プロローグ(2)

 ――大陸暦一六四六年 第十二月


 特別な魔法を使うときのために屋根に設えた露台。その床にはチョークで描いた魔法陣。細かい図形を数えきれないくらい織り込んだそれは、直径が十歩を超える。一日がかりで描き上げた大掛かりなものだった。エヌはその真ん中に立った。

 家を囲む森の木々は屋根よりも高い。しかし、晴れた日は必ず夕日が射すように整えられている。今日は特に条件が良い。来年の運勢という範囲の広い物事を占うのに最適だった。

 傾いた太陽が空の色を染める。低い角度で森に入る西日は、針葉樹の枝葉に残る雪の上を跳ねる。エヌは軽く目を閉じた。

 左手の人差し指の一点に集中すると、隣にアケミの気配を感じた。爪のしるしが熱を持つ。すっと左手を上げ、目を開ける。露台は朱い夕日に照らされている。光と影のコントラストが強く、木々は神殿の柱のようだった。

 エヌの指先から、ぽたりと一滴、血が落ちた。

 血を中心にして、魔法陣の隅まで力が行き渡り、チョークの線が光を放つ。

 空気が波打ち、エヌの赤みがかった金色の髪がふわりと浮く。

 アケミがエヌの肩に触れる。馴染んだ彼の魔力も借りて、大地を、空を、風を、探る。それで得られたイメージと、事前に調べてある星の動きとを合わせて読み解くのだ。

 一年前の占いでは王家に大きな変化の気が見られた。良いとも悪いとも取れないものだった。いつも通りの報告書に警告を添えたけれど、王からは更なる占いを求められることはなかった。だからエヌもそれ以上は何もしなかった。そして、三ヶ月後、王の崩御の知らせが届いたとき、エヌは後悔したのだ。エヌと先王メラエール一世とは浅からぬ縁があった。もう少し詳しく占っておけば、そうでなくても直接伝えていれば、別の未来になったかもしれない。

 そのこともあり、エヌは例年以上に意識を高めていた。

 元々エヌの魔力は他の魔女よりも高い。条件の良い日取りに、アケミの魔力も高まっていた。いろいろなことが重なり、それは起こった。

 夕日が最も鋭利な角度を作り、魔法陣の真ん中に集まった瞬間、エヌの意識がわずかに魔法界に触れた。

 魔女の領域を逸脱してしまったと気付いたときには、エヌは真っ暗な中を落ちていた。

 バラバラに解れる。大小の黒い塊と、赤い光。白い羽がふわふわと舞う。波の中心に輝く、小さな金の葉。

「エヌっ!」

 アケミが慌ててエヌの意識を引き戻す。ぱっと目を見開いたエヌは、左手で大きく円を描き、散らばりかけた大事なものをかき集めた。

 魔法の場が崩れ、急に現実に戻ってきた反動で、エヌは膝をついた。肩で息をする。不快感を必死で堪えた。

 日は落ちて、周囲は一気に暗くなった。魔法陣の光も消えている。落ちた血は跡形もない。ばさばさっと雪が落ちる音が聞こえ、遠くからは獣の鳴く声が響く。冷たい風がエヌの金髪を攫う。

 ざわつく森に苛ついたように目を走らせ、アケミはエヌを抱えて魔法陣の外に連れ出した。

「大丈夫か?」

「誰に聞いてるの?」

 なおも心配そうに支えるアケミの腕を押しのけて、エヌは自力で立ち、魔法陣を確認する。

 魔法陣はあちこち消えかかっていた。しかし、自然に消えたのではない。意図的なものだというのは明白だった。一つの意味の模様に変わっていたからだ。

「ニナ」

 エヌは娘の名前をつぶやく。

「目を付けられたのか?」

 アケミの言葉にエヌはうなずく。

 意識を取り戻す直前に、何か大きな力がエヌの心に触れた。そのときだろう。

 ニナを示す模様の中央に、煤で汚れたような真っ黒い手形があった。

「どんなやつだったかわかるか?」

「わからないわ。……でも、暗くて、大きい。とても綺麗な――」

 エヌは一度言葉を探して、手形を見つめる。魔力を表現するのは娘のニナの方が得意だった。

「闇を固めたような黒」

 その黒い力は、エヌの中のニナに興味を持ち、目印を付けて行った。エヌは毎年の占いを娘に手伝わせることはなかったから、今ここにニナがいないのは幸いだ。しかし、いずれはニナ本人に辿り着くだろう。

「ふふっ。こんな目印なんて」

 エヌは、赤い唇を吊り上げて笑った。軽く腰を落とすと、一歩で手形の上に飛び乗る。かつんと踵を鳴らして、踏み潰した。薔薇色に上気した頬を、長い金髪が縁取る。先王とその弟を惑わせたと噂される美貌が怪しく輝く。

 美しさは力だ。美しいものには魔力が宿る。それは人も同様で、魔女はたいてい容姿が整っている。エヌの美しさは、落としても壊れない宝石でできた大輪の花のようだった。

「逆に辿ってやるわ」

 アケミは金の細い杖を虚空から取り出すと、エヌに放る。気負いなく上げた左手でそれを受け止め、エヌは手形の上に魔法陣を描く。

 月のない夜空に浮かぶ星々が一陣の風に震えた。


 一晩かけて、エヌは黒い力に辿りついた。しかし、目印を消すことはできなかった。

 どうしても目印を消せないとわかったエヌは、別の方法を探し、半年かけて準備した。

 春と夏の狭間、第六月。ニナを守るために、エヌは今までにない大きな魔法を仕掛ける。自身の命と引き換えにして。

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