第174話 ホントのキスをお返しに
遠くから流れてきた風が、少女の鼻腔をそっとくすぐるように通り過ぎていく。ほのかに海の香りがした。
ふと誰かに呼ばれた気がして空を見上げれば、そこにはどこまでも澄み渡る
陽光を遮る雲も今日は一切なく、空から降り注ぐ温かさが多くの生命に明日への活力を与えている。
少女が今いる場所から北側一帯に広がる田畑では、その恵みを受けながら青々と育った若葉たちが風に揺れていた。
どれだけ風に煽られてもまた元の姿に戻ろうとする穂の群れが、まるで寄せては返す波のようにも見えた。このまま育てば、秋には豊かな実りを届けてくれるのだろうか。
もしかすると、生命の織り成す美しさを初めて感じたかもしれない。
ふたたび空を見上げる。どこまでも青く蒼い。
まだこの向こう側に未知の空間が広がっていることなど誰も知らず、地上に這いつくばるように生きている。
だが、それを知っているからどうだとのいうのか。自分は足元――この世界のことをまだ何も知らない。
田畑では人々が農作業に精を出していた。皆懸命に今この時を生きている。思えば“彼”もそうだったのだろう。そのひたむきな姿をようやく思い返せるようになった。
憑き物が落ちたのかもしれない。すべては運命に立ち向かったひとりの少女の姿を見たからだろうか。
自分が何を残せるかはわからない。一度はすべてを諦めかけたけれど――もう少しだけ生きてみようと思った。
「はぁ、夜風が気持ちいいわねー」
ルーデンドルフ公爵屋敷のテラスで、アリシアが吹き寄せる風を受けて髪をかき上げながらほっとしたような声を上げた。
辺りはすっかり夜の
「さすがは王国随一の行楽地です」
傍らに立つアベルが応じた。
「南部は夜でもこんなに賑やかだなんて知らなかったわ」
岬の大灯台が行き交う船の目印となる灯りを発しているのもあるが、やはりこの世界でも数少ない観光地のような場所だけあって夜の街には賑やかさが漂っていた。
そんな街を見下ろす高台の屋敷のテラスは、どこか別の場所にあるようで酔客たちの喧騒からも離れている。時折そよぐ潮風がアルコールの回った身体を撫でていくようで気持ちいい。
「部屋の中も大概ですがね」
背後の部屋の中からは笑い声が聞こえてくる。夕方からずっと宴会が行われていた。ハインツ以外に他の貴族がいるわけでもない身内の集まりなので本当にフリーダムな無礼講だ。
元々参加者がことごとくがぶっ飛んでいる感も否めないが、普段よりブレーキが壊れているせいで宴会芸の
程よく場が温まったところで、アリシアはアベルを伴ってそっと部屋を抜けてきていた。
誰かしらは気付いていただろうが止めようとする者はいなかった。やはりそれなりに認められ、そして気を遣われているらしい。
「実はね、南に来たのは初めてなの。こうして海を見たのもね」
街並みを眺めながらアリシアは紅の色合いが美しいカクテル、ジャック・ローズをそっと舐めた。
喉を焼いていく
「左様ですか。失礼ながらそのようには見えませんでしたよ」
やや驚いた様子でアベルは自身が持った青い酒――スカイダイビングを呷る。ホワイトラムとライム果汁のさわやかな香りが鼻腔に抜けていく。これも強い酒だ。
「ほら、そこはちょっとくらい格好つけたかったとか察してよ」
ショートグラスを掲げたアリシアは軽く苦笑を浮かべる。
「わたしが生まれて、お母さまがあんな感じで砦に詰める形になってしまわれたから。お父さまも遠慮して別荘を処分してしまったらしいわ」
第1子に男が生まれなかったのをこれ幸いと、王都側は“次でそうならないよう”オーフェリアを国境線の守護とした。
優れた武勇の才を腐らせるにはもったいないと、“姫将軍”と呼ばれた彼女を異例の抜擢で砦の司令官に据えたと言うが、真の目的は見え見えだった。恐れたのだ。彼女が王家を脅かす存在を生み出すことを。
だが、結果からすれば彼らの読みは間違っていなかった。20年近い時を経て、彼女は王城に攻め込んでのけたのだから。
「あ、自分を責めたりとそんなのはもうないのよ?」
小さく首を傾けてアリシアは答えた。たしかに気負いは見られない。
自分が男子であったなら……そう思った時期も過去にはある。
だからこそ、王子の婚約者となった際には、いずれ国を取り仕切るウィリアムの支えとなるべく生きようと思った。残念ながらそれは叶わなかったけれど。
「アリシア様……」
「でも、ようやくすべてにカタがついたわ。2年を長いと見るか短いと見るかはあるかもしれないけれど、なんだか肩の荷が降りた気分よ」
たかが2年。されど2年だ。本当に色々なことがあった。
新たな出会いに別れ。あとは大なり小なりの戦いだろうか。それらを繰り返し、少しずつ前に進んで来られた。
今こうして振り返ってみれば、それほど悪い結果にはならなかったように思う。
誰も死なず、皆が揃って幸せになる結末など
もちろん自分ひとりの力など知れている。最初からそうだったが、周りには助けられてばかりだった。それは今でも変わらないし、これからも続いていくと思う。
だけど、選ぶべきものを他人任せにしたつもりはない。それだけは自信をもって答えられる。
身勝手に思われるものもあるだろう。生殺与奪の権利を握ったような振る舞いもした。だが、それらを含めたすべてが自分の生きた証だった。
「ええ、終わりました。――これからどうされますか?」
胸中で過去を振り返っていたアリシアを見て、アベルは何とはなしに問いかけた。
紆余曲折はあったが王家の後継者問題も片付き、周辺国の干渉も一時的かもしれないが跳ね退けた。
マクシミリアンを次期国王に据えて国内が安定に向かっている以上、領主でもないアリシアがあくせく働く必要もなくなるだろう。
「ねぇ、アベル。わたしと付き合ってくれる?」
「ごほっ!」
唐突過ぎて話が読めなかった。さすがのアベルも言葉を失うどころか咳き込むしかない。
「あ、ごめんなさい。いくらなんでもいきなりだったわね」
笑って小さく謝るアリシア。不意打ちを喰らったアベルがカクテルを噴き出さなかったのは奇跡に等しい。
「うーん、どう説明したらいいのかな。いろんな意味があるのよね。結婚はまだかもしれないけど、ちょっと新しいこともしてみたいし……」
結婚? 誰が誰と?
あまりにも話がぶっ飛びすぎていてアベルにはよくわからない。知らないうちに中の連中に飲まされすぎてしまったのだろうか?
「新しいこと、ですか?」
ほのかな動揺を覚えつつも、なんとかアベルは言葉を返せた。
「さっきお父さまとお母さまと、ハインツおじさまと話した時に言われたの」
ここで気合を入れるぞとばかりにアリシアはカクテルを一気に飲み干す。気持ちはわからないでもないが、ちょっとやりすぎ感が否めない。
「おまえが爵位を継ぐとしても、まだしばらくは先の話だって」
当然である。クラウスはまだ40歳かそこらだ。大きな病にもでも罹らない限りあと20年は健在だろう。何しろ
「だから南大陸を“見て来る”気はないかって言われたの」
もちろん言葉通りなわけもない。ほとぼりを冷ますどころか、余所へ積極的に放火しに行くようなものである。
だが、クラウスたちがそう言い出す理由も理解できなくはなかった。
国内の問題が解決した以上、やはり海兵隊という存在を持て余してしまうのだ。
「扱いかねてるのよね、笑っちゃうわ。でも……そこなら周りの目がどうのなんてない自由な世界だって言われたら、本気で迷っちゃうわよね」
困ったような表情を浮かべてアリシアは答えた。
もっともそれも表面上だけのことで、すでに迷っていないように見えた。ただ自分の言葉に対してアベルがどう答えるかだけを聞きたいのだろう。
「だから――南には行くつもり。そこが新たな戦場というなら望むところよ。時代は常に流れているわ。狭い世界で
浮かんでいたのは令嬢というよりも武人と形容すべき勇壮な表情だった。
色々ありすぎてすっかり少女の儚さはなくなってしまったが、それを補って余りあるだけの
「だけど、わたしひとりじゃイヤ」
ふっと表情を和らげたアリシアは、一度視線を巡らせて景色を眺める。
「わたしはね、アベル。あなたについて来てほしいの。従者じゃなく――“対等な存在”として」
ふたたび正面からアベルを見据えてアリシアは言い切った。余計なしがらみがなくなった今しかないと思ったのだ。
「普通こういうのって、男の私から言い出すものじゃありません?」
「そうかもね。でも、あなたから言い出すのを待ってたら、立場に気を遣ってばかりでいつになるかわからないじゃない。待っていられないわ」
非難めいた口調だったが、アリシアが本気で怒っている気配はない。
対するアベルはひと言も言い返せなかった。まさしくそのとおりだったからだ。
従者としてずっとアリシアのそばにいたアベルの感覚と、彼女に敬意を抱きつつもそれは恋愛感情ではないと己に言い聞かせてきたカイルの感覚が、複雑に混ざり合って今に至っている。抱えた想いの答えを出さないままに。
「あなたにも色々あるわよね。だからね、わたしから言っちゃうことにしたの。いいじゃない、わたしはあなたが好き。それは本当なんだから」
もう何回か言ってるでしょ? と悪戯めいた笑みを浮かべた。ここで誤魔化したりするつもりはないようだ。
「……私には勿体ないお言葉です」
アベルはそっと頭を下げたが、アリシアはそれを許さない。
「ちょっと。言われて終わりにしないでよ。海兵隊は真っ先に敵地へ殴り込むんでしょ?」
引くつもりはない。ダメなら押し続けるだけだ。これだけは迷わなかった。
「あー、ちゃんと言葉にしなきゃダメですよね?」
アベルの言葉に、腕を組んだ
「ダメよ。わたしはずっと待っていたんだから」
アリシアは柔らかな笑みを浮かべていた。表情の裏に不安を隠したまま。
この期に及んで立場を盾につまらない答えは返したくはない。同時に、相手に促されて答えたもので自分の気持ちを示していいのかと思ってもいた。
自分はアリシアに手を差し伸べ、彼女は全力で応えてくれた。運命さえも覆せるのだと見せてくれた。
だったら、今度は自分が前に進む番だ。
「俺は――」
「ふふ、意地悪はやめておきましょう。いいわよ、今は言わなくても勘弁してあげる。でもその代わりに――次はどうすればいいかわかるわよね?」
そこでグラスを置いたアリシアは距離を半分だけ詰めてアベルの言葉を遮った。なぜと思う間もなく、少女は挑むようにアベルを上目遣いに見た。ほのかに上気した頬。今までに見たことのない艶やかさがあった。
「そりゃあ、俺だって男の端くれなのでね……」
言いたいことはすぐに理解できた。100の言葉よりも欲しているものはひとつだけ。
主人と同じようにグラスの中身をひと息で呷ったアベルはアリシアに近づいていく。
あっという間にふたりは息の触れ合う距離に達する。
「ちょっと酒臭いかもですけど……」
「そういうのはわかっていても言わないの!!」
雰囲気を壊すなと怒りながらも、相手の態度がじれったくなったアリシアはそこで爪先を伸ばした。
柔らかいもの同士がそっと触れ合う感触。なにが起きたかなど考える必要はなかった。
「……たしかに、ちょっとお酒の味がするわね」
しばらくの沈黙のあと、元の姿勢に戻ったアリシアは小さく笑った。
完全に主導権を握られっぱなしである。従者のままならそれでもいいだろう。しかし、従者でいるのはついさっきやめた。
「じゃあ、これならどうでしょう?」
今度はアベルから距離を詰め、主人が驚きや戸惑いを浮かべる前に唇を奪った。
反射的な緊張で一瞬アリシアは強張ったが、すぐに力を抜いて身体を預けてくる。すこし荒っぽさのある口づけだったが、それが少女の脳を強く甘く痺れさせる。
「……訂正。味なんて考えてる余裕もなかったわ」
顔を真っ赤にしたアリシアは、恥ずかしそうに目線を伏せて答えた。
この様子では、会話を切り出してからずっと強がっていたのだ。
振り絞ってくれた勇気を、アベルはとても尊いものだと感じていた。
もう言い訳をするのはやめよう。自分はこの少女を愛している。貴族として従者として海兵隊員として、いやひとりの男として。
「あらためて私から。――僭越ながら、お供させていただきたく。世界征服ってわけじゃないでしょうが、この世界に呼ばれたからにはもう少し海兵隊の真価を見せつけてやるのも悪くないでしょうからね」
口を衝いたアベルの声にもはや遠慮はなかった。
南へ行けばどうなるだろうか。今までとは違う歩み方ができるかもしれない。きっとそれさえも新鮮に感じられるだろう。ふたりの距離ならば。
「ふふ、いいわね。どうせ新たなトラブルは向こうからやって来るのよ。だったら先に備えておかないとね。新大陸? 古の魔王? なんでも来いよ」
満面の笑みを浮かべたアリシアはアベルの胸に顔を埋めた。アベルもまたそれを優しく抱きしめる。
「ええ。どれほどの敵が現れようとも、俺はあなたのそばに――」
アベルは力を込めて頷いた。ふたりの指が、どちらからともなく自然と絡み合う。互いの熱が静かに交わされる。言葉は要らなかった。
きっとこれからも、立ち塞がる敵がいるかぎり海兵隊の戦いは終わらない。
もしもこの世界に呼ばれた最初のメンバーがいなくなり、そこからどれだけ世代を経ていっても――。
兵同士の絆と不屈の闘志を持って祖国のために戦い続ける限り、海兵隊は永遠の存在として語り継がれるだろう。
誰もが一騎当千のライフルマンとして――。
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