金の葉の魔女
葉原あきよ
プロローグ(1)
――大陸暦一六四六年 第七月
空を飛ぶ姿を見て、最初は大きな鳥だと思った。物語に出てくる銀の鳥。旋回する翼が太陽を反射して、澄んだ空に映えていた。
七歳のリーンは驚きに目を見開いて、何も言えずにただ空を見ていた。大きな鳥はゆっくりと降りてきて、近付くにつれリーンにもそれが鳥ではないことがわかる。背中に翼がある少年だった。彼は静かにリーンの前に降り立った。畳まれた翼は彼の脛の辺りまで届いている。
「はじめまして、王女殿下。シイナと申します」
リーンより少し年上だろう。背が高い彼は、リーンの目の高さに合わせて屈み、そう言って微笑んだ。シイナが人質として城にやって来たのだとわかっていながら、リーンは彼に会えたことに胸が躍った。
十年ほど前のことだ。
気が付くとベッドの天蓋が目に入った。懐かしい夢を見た。ぼんやりと思い出しながら身体を起こそうとして、リーンは頭痛に思わず顔をしかめてしまう。
「気分はどうですか?」
掛けられた声はシイナのものだった。
「まだ少し頭痛が残っているみたいですわ……」
「ワインに入っていた薬、リーン様が考えていたもので当たっていたようですよ」
従兄の言葉で、酩酊状態になる薬だろうと察しがついたから、広間を出てすぐさま気付け薬を飲んだ。控えていたラルゴにそれを伝え、自室まで歩いて戻り、医者を待つ間に寝てしまったらしい。
「起きられますか? 念のため、起きたらもう一度薬を飲むように言われているんです」
ベッドの端に腰かけ、気遣う顔でリーンに水を差し出すシイナの背中で、大きな白い翼が灯りに輝く。銀髪に薄青色の瞳を持つシイナの印象は白い。黒髪に黒い瞳のリーンとは対照的だった。
「ラルゴはどうしたんですか?」
シイナに支えられて起き上がったリーンは、水と薬を受け取り、姿の見えない護衛の所在を尋ねた。
「誰かに呼ばれて出て行きました。戻ってきたら、お説教は覚悟した方がいいですね」
散々気を付けろと言われていたのにこれだ。ラルゴは怒るだろう。ため息をつくと、シイナはくすくすと笑った。低い声が耳に心地良く、リーンはしばし黙ってそれを聞いた。
扉が開き、ラルゴが入ってきた。彼はベッドに座るシイナに視線を送る。ラルゴはこんなことでシイナを咎めないが、シイナは避けるようにするりと立ち上がった。
ラルゴは腕組みをしてリーンを見下ろした。がっしりとした体躯を持つ彼がそうやって立つと、古傷で開かない右目も相まって、威圧感がある。
「リーン様、あれほど気を付けてくださいと申し上げたはずですがね」
視線が痛い。
「まさかあんなに人が大勢いる場面で狙われるなんて思っていなくて……あの、ごめんなさい」
そっと見上げるとラルゴは無言で見返した。リーンは小声で付け加える。
「でも、無事だったんですから……」
「そういう問題ではありません」
ラルゴの説教が始まりそうなのを先んじて、シイナが聞く。
「犯人はやっぱりシャルトムール公爵?」
「証拠はないが、証言はある……」
ラルゴは難しい顔でうなずく。
「叔父様はまだ諦めてらっしゃらないのかしら」
父王の急死の後、叔父であるシャルトムール公爵はリーンに近付いてきた。自身が王位を狙ったのか、リーンと自分の息子をくっつけて彼を王位に就けたかったのか。意図を聞くまでもなく、リーンは叔父を避け続けた。弟はまだ若いとはいえ、先王の存命中に正式に王太子として認められていた。幸い叔父には全くと言っていいほど味方がおらず、弟は今日、無事に即位した。
即位したといっても、まだ服喪中のため式典などは執り行われない。普通の国政に関する会議とほとんど変わらない顔ぶれと進行で、弟が新王になることが承認された。
「どういうつもりなんでしょう? 会議では叔父様は反対されなかったのに」
だからもう叔父は納得したのだと思っていた。しかし、そうではなかったようだ。
先王の崩御から葬儀、新王の即位までの慌ただしい三ヶ月をねぎらうため、会議の後、広間で軽食と飲み物がふるまわれた。そのとき出された飲み物に薬が入っていたのだ。
少し口に含んだ時点で気付いたけれど、飲み干していたらどうなっただろう。叔父は薬で酔ったリーンを従兄に連れ出させたかったのかもしれない。でも、人目もあって護衛もいるのに無理がある。それに、従兄にその気はなさそうだった。万が一リーンがあの場で倒れたりしたら大事になるのは確実だし、そのとき真っ先に疑いの目を向けられるのは叔父だ。
「公爵も誰かに利用されているのかもしれないですね」
シイナが笑顔で怖いことを言う。だが、ありうる話だ。
「だからリーン様には城から逃げていただきたい」
ラルゴの言葉にリーンは驚く。彼は冗談を言っているようには見えない。
「そんなこと出来るわけありません」
「宰相とは話がついています。あちらも公爵をこのままにしておく気はないようで、打診されました」
「リーンに表舞台から去ってもらいたいってのもあるんだろ? 王太后様の問題もある」
シイナが指摘すると、ラルゴはうなずいた。
王太后であるリーンたち姉弟の実母は、生前の父とうまくいっておらず、そのせいか、子どもたちを疎んじているようだった。別の理由もあって、弟に至っては完全に無視していた。リーンも公式の行事以外で顔を合わせることはほとんどない。ただ、母は叔父も嫌っていて、二人が協力することがなかったのが幸いだった。
「だが、宰相は先王陛下の忠臣だ。リーン様のことも考えてくださっている」
「逃げた罪は問わないから出て行ってくれ、と?」
シイナにしては珍しくラルゴに鋭い視線を送る。ラルゴはそれを真正面から受け、なぜか破顔した。
「いや、公爵の罪を重くするために協力してくれ、といったところだな。それから、お前のことも密約済みだ。シイナ、リーン様と駆け落ちしろ。宰相にはシイナは護衛だと言って交渉したが、まあ、逃げてしまえばわからんからな」
「ちょっと待ってください。どういうことですか?」
ベッドから降りてラルゴに駆け寄ったリーンは、笑い声に驚いて振り向く。
「あはは」
シイナがこんな風に声を上げて笑うなんて初めて見た。
「ラルゴ、ありがとう」
シイナは前に立っていたリーンごとラルゴを抱き締める。ラルゴはシイナの肩を叩くようにして押し返すと、リーンを見下ろした。
「お気をつけて」
「ですから、わたくしはまだ逃げるなんて」
そこまで言って部屋の外が騒がしいことに気付く。ラルゴが剣を抜く。シイナがリーンの手を引いた。抱えられるようにして窓辺まで下がる。
「リーン様、一緒に行きましょう。僕を選んでください」
シイナは微笑んだ。片手で窓を開けると風が吹き込む。
「一つしか選べないのですか?」
「贅沢言わないでください。一番欲しいものなら、一つでもいいでしょう?」
「……そんな言い方、ずるいですわ……」
リーンはシイナに抱き付く。
「わたくしの気持ちを知っていたなら、どうして今まで……」
「あなたの隣を確実に手に入れるために、僕もいろいろと画策してたってことです」
シイナはリーンに軽く口付けした。ほんの一瞬だったのにリーンは涙が出そうになった。
扉が開き、男が数人駆け込んで来る。ラルゴの言う『公爵の罪』がこれなのか。
ラルゴが前に出るのをリーンはシイナの肩越しに見た。あの程度の人数はラルゴなら余裕だろう。
「ラルゴ、あの子をよろしくお願いします」
それが届いたのかはわからない。リーンはシイナに抱えられ、空に舞い上がっていた。シイナの翼で空を飛ぶのはこれが初めてだった。
月もない。星も見えない。暗雲が広がる今にも降りだしそうな空だった。それが二人の門出にいかにも相応しい気がして、リーンはひっそりと微笑んだ。
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