7.月のない夜(3)

 二人で外に出る。カールが先に立って歩いた。

 ワカバ通りは夜でも人通りがあった。食材の店は閉まっていたが、カウシ亭のような食堂がいくつかあり、灯りが漏れている。おいしそうな匂いが外にも漂っていた。

 王都まで旅する間に月も変わり、もう春も近い。それでもまだ冷たい空気を吸い込んで、ニナは空を見上げた。建物の屋根で縁取られた空には、ニナも知っている星座が見える。ニナにとっては長い旅だったけれど、星座が変わるほどの距離ではないのだ。なんだかおかしくなって、ニナはくすりと笑った。

 その笑い声が聞こえたのか、カールが肩越しに振り返る。

「今、笑ったのか?」

 何でもないと言いかけたけれど、カールの顔が真剣だったから、ニナはきちんと答えることにした。

「何日も旅して、遠くへ来たと思ってたけど、空から見たら大した距離でもないんだなと思って」

 そういえば、アマネはオークルウダルー村と王都を一瞬で行き来していた。魔物にとっても大した距離じゃないらしい。

「僕は王都から出たことがない」

 話をするならと、ニナはカールの横に並ぶ。

「私も初めて旅をしたんだけど、知らない場所に行くのは楽しいよ」

「そうか」

 カールは気のない返事をしたかと思うと、不意にニナの手を引いて、横道に入った。

「走れるか? つけられている」

 ニナはうなずくまでもなく、カールに連れられて走った。昼間に迷い込んだ路地よりも広く、物が置かれてもいないから、走るのに問題はなかった。後ろから追ってくる足音がする。

 全力で走ったけれど、あっという間に追いつかれた。ニナに手が伸びる寸前に、カールが引き寄せてくれた。

 対峙した相手は、中年の男だ。普通の市民のように見えた。剣も下げていない。ニナは、またリーンとシイナの追手だと勘違いされたのではないかと一瞬思ってしまった。

 カールは腰に手をやり、小さく悪態をついた。剣を抜こうとして持っていないことに気付いたのだろう。

 ニナを抱き寄せたまま、男に問いかける。

「何の用だ?」

「魔女エヌのことだ」

 カウシ亭でカールが言ったセリフだった。目くらましの魔法をかける前に聞かれていたらしい。

「離して。魔法具があるから」

 ニナが囁くと、カールは腕を緩めた。ニナは男に気付かれないようにポケットを探る。

「うっ!」

 カールのうめき声がして、ニナに彼の体重がのしかかる。支えきれず、二人でその場に座り込んだ。

「カール!」

 後ろにも男が立っていて、木の棒を持っていた。それでカールは殴られたのだ。

「おい、やりすぎだ」

「エヌの情報を持っているのは娘の方だろ。野郎は邪魔だ」

「子どもだろうが」

 男たちは話しながら、ニナの腕を引っ張った。釣り上げられるようにされ、ポケットから出た左手には魔法具が握られていた。ニナは人差し指でそれを擦る。視線はカールに向けられていた。ぐったりと倒れた彼の髪は乱れ、傷がむき出しになっている。こめかみから目の下にかけて走る稲妻のしるし。

 ニナは男の脛を力いっぱい蹴ると、掴まれた腕を振り払い、一歩下がった。カールを背に、男たちに向き直る。魔女の血をつけた魔法具を彼らの足元に投げつけた。

 瞬間、闇が落ちた。

 魔法具から大きな空気の塊が発射されて、男たちが飛ばされる。視界から消えた。

 これは厄災の闇だ。

 ニナも反動でふらついたが、踏みとどまる。

 ニナの胸の前に拳大の薔薇色の光の玉が浮いて現れ、少し明るくなると、襲ってきた男たちが倒れているのが見えた。彼らは倒れたまま動かない。

 あの魔法具にここまでの威力はないはずだ。風を起こす魔法陣が刻まれていたけれど、せいぜいでも相手を数歩下がらせる程度の風で、吹き飛ばすなんて無理だ。でも、ニナは魔法を放つとき、制御をしなかった。強くとも思わなかったけれど、加減しようとも思わなかった。そんな中、無意識に、カールの傷――稲妻の力をイメージしなかっただろうか。

 ニナはゆっくりと男たちに近付く。

「こいつらを生き返らせてほしいと思わない?」

 籠った低い声が聞こえ、ニナは立ち止まる。男たちの上に厄災の魔物が浮かんでいた。周囲の暗さよりも暗い、闇の玉。

「死んじゃったの? 私が殺した?」

 ニナの声は知らずに震えた。

 人を攻撃するために魔法を使ったのは初めてだった。効果はきちんと理解していたのに、それを向けられた人がどうなるのかはあまり考えていなかった。こんなはずじゃなかったのに、という言い訳はできない。

「死んでないものは、生き返らせるとは言わないね」

 魔物はからかうように、男たちの上をぐるりと旋回する。

 辺りが一瞬で眩しくなり、薔薇色の光の玉が膨らみ、ニナを包み込んだ。このままではこの場から引き戻されてしまうと思い、ニナは叫ぶ。

「エヌ、待って! お願い!」

 すると、徐々に光が弱まり、元の大きさの玉に戻った。ニナは押しつぶさないように注意して、そっと両手で引き寄せる。

 魔物は、ニナが抱えた光の玉には目もくれず繰り返す。

「どうする? 生き返らせてあげようか?」

 ニナは両足に力を込め、顔を上げる。ゆっくりと首を振った。

「いらない。私の魔法の責任は私が取らなきゃ」

「生き返ったら、魔法はなかったことになるんだから、責任なんて取る必要はない」

「なかったことにはならない。私は忘れない」

 ニナは魔物を見つめる。

「忘れさせてやると言ったら?」

「だめ。忘れない。それに、人を生き返らせるなんて魔法は、世界に影響する。良くない」

 魔物は黙った。闇の玉は、黒い霧か煙を集めたような感じで、風の魔法で薙ぎ払ったら消し飛ばせそうだった。けれど、そんなことをしようとしたら、魔法が発動する前にニナが消されるだけだろう。

 三度呼吸を数えたころ、魔物がふるふると震えた。笑っているようだった。

「うん、うん。かわいいね。気に入ったよ」

 魔物がそう言うと、男たちが低くうめいた。

「生き返らせたの? だめって言ったのに!」

「僕は、こいつらが死んだとは一度も言ってない」

「え?」

「君の魔法に上乗せした僕の魔力を引いてあげたよ。君の魔法だけなら、擦り傷程度だ。良かったね、殺してなくて。目が覚めたらうるさいだろうから、もうしばらく寝ていてもらうつもりだけど、それは構わない?」

 ニナは無言で首を縦に振る。なんだか面倒な魔物だ。こんなのに気に入られたのなら、それは確かに厄災かもしれない。

 男たちはいいとして、ニナは今度はカールが気になった。魔物から目を逸らさずに後ずさると、カールのところまで戻った。

「カールも無事だよ。ちょっと寝てるだけ」

 魔物が言った通り、しゃがんでそっと頬に触れると、温かい。息があるのを確認して、ニナはほっとした。

「君をずっと探してたんだ」

 魔物が近付いてきたため、ニナはカールを庇うように前に出た。少し距離を置いて止まった魔物の黒い霧が大きく広がり、形を変え、すうっと収縮すると、そこにいたのはカールだった。ただし、その顔に傷はない。前髪も短かった。しかしそれは些末な差で、力の抜けた立ち方やニヤニヤ笑う様子がカールとは全く違っていた。

 本物のカールはニナの後ろで倒れている。

「やあ、金の葉の君」

 カールの姿をした魔物は、楽しげに両手を広げる。魔物の声はカールとは違って、大人の男の声だった。

「はじめまして。僕はシンゲツ。意味がわかるかい?」

 辺りは真っ暗だ。わからないわけがない。

「新月」

「そうだ。ふふふ。いいね。君に呼んでもらうと格別だ!」

 一人で笑うシンゲツをニナは見遣る。いちいち言動が不愉快だけれど、怖くはない。

「金の葉の君。僕は名乗ったよ?」

「私は魔女ニナ。魔女エヌの娘」

「ああ、それで」

 シンゲツはニナの抱える光の玉を一瞥した。

「直接会ってやっと気付いたんだけれど、君は白い翼の姫でもあるね?」

「姫ではないけど、タウダーラーの娘って意味なら、そう」

 シンゲツはまた、くすくすと笑った。

「納得だよ。魔女エヌは、メラエールとスグラスが揃って手に入れたがった宝石。タウダーラーは、サントランド王家が苦労して手に入れた秘蔵の芸術品。君はその二つの系譜に連なっているんだ。僕が気になるのも当然だ」

 エヌやタウダーラーをモノ扱いされ、ニナは顔をしかめる。それをどう思ったのか、シンゲツは、

「ああ、言ってなかったね。僕は王家の守護をしているんだ。もちろん、したくてやっているんじゃない。不本意だけど、僕の由来が王家の闇なんだから、仕方ない。豪華なお城に暮らして皆にかしずかれているけど、闇を飼ってるだなんて、笑えるだろう? あはは」

 ニナは彼の笑い声を遮った。

「どうしてその姿なの?」

「今はカールと一番近しいからさ。別の姿も取れるけど……えっと、これは先代メラエール。それで、これがそのまた先代のニール。あとは……」

 シンゲツは何度か姿を変えてみせる。年齢はバラバラだったけれど、全員どことなく似た黒髪の男だった。

「どう? ニナの好みはいた?」

「そんなことより、カールも王族なの?」

「へー、意外だな! カールが好み? 年が近いから?」

 ニナが無言で睨むと、カールの姿に戻ったシンゲツは肩をすくめた。

「カールは今の国王だよ。メラエール二世だ」

「えっ! 王様?」

 リーンの弟で、ラルゴが護衛していて、大したことはやっていないとカール自身が酷評した現国王――それがカール?

 ニナは慌てた。カールの隣に戻ったもののどうしていいかわからず、胸に抱いていた光の玉をカールの背中に押し付けてみた。

 そんなニナをシンゲツはニヤニヤと笑って見ている。

「守護してる人が怪我してるのに、よく平気でいられるね」

「心配ないってわかっているからさ。それに、魔物の守護は魔法を使わない攻撃には無力だ」

 シンゲツはカールの顔を見て、初めて笑みを消す。黒い双眸が闇に光った。

「魔法の攻撃を防げなかったのなら、僕だって気にするよ」

 傷のことだろうかと思って目をやると、それに気付いたシンゲツはニナの顔を覗き込んだ。

「ニナの頼みなら教えてあげないこともないけど。どう? 教えてほしい?」

「いらない。知りたくなったらカールに聞く」

「言っておくけど、カールは知らないよ」

「それでもいいよ」

 聞ける機会がこれから先にあるとも思えなかったけれど、それも含めて、ニナは返事をした。

「そろそろ、この場を元に戻して」

 ニナは背筋を伸ばして、シンゲツを見上げた。シンゲツは背後の男たちをちらっと振り返る。

「いいの?」

 ニナはポケットを探り、持っているだけの魔法具を取り出す。あと三枚だ。

 たぶん、どうにかなる。

「大丈夫」

「やっぱり、かわいくないか。いや、そんなところも魅力なのかな」

「わけわからないこと言ってないで、さっさと戻して」

「いいよ。こっちの仕込みも良さそうだ」

「仕込み? 何か企んでるの?」

「ひどいなぁ。ニナ、君のためを思って、時の魔女に使いを出してあげたのに」

「え、本当? それは助かる。ありがとう、シンゲツ」

 ニナが笑ってお礼を言うと、シンゲツは目を丸くした。それから、困ったように笑う。今までのニヤニヤ笑いとは違って、不愉快なものではない。

「ニナ、また会おう」

 そう聞こえたかと思うと、すとんと一気に闇が消えた。

 ニナは襲われたときと同じ場所に戻っていた。シンゲツの闇に慣れた目では、夜道ですら明るい。

 カールは倒れたままだった。本当に無事なのだろうか。薔薇色の光の玉も、闇と一緒に消えていた。

 一方で、襲ってきた男たちは意識を取り戻していた。シンゲツが言ったように擦り傷程度らしく、痛がりながらも起き上がる。

「この娘、何をしたんだ?」

「今のは魔法か?」

 ニナはカールの横に片膝をついて座り、魔法具を構える。直接攻撃するより、派手な魔法を見せつけた方が効果的かもしれない。それとも、時間稼ぎで防御に徹するべきか。できるだけ怪我をさせたくないし、周りを壊したくもない。でも、カールを守らなくてはならないし、自分が怪我するのも避けたい。

 今思えば、カウシ亭でシイナに魔法を止められたのはとても幸運だった。あそこで中途半端な気持ちのまま人を攻撃していたら大変なことになっていた。

 ニナが迷っているうちに男たちは体勢を整えていた。それぞれ木の棒を手に持っている。

 覚悟を決めなくては。

 震える指先に力を込めようとするニナの耳に、足音が聞こえた。

 助けかと安心する暇も、襲撃者の仲間かとおびえる隙もなく、あっという間に目の前の男たちは倒れていた。

「大丈夫か?」

 一瞬で二人を伸したのはラルゴだった。

「ラルゴ、助けて! カールが!」

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