2.朱い海(2)

 ラルゴを見送るのももどかしく、ニナは魔法陣を描く。エヌの資料の中でも古い方にあった海にまつわる魔物を呼び出す魔法陣をベースに、アケミとエヌとニナを表す模様を加えた。エヌの研究資料は火事で全て燃えたけれど、ニナはエヌが考案した魔法陣はほとんど記憶していた。

 防風林が途切れたこの場所は、枯草もなく、雪も残っておらずそれほどぬかるんでもいなかったため、とても都合が良かった。小さな幸運の積み重ねが成功を予感させる。

 海と夕日を正面に、描いた陣の真ん中に立つ。左腕を伸ばし意識を集中すると、人差し指の爪のしるしが広がって、ぽたりと一滴血が落ちた。左腕がほんの少し重く感じる。静電気で前髪が膨らむ。魔法界との間に繋がりができた。

 ニナは顔を上げる。風は魔法陣を避けて吹いていた。最初に見た時よりも太陽は水平線に近づいている。色が深い。海面の光の道は、今はもう崖下まで届いている。空は大分暗くなり、夕焼けの朱色が燃え立つ。波の上で、影と光が揺らめく。

「綺麗」

 小さくつぶやいた言葉の続きが出てこない。

 美しいものや現象には魔力があり、全てではないが、魔物が宿っていて、上手く呼びかければ応えて、姿を現してくれる。

 術者の魔力が高ければ簡単に呼び出せるし、魔物の魔力の方が高ければ無視されることもある。そうならないように、呼びかけの言葉や魔法陣の構成を練ったり、魔法具を使ったりする。

 知っている魔物を呼び出すのは、契約の有無やその内容次第だが、名前を知っている場合は、名前を組み込んだ魔法陣を使って血を媒介にするのが一般的だ。

 ニナは、アケミとの付き合いは長いけれど、ニナ自身が契約した存在ではないし、アケミの魔力の元になる現象を知らない。この夕焼けがアケミに関係するものなのか、本当のところはわからない。魔法陣にアケミの模様を加えた時点で決めていたのに、ここに来てニナは迷っていた。アケミのことは一旦置いておいて、この美しい景色に潜む魔物を――アケミとは限定せずに――呼び出すことに専念するべきだろうか。

 水平線に太陽が触れた。海の輝きが増す。アケミの髪の色に似ている。そう感じた瞬間、思わず呼びかけていた。

「朱海」

 かすかに空気が動いた。風の届かない陣の中で、何かが反応したのだ。

「朱海! お願い、応えて! ここに来て!」

 大声で呼んだけれどそれ以上の反応はない。

 ニナではだめなのだろうか。やはり、エヌじゃないと……。

 眩しすぎる夕日から目を逸らす。一番近くに生えている木の根元に小さな水たまりがあり、そこにも夕焼けが映り込んでいた。ニナは目を瞠る。

「小さな朱い海」

 言葉がこぼれる。すると、水たまりがきらりと光った。魔物が宿っているのだ。ニナは膝を折り、水たまりを見つめる。

「強すぎない優しい、光を湛えた小さな朱い海。雪解けの清らかな水。心を温かくする柔らかな橙色の火。あの空がこんなに近くにあるなんて思ってもみなかった。かわいい小さな朱い海、どうか出てきて」

 ニナは微笑んだ。それに釣られるように、小さな笑い声が聞こえた。少女のようだった。

「ふふふっ」

 水たまりの上に拳大の透明な玉が現れる。人に近い形は取れないようだ。玉はうっすら夕焼けの色をしていた。

「かわいい。綺麗」

 ニナが手を伸ばすと、玉は手のひらに収まった。ニナは立ち上がる。

「あなた、やっぱり温かいね。応えてくれて、ありがとう」

 礼を言うと、玉は少し色を濃くした。

「こちらこそ、呼び出してくれてありがとう。あなたも温かいわ」

 玉は少女の声で話す。

「私のこと見付けてくれる人って今までいなかったの」

「とても限定的だものね」

 夕焼けが映る雪解け水の水たまり。この道を冬場に通る人は少なそうだと思うと、誰にも見つからなかったのも納得できる。

「呼んでもらえてうれしいわ。褒めてもらえてうれしい。あなたも綺麗ね」

「そうかな」

 エヌは誰もが認める美人だった。でも、ニナはあまり似ていない。

「そうよ」

 弾んだ声が言う。

「たぶん、他の魔女では呼び出せなかったわ。あなただからできたの」

 玉が浮き上がる。もう半分以上沈みかけた夕日が玉の向こうに見え、ニナはアケミのことを思い出した。忘れていられたのが信じられないけれど、そうでなくてはこの玉は呼び出せなかっただろう。小さな朱い海にはニナの心を捉える魔力があったのだ。

「朱い海を呼び出したいのね?」

 そう聞かれてニナは視線を戻す。玉はニナの正面に浮いていた。目はないけれど見つめられていると感じ、ニナはうなずく。玉は強い口調で言う。

「朱い海と私には繋がりがある。同じ色を持っているから」

 玉は宙に浮いたままくるくると回転し始めた。

「呼び出してくれたお礼に手伝ってあげるわ」

 玉を通した夕日は柔らかくニナの身体を照らす。魔法陣の中に夕焼け色が広がっていく。

「もう一度呼んでみて」

 そう促され、ニナは恐る恐る口を開く。

「朱海」

 呼んだ瞬間に影が差し、ニナの目の前に朱色の髪の青年が現れた。灰色の布でできた異国風の衣装。均整のとれた長い手足。美しい顔は少しエヌに似ていた。アケミはニナを見て、からりと笑った。

「アケミ!」

 ニナは抱き付く。

「ニナ、久しぶりだな」

 泣きそうなニナに対して、アケミの口調は軽い。

「なんで出てきてくれなかったの?」

 抱き付いた手を離さないまま、ニナはアケミを見上げる。

「そりゃ、当たり前だ。エヌがいないからな」

「私じゃだめ?」

「そうだな。力が足りない」

 アケミはニナの肩を掴んで身体を離す。

「エヌは魔法界に上がった」

「え?」

「時間がないから質問はなしだ」

 アケミはいつにない厳しい表情で続ける。

「俺が存在するきっかけがエヌで、エヌが生きていられた理由が俺だ。だから俺たちはとても近しかった。エヌが魔法界に上がった時、彼女は俺の影響を受け、俺も彼女の影響を受けた。それで俺は前より魔力が上がった。エヌは元々俺の魔力を超えていたからな」

 ニナは聞き逃さないように必死に耳を傾けた。

「エヌと俺の契約は特殊で、魔法陣も媒介も必要なかった。その血はお前にも受け継がれているけれど、エヌほどの繋がりはない。それを補う力をお前が持てれば、今まで通り自由にやって来れるようになる」

「力って、どれくらい?」

「質問はなしだと言っただろうが」

 アケミは片眉を上げ、そう言ってから、答えてくれる。

「もう少しだ。おそらくあと何年かすれば自然に身に付く」

「何年もかかるの?」

 ニナの情けない声に、アケミは笑った。

「あっという間だ。我慢しろ」

 アケミの姿が霞む。腕を組む彼の背後で夕日が沈み切ろうとしていた。水平線にわずかに光が残っている。空は橙色のままだけれど、海はもうほとんど暗い。

「エヌは? 魔法界にいるなら呼び出せる?」

「無理だろう」

 一度言ってから、アケミは考えるように首を傾げた。

「いや、わからんな。お前ならできるかもしれない」

「どっちなの?」

 ニナはアケミに手を伸ばす。アケミは消えかけていたから、ニナの手は空を掴んだ。

「最期、エヌはお前のことだけしか考えていなかった」

 だから、泣くな。

 もう声にはなっていなかったかもしれないけれど、ニナには聞こえた。ニナの頬をそっと撫でるようにしてアケミの気配は消えた。代わりに涙が頬を伝う。暗さを意識すると、すっと空気が変わった。魔法界との繋がりが切れたのだ。

 そう判断した瞬間に、冷たい風が吹き付ける。痛いのか寒いのかよくわからない。乾いた涙で引きつれる頬を、ニナは両手で擦った。ばたばたとコートの裾が音を立てる。

 小さな朱い海の魔物、少女の声で話したあの玉は、アケミが現れた時には消えていた。木の根元にあった水たまりももうなくなっている。

 魔法を使ったまま鋭くなっている感覚が、ラルゴの気配を拾う。振り返ると、道を挟んだ反対側の木の後ろに座っている。律儀にこちらを見ないようにしてくれていたのか。

 ニナは急いで魔法陣を消しながら、頭の中ではずっとアケミの言葉を反芻していた。

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