5.白磁の葉(3)
ティサトは朝早くまだ暗いうちに、宿を出発して行った。「寝ていていいから」と言うティサトを無視して、ニナとラルゴは外まで見送りに出た。
時の魔女と会ったときに何か取引したのか、ティサトとラルゴはそれぞれ一頭ずつ馬を手に入れていた。ティサトが馬に乗れるなんてニナは初めて知ったけれど、彼女は危なげなく操って、見る間に行ってしまった。
ティサトを見送ってから、ニナはもう一度リーンの居場所を占うことにした。
ティサトと一緒に泊まった部屋にラルゴと入ると、彼をベッドの一つに座らせ、その足元の床に直接チョークで魔法陣を描いた。何か言いたいことがありそうな顔のラルゴに、「後で綺麗に拭くから」と言い訳すると、彼は肩をすくめた。
人探しの占いの魔法陣は二度目だけれど、エヌの森で描いたものより複雑になった。エヌがニナの守護をしているならいいだろう、とエヌとアケミの模様を加えたり、アマネの模様も織り込んだからだ。
そういえば、オークルウダルー村に着いたときに、ラルゴのことを教えてほしいと頼んだ後の返事をもらっていない。リーンのことも知らないままだった。
ニナは、魔法陣を挟んで、ラルゴの正面に立つ。
左手を魔法陣の上に翳すと、ラルゴは何も言わずに人差し指を掴んだ。
「リーン様のことを思い浮かべていて」
ラルゴの目を見る。押された指先から、血が一滴落ちて、魔法陣が光る。一陣の風が起こり、ベッドのシーツがばさりと音を立てた。ニナは室内で魔法を使った経験があまりない。何か壊してしまわないか少し心配になった。
「リーン様は貴族なの?」
光る魔法陣に目を向けていたラルゴは、ニナが聞くと顔を上げた。
「王姉殿下だ」
「……王様のお姉さん?」
ニナは少しだけ驚いたけれど、すぐに納得した。
「今はお城にいないんだ? 行方不明? どうして?」
「駆け落ちした」
ラルゴが答えた瞬間、魔法陣の光が強まる。
引かれるように、ニナの意識が向く。
ニナの魔法の気配がする。南? 南東かもしれない。
リーンではない。違う。駆け落ち相手だ。
かすかにアマネの花の匂い。
「あ」
ニナが小さく声を上げると、魔法が途切れた。魔法陣の光は消え、チョークの線に戻っている。血の跡はない。
占いで感じた結果に、ニナは呆然とする。
エヌの采配だろうか。どこまで繋がっているんだろう。
ニナの魔法の気配をまとった人で、アマネに関わりのある人。――そんな人は一人しか知らない。
息を詰めてニナを見ているラルゴに、
「リーン様はタウダーラーの人と駆け落ちした?」
「そうだ。……すごいな。占いでわかったのか」
「ううん。半分は占いだけど、半分は違う」
感心するラルゴに、ニナは首を振った。もう片方のベッドに腰掛けて、
「おととしの夏、エヌのところにタウダーラーの人が来た。翼を消してほしいって依頼だったんだけど、その魔法を私も手伝ったんだ。今占ったとき、その魔法の気配がした。リーン様は駆け落ちしたって言ったとき、ラルゴは相手のことを思い浮かべたでしょ?」
ラルゴはうなずく。
「シイナだ」
そう。そういう名前だった。――ニナの異母兄。
「ああ! あの匂い、シイナだ!」
ニナが思いに沈む前に、ラルゴが声を上げた。
「ほら、夕べの、お前が森から出てきたときにつけてた匂い。今思い出したんだが、シイナがときどきつけていた匂いに似ていたんだ。香水かと思ってたんだが、魔法の名残だったのか」
あいつ魔法が使えたんだな、と、ラルゴは一人で納得している。
それはアマネを呼び出していたのかもしれない。
もしかして、アマネに聞けばシイナの居場所がわかるのではないか。そうでなくても、何か情報が得られるかもしれない。
シイナの居場所がわかれば、リーンの居場所もわかる。
アマネを呼び出すなら、外の方がいい。宿の部屋では相応しくない。
「とりあえず方角は南か、南東かな」
「南東か……」
ラルゴは地図を取り出す。
サントランド王国は、四角形の真ん中を西から少し押して歪ませたような形をしている。北が山地、東が山脈、南が大河で、西が海に囲まれていた。東の山脈から、国の真ん中あたりを通ってサヴァ川が海まで流れている。河口には国一番の大きさのエルダー港。国を南北に走るハールニール街道と、サヴァ川がぶつかるところが王都グランダール。
オークルウダルー村は、大雑把に見ると国の北西の角にあるから、南東というと、対角線上を辿ることになる。
地図を指でなぞって、ニナは一番大きく書かれた地名で止まる。
「王都も南東だけど、お城から駆け落ちしたのに王都にいると思う?」
ラルゴは少し考えてから、
「いるかもしれん。王都は人が多いし、仕事もある。それに、リーン様は陛下を心配されているだろうから、近くにいる可能性はある」
「へー。じゃあ、王都で占ってもらった方が早かったかもね」
軽く言ってから、ふと気付く。
「なんで、わざわざエヌのところに来たの?」
「そうだ。それだ」
ラルゴも今思い出したように、
「駆け落ちした後、リーン様から一度だけ手紙が来て、居場所は教えられないから必要なときは魔女エヌの占いで探してほしい、と。……その手紙が出された場所は、モニエビッケ村だった」
ニナは首を傾げる。
「手紙を出したのはリーン様なの?」
「シイナと一緒に来なかったのか?」
「うん。……あ、違う、わかんない。来たのかもしれないけど、私は会ってない。エヌが依頼人と話すときは、私はいつも席を外すから」
ニナは考えて言い直す。
シイナがエヌの家を訪ねてきたとき、ニナもその場にいた。
白い翼を持った青年は、銀色の髪に薄青色の瞳をしていた。森の中から不意に現れたから、一瞬ニナは魔物かと思った。伝説のタウダーラーだとわかって、魔物に会ったとき以上に驚いた。
「久しぶりね。何年ぶりかしら。成長したわね」
エヌがそう挨拶したから、ニナはまた仰天した。タウダーラーと面識があるなんて知らなかった。
「あの約束はまだ有効でしょうか」
少し緊張した面持ちで彼はエヌに聞いた。
「当たり前でしょう」
そして、エヌはニナを見た。
「二時間したら戻ってきなさい。あんたにも手伝ってもらうわ」
うなずいて、森に入ろうとするニナに、シイナは軽く会釈した。ニナは挨拶しようとしたけれど、ふわりと浮いて現れたアケミに急かされ、気を取られているうちに彼はもう家の中に入ってしまっていた。
二時間後に戻ったニナは、エヌを手伝って、彼の翼を消す魔法をかけた。魔力を翼の形から別の形――背中一面を覆うくらい大きな血の色の痣――に変えた。
そのとき、ニナには、シイナは普通の依頼人としか見えなかった。エヌも特に変わった態度は取らなかった。
エヌは、どういう経緯でニナが生まれることになったのか一切教えてくれなかった。ニナも熱心に尋ねたりはしなかったのだけど、それを今になって後悔していた。知りたくなったらまた聞けばいいと思っていて、それができなくなるなんて考えもしなかった。
シイナとニナ。わざと似た名前を付けたらしい。
血が近い方が魔法が強固になるから。ニナに手伝わせた理由をエヌはそう説明した。そのおかげで彼を占いやすくなった。
やはりエヌが何か仕組んでいるんだろうか。
「ラルゴにリーン様が出した手紙は、エヌの指示かな。――ティサト宛てのエヌの手紙みたいに」
「どうだろう。俺がリーン様をいつ探しに来るかを、エヌが予測できたとは思えん。シイナかリーン様が考えた、手紙が他人の手に渡る可能性を考えての安全策じゃないか? 俺の面相をエヌに教えておいて、俺以外には占わないでくれと頼んでおいたとか」
ラルゴは、額から右目にかけての傷を指差す。
それはありそうだ、とニナはうなずいた。
「それじゃ、どうして今になって探しに来たの?」
「うーん、そうだなぁ。……まず、陛下の政敵がほとんどいなくなって、リーン様の危険が減ったこと。それから、まぁこれは俺の考えなんだが……陛下のためにも、リーン様に戻っていただいた方がいいんじゃないかって」
ニナがあまり理解していないのを見て取ったのか、ラルゴは苦笑した。
「俺は、近衛第一隊所属……陛下の護衛なんだ」
「でも、リーン様が主人なんでしょ」
「そうだ。ずっとリーン様の護衛だった」
ラルゴは目を伏せる。その様子に、「ずっと」という時間の重さが見える。
「ラルゴも、リーン様に帰ってきてほしいんだね」
ニナが言うと、ラルゴは破顔した。
「ははは。そうだな。帰ってきてほしい。幸せで暮らしているならそれだけでいいと思っているが、できれば目の届くところにいていただきたい。シイナだってそうだ。二人の幸せを、俺に守らせてほしい」
「駆け落ちってことは、お城に戻ったら引き離されちゃうんじゃない?」
心配になって聞くと、ラルゴは首を振った。
「いいや、大丈夫だ。表だって結婚はできないが、引き離されはしないだろう。……それに、シイナの翼を消した魔法の持続性はどのくらいなんだ?」
「本人が翼を使おうとしたり、解除魔法をかけられたりしなければ、……五年は余裕だと思う」
「じゃあ、五年経ったらまたかけてやってくれ。翼があるとタウダーラーだとわかってしまうから表舞台に出られないが、翼がないならどうにでもなる。適当な経歴を作って、リーン様と正式に結婚することも不可能じゃない」
「そうなんだ? それなら良かった」
気付くと、外はもうすっかり明るくなっていた。他の宿泊客がドアを開け閉めする音が頻繁に聞こえる。
「朝飯を食べたら、出発するか」
ラルゴはそう言って立ち上がる。その足元を見て、ニナは魔法陣がそのままだったのを思い出した。それから、もう一つ。
「村を出たら、もう一度魔法を使いたいんだ。召喚魔法なんだけど……」
「ああ、人目につかない場所でか? わかった、考えておく」
ラルゴはアケミを呼び出したときのことを覚えていてくれたのか、詳しいことを聞かずに察してくれた。
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