第155話 誰かの傷ついた心が


 時はしばし遡る。


 アリシアが王城へ向かってからしばらくした頃、今後の状況についてリチャードと話し合っていたクラウスの下へオーフェリアがやって来た。


「旦那様、お客が見えております」


 紙とインクの香り漂う執務室に、嗅ぎ慣れた香水の匂いがほのかに混じる。


「客? 予定はなかったはずだが……。先触れもなしにか?」


 クラウスからの問いを受けたオーフェリアは、意味ありげに笑うだけで答えない。視線を向けていると、彼女は代わりとばかりに部屋の隅に置かれていたクリスタルグラスを三つふたりの下へ運んできた。


 コルクの栓が抜ける音が響き、スコッチウイスキーがグラスへ注がれていく。部屋の空気に、今度は長期間熟成されたモルト香が追加された。


 行動を眺めていたふたりにオーフェリアはグラスを手渡し、次いで本人が軽く煽ってみせた。


 そんな突拍子もない仕草を見てクラウスは思い出す。妻がこういった行動に出る時はだいたい何か起きた時だと。


 ――そうか、


 これまでの経験から彼もまた察するに至った。事態が自分たちにとって好ましくない方向へ動き出したことを。


「ええ。説明するよりも、あちらをご覧いただければ……」


 部屋の中を進んで行ったオーフェリアは窓際へと近付き、扇子で外を指し示した。

 妻に促されるままクラウスが窓へと近づくと、門のところに集まった鎧に身を包んだ集団の姿が見えた。


「あれは……」


「完全武装の騎士団と衛兵たちの混成部隊ですわ。ざっと100人はおりますでしょうね」


 言うまでもない話だが、観兵式パレードはとっくの昔に終っている。ならば、今の状況で騎士や衛兵が集団で闊歩するような事態はひとつしかない。


「……思った以上に早かったな」


 意外なほど事態を冷静に受け止めている自分に気付き、クラウスは笑みが込み上げてきた。


 ここから“お客”の全容は見えない。

 にもかかわらずオーフェリアが動きを把握しているということは、すでに屋敷周辺で監視の任についている兵がいてそこから報告が上げられてきたのだろう。


「よほど我々が王都にいるうちにどうにかしたいと見えますな。今回だけは手際の良さを褒めてもいいくらいです」


 背後に控えるリチャードがそっと口を開いた。相変わらず歯に衣着せぬ物言いをしているが、目は一切笑っておらず剣呑な輝きが密かに宿されていた。


「まったく、陰謀に使う頭をすこしはまつりごとにも活かしてもらいたいものですわ。この様子ではアリシアは戻って来ませんわね。いえ、王城へ向かった時点で人質も同然でしたか」


 腕を組んだオーフェリアが嘆息しながらもリチャードに同意した。

 この状況下にもかかわらず、彼女に焦りや不安といった感情は見受けられない。すくなくとも表情に出してはいなかった。

 もちろん、クラウスは誤解しない。彼女とて公爵夫人である以前に母親なのだ。ひとり娘であるアリシアの身を案じていないはずはない。


 しかし、それ以上に彼女はクラウス同様、多くの兵や民に対する責任を持つ立場だった。


「最小限の兵力で敵将を一網打尽にできる最初で最後のチャンスです。もっとも、


 淡々と事実のみを告げていくリチャード。クラウスから見て、彼がもっとも落ち着いているようだった。自分やオーフェリアよりも踏んできた場数が違うのだろう。


 アベルの選択に感謝したくなるな……。


 未曽有の危機にあって、頼れる存在が傍らにいてくれるのは驚くほど心強く感じられた。今さら言うことでもないが、アリシアにとってのアベルがそのような立ち位置なのかもしれない。


 ふと口の中が乾き、手にしたままのグラスを口に運んだ。強烈な酒精アルコールが喉を焼き、モルト独特の香りが鼻へと突き抜けた。

 ウイウキー自体はリチャードが用意していたものだ。おそらく、これは以前彼から教わった“カスクストレングス”と呼ばれる加水していないものではないか。

 執事のふりをしている壮年の将軍を見やると彼はどこか楽しげに笑っていた。


 公爵夫妻が口をつけたのを見届け、彼はひと息で中身を干す。惚れ惚れするような飲み方だった。


「時として、心に火を点けることも必要なれば」


 口唇をわずかに歪めてリチャードはグラスを掲げて見せた。どこまで本気かわからない口調だった。


「閣下……!」


 3人がグラスを置いたところで、廊下を走る足音と共にアベルたち海兵隊メンバーをはじめとした兵たちが駆けつけて来た。

 彼らはすでにどのような命令が出てもいいよう野戦服に身を包み、それぞれの武器を手にしている。


 ここが正真正銘、最後の分かれ道だとクラウスは確信していた。


 アベルたちには問うまでもない。彼らは公爵家、ひいては王国の滅びる運命を変えるために時空を超え現れた存在なのだから。


 だからこそ、クラウスは長年共に歩んできた最愛の妻に視線を向けた。アリシアはすでに自分を信じて己の戦場へと向かった。決める立場にあるのは彼だけだ。


「あとは旦那様のままになさいませ。必要とあらば、わたくしも露払いをさせていただきましょう」


 小さく微笑んだオーフェリアは短い言葉を返すだけだ。


 しかし、クラウスにとってはそれで十分だった。


「……諸君。まことに残念ながら、王家は実力をもって我々を排除すると決めたようだ」


 集まった者たちを見据えて、クラウスは穏やかに言葉を発した。身体の中には熱が渦巻いている。

 先ほどの酒精だろうか? いや、それだけではないはずだ。


「卑怯にもアリシアを虜囚りょしゅうとし、我が公爵家を取り潰すつもりだろう。予想していた中でも最悪の事態だな」


 声にわずかではあるが熱がこもってきた。本人は気付かない。


「知っての通り、私たちはこの国が滅びの道を辿ることのないようこれまで懸命に動いてきたつもりだ。しかし、王家はそれに応えず、今や権勢を追い求めるだけの亡者となった」


 祖国などいう言葉は使わなかった。彼らに強要するべきものではないからだ。

 あるいは、国を乱すことを避けられなかった己の未熟さ――自分の怯懦きょうだを隠すためだったのかもしれない。


「いざ事ここに及んでは身の振り方を決めなければならない。正直、選択肢はふたつ……まぁ実際はひとつだな。戦うしかあるまい。降伏もあるが……


 クラウスの冗談に、集まった兵士たちの間から小さな笑い声が漏れる。


「仮に我々が排されたとしても、王家の専横を良しとしない貴族派は抵抗するだろう。国を割った内乱は必ずや起きる。傍観者であれば墓守か僧侶役かで悩めたかもしれんがそうもいかん」


 事態の裏でほくそ笑んでいるのは後者だ。そう考えると今まで忘れていたかのように怒りが湧き上がってきた。


「正直、私は運命という言葉が嫌いだ。努力を放棄した者が諦めるために使う言葉だと思っていたし、そうでなくても何者かに未来を決められているようで居心地が悪くなる。だが、今日だけは違う。そのようなものがあるならば、我々の手で変えてやろう。アリシアがそうしたように。……あとは兵団に任せる」


 そう言い切ったクラウスは一歩後ろに下がった。

 ガラにもないことをして急に気恥ずかしくなってきたのだ。これも娘から受けた影響のせいかもしれない。


 しかし、そんな夫を見るオーフェリアは実に満足気な様子だった。

 クラウス・テスラ・アルスメラルダは自身の力が及ぶ限り、愛するものすべてを守り抜くと宣言したからだ。


「聞いての通りだ、兵士諸君。閣下は我らの活躍を望まれている。ならば今こそ応えようではないか。……中佐、年寄りの話は長くなる。ここからは貴官が相応しいだろう」


 リチャードの言葉を受け、アベルは表情に疑問を滲ませながら進み出ていく。


「私でよろしいので?」


「バカを言うな。他に誰がいる?」


 召喚されてからずっと、リチャードは自分をあくまでもオブザーバーに過ぎないと位置づけ、決定はすべて後進アベルに任せていた。今回とて例外ではない。

 無論、「お前の始めた戦争だ」などと言うつもりもなかった。これまでアベル彼女アリシアが選んできた道の結末を見届けたかったのだ。


 そんな意思を感じ取ったアベルは静かに頷き、息を深く吸い込んだ。


「……この場にお嬢様はいらっしゃらない。だから少々下品に行くぞ」


 覚悟を決めたアベルは兵たちを見渡し、見せつけるように獰猛な笑みを浮かべた。


「……待ちに待った出撃だ! カチ込み先は王宮! お嬢様を助けに行くついでにバカな王子と淫乱クソビッチ、それに与するクソどものケツを蹴り飛ばせ! 邪魔するヤツに容赦は要らん! わかったかYou野郎どもGot It!?」


「「「「「We Got You, Sir!!」」」」


 一斉に踵を踏み鳴らし、それぞれが銃を頭上へ掲げる。手に携えた武器はバラバラだったが、その動きは微塵も乱れていなかった。


「よし、手始めに無礼な客を盛大に歓迎する! 各員配置につけ! この場に来ていない連中にも伝えろよ、ロックンロールだとな!」


「イエッサー!!」


 ほとんどの兵士が部屋を出て行き、後にはほんの数人が残っただけだ。


「……あんな演説めいたことをしてみたが、アリシアが聞いたら笑い出すかもしれんな」


 クラウスが控えめに苦い笑みを浮かべてつぶやいた。


「ええ、きっと。あの子は王族になり代わりたいとか当主になりたいなどと自分から言い出したことはありません。叙爵を目指したのもそう。ただ、立ち向かうために選んだだけ」


 オーフェリアが静かに、それで力強さを感じる声で応じた。

 敢えて言葉にしたのは、皆がクラウスの想いをきちんと理解していると言いたかったためだ。


「それもアリシア様が必要だと信じたからこそです」


 最後にアベルが答えた。アリシアを見守ってきた者として。


「親としては損な役目を押し付けたくはなかったんだがなぁ……」


「本人の意思です、閣下。それに、良いではありませんか。大人にできることなど知れております。そっと見守ってあげて、困った時に助けるだけで存外何とかなるものですよ」


 リチャードが微笑み、そして視線を動かした。


「……さて、舞台は整った。君はこのまま知らんふりをして歴史の中に消えていくつもりかね?」


 その場に残る全員の視線が、たったひとりに集まった。


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