2.朱い海(1)
森を南に抜けて道に行きあたったのは、モニエビッケ村を出た翌日だった。今の時期は人が通らないのかもしれない。足跡も轍もなく、うっすらと雪が残っていた。この辺りはそれほど降らなかったのか、エヌの家の周りに比べたらずいぶん溶けるのが早い。
心配していた追手は、今のところない。気付かれていないのか、ニナが勝手に出て行ってくれるなら願ってもないことなのか、わからない。
道に区切られるように森は終わっていた。道を超えると木々もまばらで、さらに先には畑か草原かはわからないが、なだらかな土地が開けていた。枯草に残雪が模様を描く。ずっと向こうに石造りの塔が見える。村があるのだろう。低い太陽が投げかける日差しが、森の暗さに慣れた目には眩しい。
「わぁ」
突然変わった景色にニナは歓声を上げ、勢いよく道に飛び出した。途端に足を滑らせる。溶けた雪で道がぬかるんでいたのだ。
「危ないな」
尻餅をつく前にニナを腕を捉えたのはラルゴだ。軽々とニナを持ち上げ地面に立たせる。
「ごめん」
ニナが謝ると、ラルゴは難しい顔をする。
「そういう時はありがとうだ」
ニナを見下ろしてじっと待つ。唯一の左目に促されて、ニナは言い直す。
「ありがとう」
「ああ、どういたしまして」
今度はラルゴは笑顔でうなずいた。
ラルゴは三十代前半くらいだろうか。知り合ってわずかの間に、すでにニナの保護者の顔だった。ニナの周りにいた人たち――それと、人でない者――はニナの言動には無頓着だったから、こういう注意をされるのは新鮮だ。ニナは落ち着かない気持ちでうなずき返した。
「どちらに行く?」
ラルゴが聞く。進む方角を決めるのはニナの役目だ。
ラルゴが持っていた地図を広げる。右に進むと海岸沿いを回り込んで遠くに見える村まで行ける。地図にはオークルウダルー村と書いてあった。左に行くと、森のふちを辿るように東進し、いずれは北の山地を越える道に行き当たる。
「方角は南だから、オークルウダルー村の方かな」
ニナは占いの結果を思い出しながら答える。
「それと、左に行くとモニエビッケ村に繋がる道に出ちゃうから、まずいかもしれない」
「それじゃあこっちだな」
ラルゴは右を指差した。
一時間も歩かないうちに海に面した崖に突き当たり、道は南に曲がっていた。海岸沿いと言っても、崖と道の間にはちょっとした林がある。風除けに人の手で植えられたのか、木々は整然と並んでいた。
海を見るのが初めてのニナは、木々の間から見える海をしばらく眺めた。風の匂いが森とは全く違う。波なのか、聞き慣れない音がかすかに聞こえていた。傾きかけた日が長い影を作り、道は縞模様になっている。滑らないように気を付けながら、ニナはラルゴの後に続いた。
ラルゴは大きな布袋を担いでいる。中には旅に必要なものがいろいろ入っていて、昨晩森の中の洞窟で野宿した際にもそのおかげで助かった。ニナは村を出ると決めてから家には帰らなかったから、何も持っていない。
初めて彼に会ってから一日半。あの時は敵を見るような気持ちで観察していた背中を、今は頼もしく思っているのが不思議だった。
「どうした?」
視線を感じたのだろうか、ラルゴが振り返らずに聞いた。
「夜になる前に村に辿りつけるかな」
「どうだろうな。辿りついても遅い時間だったら歓迎されないだろうし、どこかいい場所があれば早めに決めて休んだ方がいいかもしれんな」
道の右側は海に面した林。左側も林だったが、こちらは自然のままのようだ。少し先で木の見え方が違うから、低い崖があるのかもしれない。
「昨日はニナのおかげで助かったな」
「え?」
自分が思っていたのと同じことを逆に言われてニナは戸惑う。何かしただろうか。
「たき火だ」
ラルゴは肩越しにこちらを見て笑う。
「ああ、あれ」
地面に大きな魔法陣を描いて、その中で火をたいた。火が消えないように魔法をかけ、陣の中と外を区切って暖まるようにしたのだ。陣の中に入ってしまえばそれほど寒くはなかった。
「ああいうのは簡単」
「そうなのか?」
「あ、ううん。私にとってはっていう意味」
ニナは言い直す。
魔女には得意不得意がある。エヌは何でもできたけれど、人探しや誰かの運勢など人に纏わる占いや、人に作用する魔法が得意だった。ニナは魔女としてはまだ経験も浅いが、自然を利用した魔法が自分には向いているのではないかと感じていた。
「すごいな」
感心したように言うラルゴに、ニナは首を振った。
「でもラルゴの依頼は人探しでしょ?」
「まぁそうだが」
エヌなら、相手が国外にいたとしても、モニエビッケ村にいながら正確な所在を占えただろう。しかし、ニナは遠いと方角くらいしかわからない。ラルゴの探し人も遠方にいるらしく、エヌの家を出るときに占った結果は、南の方角という漠然としたものだった。ニナの場合、同じ占いでも、天候や作物の出来を占う方が人探しより確かな結果が得られると思う。
「後でまた」
占った方がいいかも、と続けようとしてニナは言葉を失った。眩しい光が目を覆う。手をかざして振り向くと、海側の林が途切れて少し開けた空間があった。崖の向こうに海が広がっている。それがずっと遠くまで見渡せた。太陽が橙色に燃えていて、澄んだ空も橙色に染まっていた。
空の夕焼けが海の上にも広がっている。太陽と水平線の間はまだ十分な距離があるけれど、光が波の上に道を伸ばしつつあった。その道をこちらまで繋げるように、強く風が吹いた。
「あかい……海?」
ニナに合わせて立ち止まり、ラルゴも海を見た。
「もう少し経つともっと赤くなるだろうな」
ラルゴの返事をニナは聞いていなかった。
アケミだ。
朱い海が由来なのは知っていた。朱い海が何なのかニナは知らなかったけれど、きっとこれがそうなのだ。
朱色の髪の青年の顔が思い浮かぶ。エヌが死んで以来、ニナの呼びかけに応じなくなってしまった。アケミはエヌが契約していた魔物だった。
動きを止めたニナを怪訝な顔で見るラルゴに向き直り、ニナは、
「ごめん、ちょっと一人にして欲しい」
「どうした? 問題か?」
「違う。魔法を使うんだけど……召喚魔法だから……えっと、一人の方が成功しやすい、かもしれない」
説明しながら勢いがなくなっていったのは、アケミに普通の条件が適用されるのかわからなかったからだ。エヌの存命中は、アケミは魔法を使わなくても呼ぶだけで現れたし、呼ばなくても好き勝手に現れていた。周りに他人がいても平気だった。アケミが変わっていたのか、エヌとの契約が特殊だったのか。ニナが生まれた時からアケミはずっと一緒にいたのに、疑問に思ったことは一度もなかった。呼びかけても現れなくなってから、何度か魔法陣を使って呼び出してみたけれど反応はなかった。ここなら呼び出せるかもしれない。
真剣な表情のニナに、ラルゴは大きくうなずいた。軽く手を振って、
「わかった。この辺で野宿できそうな場所を見付けておこう」
ニナに背を向けて反対側の林に入って行った。
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