなずくと、カールは微笑んだ。そうすると、確かにリーンと姉弟なのだとわかる。

「ここはどこだ?」

「カール、久しぶりですね」

「リーン? なぜ?」

 リーンが立ち上がり、前に出る。ニナは下がりたかったのだけど動けず、

「カール、手放して」

「え? あ。ああ、すまない」

 カールが手を放してくれたから、ニナはリーンに場所を譲る。リーンがカールに状況を説明している間に、ニナは時の魔女が置いていった薬湯を用意した。

 今さら態度を改めるのもおかしく、カールが国王とわかった今もニナは前と同じように話した。

「飲んで」

 リーン経由で受け取った器に口を付け、カールは顔をしかめた。見た目と匂いがちっともおいしそうではないから、だいたい想像がつく。

「それ、時の魔女の薬だから、すごく効くと思う」

「時の魔女が?」

 後で高額な代金を請求されなきゃいいが、とカールが言うのに、ニナは否定できなかった。

「あの、カール。怪我させてごめん」

 ニナはそう言ってから、そうじゃないと思い至る。魔物相手なら簡単に言えるのに、人相手だとなぜかうまくいかない。

「守ってくれて、どうもありがとう」

 ニナがそう言って笑うと、カールは目を見開いて固まった。それから、リーンの手に器を押し付けると、顔をそむけて、

「いや……それより、僕の方が先にやられてしまってふがいない。あなたが怪我しなくて良かった」

 それだけ言って、また横になる。感謝の気持ちが伝わったのならいいや、とニナはリーンから器を受け取って片付ける。

 後ろでリーンの笑い声が聞こえた。

「あら、まぁ……うふふ……」

「リーン! 笑わないでくれないか」

「ふふ、ごめんなさい」

「僕はもう少し寝る」

 姉弟の仲は良さそうで、ニナは安心した。

 そう思うと、自分はシイナとほとんど話していないことに気付き、どうしたらいいのかと悩むのだった。

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