第132話 聞こえるか 聞こえるだろう 遥かな……


 吹く風が日増しに温かみを増し、否応なしに春の到来を感じさせる空気が漂う。

 そんな中、ヴィクラント王国・エスペラント帝国国境地域には、北方より冬の残滓を思わせる冷たい風と共に軍勢が下ってきていた。

 展開するは、ここ百年間で北方の周辺国を負け知らずに飲み込みながら領土の拡大を続け、また一兵一兵が精強で知られる帝国軍。対するヴィクラント王国は北方に封ぜられたヒューゲル辺境伯を中心とした貴族連合軍だが、慌てて兵をかき集めた印象は拭えない。


 気の早い兵などはすでに隊列を組むべく動き回っている。時折、動きの遅い兵士が下士官に怒鳴りつけられ、この世のすべてを呪うかのように呪詛をつぶやく。

 時折、凍っていた地面で足を滑らせた兵が転倒するが、ほとんどは周りから失笑を買うばかりである。

 戦を前にすればどこの世界でも見られる光景だった。あとは双方が展開を終えたところでどちらからともなくそれは始まる。


「敵が平野を埋め尽くしている……」


 国境線付近に展開していた家臣から「帝国軍、南進を開始せり」との情報を受け、慌てて領軍――といっても農兵中心だが――を動員し、国境付近に展開した辺境伯家当主レオナルト・ヴィル・ヒューゲルだが、彼は眼前に展開した敵軍勢力を目の当たりにし恐れおののいていた。


「こ、これほどの軍勢と我らだけで戦わねばならないというのか……?」


 彼が視線を向ける先――――春の息吹で緑色に染まる前の平原には、どれだけ少なく見積もっても五千を超えるであろう軍が展開していた。


「ご当主! 我らは元よりこの時のために北方の地を任せられているのですぞ! 戦で武功を上げるチャンスです!」


「しかしだな、あの兵力を見たか!?」


 家臣の発破を受けるも、当主レオナルトは戦う前から完全に腰が引けていた。

 これまで戦と無縁に生きてこられた境遇というのもあるのだろうが、この場合はそれが悪い方向へ出てしまったと言える。

 想像力の欠如と言えばそれまでかもしれないが、ここ最近の彼は自分が戦に巻き込まれるとは思っていなかった。


 元々、辺境伯家は帝国への備えとしてこの地に封ぜられているわけだが、すくなくとも先代や彼の代になっても北方から軍が南下してくる気配は見られなかった。

 帝国ほどではないにしても、王国とてそれなりに大きな領土を持つ国であり、まともに戦えば然るべき損害を覚悟しなければならないほどの戦力を有している。

 周囲の国と大きな戦でも起きてしまえば話は別だが、その均衡が破られない限り帝国が攻めてくることなどありえないと北方貴族たちの間では考えられていた。

 結局のところ、慢心していたようなものだろう。そうした仮初の安定は、ちょっとしたこと――――国王の崩御などで容易く崩れ去るのだから。


「おそらく王国の防衛力を試しているのでしょう。五千の動員程度では帝国は本気ではない」


 数を前に圧倒されていると、今度は敵軍に旗が上がる。


「あ、あの旗! 見ろ、あれは帝室の旗ではないか! 」


 レオナルトが顔面を蒼白にして叫ぶ。


「私の記憶が間違っていなければ……第3皇子アウグストのものですな。前哨戦と言っても差し支えない戦に出てくるとは……」


「し、獅子皇子アウグストだと! 私に勝てるわけがないではないか! なにが本気ではないだ!」

 

 大将であるレオナルトの叫びは絶叫に近くなっていた。

 獅子王子アウグスト。その異名の通り、周辺国を併呑した近年の戦いにおいて数々の武勲を上げた、天に愛されたとしか思えない武勇の王子である。

 思いつく限り最悪の相手がほんの2~3キロ先に布陣しているのだ。そう考えるだけでレオナルトは今すぐにでもこの場から逃げ出したくなってくる。

 この時点でまるで役者が違っていた。


「ですが、ご当主! 戦わなければ蹂躙されるだけです! 領地を失うだけでは済まないのですぞ!」


 さすがにその言葉を受けてレオナルトは次の言葉――――「退却」を飲み込んだ。

 王都への援軍要請はとうの昔に出していたが、それが開戦に間に合わないことは理解している。

 だからといって、戦力が足りない、あるいは勝てそうにないからとここで逃げ出せば、命は助かったとしても彼の貴族としての人生は終わりだ。あるいは敵前逃亡の罪で処刑されるかもしれない。

 貴族として最悪の未来を想像したレオナルトは、なんとか自らの手で死刑執行にサインを下す愚挙を避けることができた。


 ――――どうにか持ち堪えられたか。だが、こんなものは始まりですらない。


 家臣団のトップである従士フォルカーが小さく安堵と不安の綯い交ぜになった溜め息を吐く。


 この場に実質的なヒューゲル家傘下となる寄子の貴族たちがいなかったのはまさしく幸運だった。


「このまま、我らだけで戦うしかないのか……? やはり援軍は来ぬか……」


 それでも主君は覚悟を決めきれないようだ。


 ――――敗者に情けをかけないアンゴールが相手であれば、こちらも死兵になるよりほかなかったのだが、これではな……。


 フォルカーまでも気分が陰鬱になってくる。

 総大将がここまで弱気では戦いの趨勢もすでに傾いているに等しかった。

 もしも寄親であるレオナルトの体たらくを目撃されれば、味方の士気が下がったばかりか、最悪の場合、彼の首級を手土産に帝国に投降を考える者すら現れたかもしれない。


 帝国の拡大政策は世に広く知られており、下った者には比較的寛大な扱いをすることもまた認知されている。それは寝返った者からしても決して悪い話ではなく、極端に言えば以前の領地さえ安堵されてしまえば税を払う先が変わるだけである。

 そして、彼らが次なる尖兵となって元同胞を倒す駒となるのだ。本国の損害も減らすことができる実に合理的な戦略と言える。

 これに併せ、国の中心部から転封されたような不満を持つ貴族には調略も仕掛けるのだから効果は抜群である。


「なんとかならぬか、フォルカー!」


 たとえ軍事的に無能であっても貴族の仕手の矜持があるからか、さすがに寝返るという選択肢は思い浮かばないらしい。レオナルトは家臣に縋るような視線を向ける。


「いざ戦となれば、動員できた兵力と仕込んだ策のぶつかり合いにしかなりませぬ。起きないから奇跡と申しますゆえ」


「そんな無責任な……」


 責任を持っているのはあなたですがとは言わなかった。フォルカーにも主君の面目を潰さないだけの分別がある。


 しかし、こんなことになるなら、もっと強くレオナルトを説得して今王国内で密かに話題となっているアルスメラルダ家の新兵器を導入しておくべきだったのではないか。フォルカーは強く後悔する。


 昨年の秋に東部で起きたランダルキアの侵攻において、勝利こそ得られたもののその代償として東部貴族の多くが敵に討ち取られてしまったとまことしやかに囁かれている。実際、もう半年もすればそれは噂ではなく事実として確定するだろうが、それも今は国王の崩御によって上書きされつつある。


 いや、そんなことはどうでもいい。

 より重要な噂として出回っているのが、「西部から遥々派遣されたアルスメラルダ家の軍が新兵器で敵に大きな損害を与え勝利のきっかけを作った」というものだ。

 戦の戦功は他の貴族が戦死したこともあって東部の有力者であるリーフェンシュタール辺境伯がほぼ独占する形となったが、それは間違いなくアルスメラルダ家が悪目立ちを避けようとしたからに違いない。

 対アンゴールで上げた武勲にも等しい、いや、ある意味ではそれ以上に見られる功績を一家だけが独占するのは不要な妬み嫉みを買うで実利に乏しい。彼らはそれを回避して最善の立ち回りをしたのだろう。目の前で狼狽えている主君に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだった。


「ここまで戦力差があるのなら、王都から軍が到着するのに期待するだけでなく、アルスメラルダ公爵家にも援軍を頼めばよかったかもしれませぬな」


「な、何を申すか! あやつらは貴族派! 我が家は王室派ぞ!? そんなことをすれば王都のウィリアム様に睨まれてしまうではないか!」


 先のことを心配する暇などレオナルトにはないはずなのだが、敵への恐怖を誤魔化そうとするかのように叫ぶ。


 南西に広い領地を持つためアルスメラルダ公爵家とは隣みたいなものなのに、そことよしみを交わすでもなく先代の言うまま王室派でいたからこうなったのだろうな……。


 まず生き残ることができたらと前提条件はあるが、将来のことを考えるに、この戦いで軍事的に無能な主君をどうにかして表舞台から退場していただいた方がいいのではないかと悩み始めるフォルカー。

 ヒューゲル家に代々使える者としての忠誠心と、ひとりの王国民である良心がせめぎ合っていた。


 ――――レオナルト様では戦の差配など到底無理。しかも、敵が強すぎる。このままではいたずらに犠牲を生み出すだけだ。撤退戦を行おうにも練度が……。


 まずはどうやってこの場を切り抜けるかとフォルカーは悩むがそう簡単に答えは出ない。

 そんな時だった。突如として両軍の間に横たわる土地が、立て続けに火山が噴火したかのような大爆発を起こしたのは。




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