7.月のない夜(1)

 カールは宿に戻ると、時の魔女を訪ねて隣の部屋の扉をノックした。そして返事を待って開けると、薬臭い煙に襲われた。

「な、何だこれは」

 口を押えるカールに、時の魔女は、

「申し訳ありません、陛下。今、換気しますので」

「ここで陛下はやめろ」

「はい。失礼しました」

 全く心がこもっていない謝罪を受け流し、カールは古いソファに座る。宿の程度は中の上といったところだ。貴族が使うレベルではないから、知っている顔に会うことはないだろうという理由で時の魔女が選んだ。カールは、彼女と二人で城を抜け出してここにいた。

「エヌには会えました?」

 窓を開けた時の魔女は、壁際に立つ。目を眇めてこちらを見ているのが、前髪で隔てていてもわかる。彼女の視線はいつも、自分の背後の別の場所を見ているようで落ち着かない。

「エヌには会えなかった。大魔女の占いも外れるのだな」

「あら、そう……」

 時の魔女は軽く目を瞠った。そういえば、あの金髪の少女――ニナと言ったか――も、カールの見解に驚いていた。

「エヌには会えなかったが、ニナに会った。あなたの弟子だそうだな」

「ええ。そうです。ニナと何か話を?」

「いや、邪魔が入ってしまった」

 ニナはエヌの情報を持っているようだった。それをこれから教えてもらおうというときに、大通りにラルゴの姿が見えたのだ。カールは慌ててその場を後にしてしまった。一人で下町を歩いているなどとラルゴに知られたら怒られるに違いない。

 城下に避難した姉――本当は駆け落ちだとカールは知っていたが――を連れ戻すために、ラルゴは城を出ていた。許可を求めた彼に、宰相のドーアンは「リーン様の帰還の手筈を整えておこう」と快諾して、カールも同意した。しかし、後からドーアンのいないところで、姉を見付けても戻ってこなくて構わないと言ったのだ。それなのに、彼が王都にいるということは、リーンもシイナも城に帰ってくるつもりだろうか。

「姉上には幸せになってほしい。シイナにも、ラルゴにも、だ」

 そう言ったカールに、ラルゴは微笑んで、

「皆、カール様にも幸せになってほしいと思っているんです」

「私? 私は幸せだろう?」

 叔父や母のことはあるし、傷のことも鬱屈ではあるが、政治上は特に大きな問題はなく、即位からの一年半が過ぎた。

 ラルゴは昔のように、カールの頭に大きな手を載せ、ぐるぐると髪をかき混ぜた。

「幸せに上限はありません。もっと望めるんですよ」

 あのときのことを思い出し、カールは髪に手をやる。右目の傷が隠れていることを改めて確認した。

 傷からの連想で、思考がニナに戻る。どういうわけか、彼女はカールの傷を綺麗だと評し、力を持っていると称えた。あの笑顔を見たとき、胸の奥に光が射したような気がした。

「ニナにもう一度会えないだろうか」

 カールは時の魔女に聞いた。

「なぜ?」

 その挑発するような笑顔は、明らかにおもしろがっている。

「ニナはエヌについて何か知っているようだった。彼女の話を聞きたい」

 無難な理由を提示してやると、時の魔女は鷹揚にうなずいた。どちらに主導権があるのかわからない態度だが、カールは気にしていなかった。百年以上生きているらしい大魔女に敬意を払ってもらおうなど、最初から望んでいない。

「わかりました。居場所を占いましょう」

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