5.白磁の葉(4)
エヌの家の焼け跡に、真っ黒に焦げた三本の柱が残るのを見て、ティサトは大きく息を吐いた。
「来てみて良かった……本当に……」
エヌの手紙の真意がわかった気がした。
焼け跡の周りは木がないため、森の中より雪が溶けるのが早く、土が乾いてきているところすらあった。しかし、家の土台がどれだけ残っているのかもよくわからないし、直接地面に魔法陣を描くのは無理だろう。
ティサトは、苦労してここまで連れてきた馬から荷物を下ろすと、白い布とそれより一回り大きい厚手の革を取り出す。白い布はニナに魔法をかけたときに使ったものと同じだけれど、こちらにはまだ何も描かれていなかった。用意してくることも考えたけれど、実際に見てからの方がいいだろうと思ったのだ。
エヌの家には大きな柱は四本あった。そのうち焼け落ちてしまった一本のあった場所に、ティサトは革を敷き、その上に布を載せた。これで布が濡れずに済むし、革に厚みがあるから地面がでこぼこしていてもなんとかなる。
ここは依然として魔女エヌのテリトリーだった。家は焼けてしまって焦げ臭い匂いがかすかに漂っているのに、エヌの魔法の気配はそれよりもずっと濃く残っている。エヌが自分とニナのために施した様々な魔法、――薬草がよく育つようにとか、洗濯物に日が当たるようにとか、そういう生活のための魔法が、まだ生きている。森は今でもエヌを覚えていた。彼女が戻ってくるのを待っているようだ。
「エヌがいないなんて嘘みたい」
ティサトは思わずつぶやく。
エヌの魔法とぶつからないように、ティサトは注意して魔法陣を描く。今回は、エヌから託されているわけだからそれほど心配していない。それに、これはティサトにも関わりがある魔法だった。
ここに家を建てたのは、ニナが生まれて一年経つか経たないかだった。人を雇って建ててもらったけれど、柱だけは魔法で作った。それにティサトも協力していた。
エヌと知り合ったのは十代前半のころだ。エヌは育ての親で師匠だった時の魔女のところを出て、ティサトの祖母のところに修行しに来た。そして、そのときティサトも祖母のところで修業していたのだ。ティサトの方が年上だし魔女修行も長かったが、当時からエヌの方が魔法の知識は深かった。ただ、気軽に依頼人が訪れる町の薬屋のような祖母のやり方は、研究ばかりしている時の魔女と違っておもしろかったようだった。
祖母のところで二年修行してエヌは出て行った。何年か経って、王都で店を開いたと手紙が来て、一度だけ遊びに行った。しかし、エヌは一年で店を閉めてしまった。王子たちとの噂でやりにくくなったのか、ティサトはその噂の真相をエヌに尋ねたけれど、エヌはひどく不機嫌に「言いたくない」とだけ答えて、姿を消してしまった。こちらから連絡しようにも伝手がなく、そのまま七年ほど経ったある日、エヌは突然ティサトの前に現れた。
「お願い、助けて」
エヌがそんなことを言うなんて信じられない。何事かと思ったティサトの前に、魔物の男が空中に浮いて現れた。
「子どもができたんだとさ」
ティサトがアケミに会ったのは初めてで、その存在にも驚いたけれど、言われた内容にはそれ以上に驚いた。
「エヌが妊娠? あなた、結婚したの? いつ? 誰と?」
「してない」
「えっ、それじゃ、誰の子どもなの?」
重ねて聞くと、エヌはティサトを睨む。
「私の子どもよ」
言いたくないのだろう。せっかく会えたのに、また音信不通になられても困ると思って、ティサトは質問を飲み込んだ。
「……ええ。わかったわ、あなたの子どもね。もう聞かないわよ。……それで、どうしたの?」
「気持ち悪い……死にそう……」
「ああ、つわり?」
「わからないから、助けてって言ってるの」
苛ついた口調も力なく、倒れそうになるのをアケミが支えて、何とかベッドに寝かせた。薬を調合して飲ませると、落ち着いたエヌは、
「子どもを産むのがこんなに大変だったなんて……」
「当たり前でしょう」
「もっと他の交換条件にすれば良かった」
不穏なことをつぶやくから、生まれた子どもが半分魔物だったらどうしようかとティサトは心配した。エヌは出産までティサトの家で過ごすことになり、召喚魔法もないのに頻繁に現れるアケミがもしかして父親なんじゃないかと疑ったりもした。しかし、ティサトの心配をよそに、生まれた子どもは人間の女の子だった。普通と違うのは爪に赤いしるしがあったことだった。
「魔女ね」
生まれたばかりのわが子を魂が抜けたような顔で見ていたエヌに、ティサトがそう言うと、エヌは初めて爪を見た。指摘されるまで彼女がそれを確認しなかったことに、ティサトは少し驚いて、少し安心した。
「金の葉だな」
子どもの額に触れ、アケミが言った。
「ニナ」
エヌがそう呼んだ。見たこともないくらい優しげに微笑んだエヌが、今までで一番、神々しいほどに美しかった。
その笑顔を思い出しながら、ティサトは魔法陣を描き終えた。
できるだけエヌと繋がりができるようにと思って、修行時代に彼女とお揃いで作った麻紐の腕輪を巻く。持ってきた全てのアクセサリーを身に着け、毛皮の襟巻には大きなアメジストのブローチを飾った。仕上げに、瞼と唇の色を塗り直す。
準備が整ったところで、ふと他人の気配を感じた。魔女や魔物ではなく、普通の人間だ。ティサトは相手を驚かさないようにゆっくりと振り返る。にっこりと微笑んだ。
「モニエビッケ村の方ですか?」
そう声を掛けると、木の後ろから男が二人現れた。猟師か樵かわからないけれど屈強そうな若者と、彼を従えるようにした五十代くらいの男。
「あなたが村の代表?」
ティサトがそう尋ねると、男は固い表情でうなずいた。
「私は、魔女ティサト。魔女エヌの魔法を終わらせるために来ました」
魔女と聞いて、若者が代表を守るように一歩前に出た。警戒する視線を向けられ、ティサトは苦笑する。今までの、エヌの村への態度が知れる。同時に、エヌがいなくなってからのニナの大変さも思いやられて、胸が痛んだ。
「どういうことか、説明してもらえるか?」
若者の肩を押しのけて、代表はティサトの前に出た。ティサトは微笑んだ。
「ええ、もちろん」
エヌができないのはこういうことで、ティサトが得意なのはこういうことだ。
「魔女エヌは、私に魔法の引き継ぎを頼んできました。私がここの魔法を引き継いで終わらせれば、あなた方へのエヌの交換条件は無効になります」
「それは、魔女の娘のことか?」
「ええ。ニナは私が引き取ります」
それは時の魔女の思惑にも絡んでいるし、ニナの希望もあるから、ティサトの一存では決められないことだったけれど、ティサトは断言した。――エヌがニナを託したのはティサトだと、ここに来たときに感じたから。
「あの娘は……」
代表は言いよどんだ。
「居場所は知っていますので、ご心配なく」
「無事なのか!」
「はい」
村の男は二人ともほっとしたようだった。エヌの呪いを心配してのものか、ニナ自身を想ってのことなのかわからないけれど、後者ならいいとティサトは思った。
「これから、ここで魔法を使います。良かったら見ていてくださいな」
「いいのか? 魔女エヌは魔法を使うときは私たちを追い出したものだが」
エヌならそうだろう。目に見えるようで、ティサトはくすくすと笑う。
「まあ、魔女にもいろいろいるんです」
ティサトは、二人を家の敷地から出して、拾った枝で地面に線を引き、何があってもここから前に出ないように言い含める。
それから、魔法陣の前に立った。左手を翳し、人差し指に意識を集める。薄墨色の髪がさらりと揺れ、瞼の青が光る。爪のしるしから血が一滴落ちた。
エヌの家を建てる前、ここには大きな杉の木が三本あった。その三本と周囲の木々の魔力を集めて平均化して、四本の柱に仕立てた。焼け残った三本の柱は木を核にしているけれど、四本目の柱は完全に魔法の産物だった。エヌは家を焼くときに、自分が担った魔法を解除していった。だから今残っている三本は、一度は焼け落ちたのがエヌの魔法で途中まで復活した状態だった。後は、ティサトが解除すれば元に戻るのだ。
最初にここに来たときのことを思い出す。
一見何もないのに、エヌは賑やかだと言った。ニナは楽しそうに笑っていた。それを見て、「ここの魔物はニナをあやすのがうまい」とアケミが言った。三本の杉の木は、目立って大きく立派だった。それぞれに魔物がいたかもしれない。
柱を仕立てたときは、ちょうど夕方だった。エヌが大きな魔法を使うときはたいていそうだ。
今と同じ。そうなるように、ティサトは時間を考えてここまで来た。
顔を上げると木々の向こうに夕日が見える。それが当たった三本の柱は黒く輝く。
魔法陣に描いたエヌとアケミの模様を順に見る。ティサトは魔法陣を朱色の絵の具で描いた。それが光を放ち、ふわりと布が浮く。とてもささやかな夕日だ。
「魔女エヌの代理人、メグレト家の魔女ティサトの名をもって、三本の木を森に返却いたします。森に宿る魔の皆様、魔女エヌはもうここには帰りません。これからは、常にあなた方と共にあります。この場を守る必要はもうありません。どうぞ、エヌに出会う前の姿に戻られますよう」
そう言うと、魔法陣の光は、うっすらと金色を帯びた明るいものに変わる。ニナの髪の色だ。
この森はニナが好きなのだ。
「ニナは大丈夫です。いつかここに帰ることがあったら、そのときはまた守ってあげてください」
了承するように、光は強く輝き、辺りを包む。ティサトは目を閉じた。両足に力を込めて、踏ん張った。大きな魔力が動く気配がする。
一秒もなかったと思う。のしかかるような空気の重さが唐突に消え、ティサトは脱力する。見学者がいることを思い出し、なんとか座り込まずに耐え、目を開けた。
魔法陣の光は消え、布は革の上に戻っていた。その下に柱の土台はもうない。
焼け跡は消えていた。森との境目はなく、同じように木が生えている。ただ、一帯だけ草が茂っていて、それが敷地の様子を残していた。
焦げた柱は三本の杉の巨木に変わっていた。――戻っていた、というべきか。
ティサトは一番近くの一本に触れる。ざわりと鳥肌が立った。魔力が戻っている。見上げると、天辺の方は夕日で輝いていて、風もないのにさわさわと揺れていた。
満足のいく結果に、ティサトは微笑み、魔法陣の布を拾う。
それから、モニエビッケ村の男たちを振り返ると、彼らはぽかんと口を開けて、腰を抜かしていた。
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