第109話 天高く人謀る秋



 肌を撫でる風が、涼しさよりも冷たさを感じるようになるにつれ、山々の色も緑から赤や黄色へと移り変わろうとしていた。


 ――――空が高い。


 雲ひとつない天はどこまでも澄み渡るように映り、見つめているだけで吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。


 しかし、この蒼穹そうきゅうの遥か向こう側に足を踏み入れると、今度はどこまで続くかもわからない永遠の闇が広がっているのだという。


 その事実を知っているのは、おそらくこの世界でもほんの数人だけだろう。

 多くの者は、ただ1日ごとに同じ空を太陽が引き連れてやってくるか、あるいはどこかが天井のように行き止まりになっていると考えている。


 涼やかな風を浴びながら空を眺めるアリシアは、その数少ない“事実”を知る者のひとりであった。


「しばらく屋敷にこもりきりで気付かなかったけれど、この様子ではじきに寒くなってきそうね。はぁ……。最近、月日が過ぎるのがなんだかとっても速く感じるわ」


 空へと向けていた視線を下ろし、そっと形の良い唇の隙間から言葉を漏らす。


「領主代行になられてまだ1年も経っていないのです。日々の執務に追われるのも無理ないことかと」


 数歩ばかり後方に控えた青年がそっと答えた。意識していなかったアリシアはドキッとしてしまう。知らぬ間に口から感情が出ていたのだ。


「……べつに、執務がどうとかで言ったわけではないわ」


 しまったとばかりに細い眉を小さく歪めてアリシアは振り返ると、彼女の従者にして想い人となった青年――――アベルの姿があった。


「承知しておりますよ。ですが、そう悲観される必要がないかと。王国もそれなりに広いですから、北部ともなると日照時間の関係で夏の期間が短いのですよ」


 気のせいだと控えめだが切って捨てるアベル。

 最近、めっきりプライベートの時間が取れなくなったアリシアとしてはもうすこし気の利いたというかやさしい言い回しはないものかと不満に思ってしまう。


 もちろん、無意識に出た独り言であっても、本気で苦痛を感じていたり、現状にんでいたりするわけではない。


 昨年の夏から続く怒涛の日々が終わらない――――いや、終わる気配が微塵も感じられないことへのちょっとしたぼやきのつもりで、誰かに向けて放った言葉ではなかったのだ。


 そもそも、あの“一大転機”がなかったとしたら、今頃実家はお取り潰しの憂き目に遭い、アリシアの首から上も切り離されて、どこかに打ち捨てられ大地の養分となっていたに違いないのだから。


「だから、比例してゴタゴタも起きやすいのかしらね? もっとも、そんなものにわたしを巻き込まないでほしいのだけれど」


 表立って個人的な不満は口にせず、あくまでも自分が外的要因に振り回されているとする。

 つまらないものとは思いつつ、領主代行を務めている者なりのプライドだった。


 もしリチャードがこの場にいればアリシアも口にはすることはなかっただろう。胡散臭い執事スタイルと口調で内心を見透かされるのが目に見えていた。


「本当に。我らは我らでやらねばならないことが山積みだというのに」


「わかっているのかしらね、連中。こうして軍を展開させるだけでもどれだけの日数と費用が必要なことか。これでまたぞろ再戦なんてしようとしていたんだから本当に呆れてしまうわ」


 “軍の派遣を命じた存在”について思い出したかアリシアの表情に不快の色が滲む。


 あの後、怒り心頭のウィリアムが叫んでいた第1騎士団との模擬戦だが、それは開催に至らなかった。

 やはり、“本人にとっての無駄な支出”を嫌うシュトックハウゼン侯爵が裏で手を回して有耶無耶にしてしまったようだ。そんな費用があれば、自身の息のかかった商会から騎士団に買い物をさせた方がよっぽど儲かるのだろう。


 自身の思惑が空振りに終わったウィリアムは大層機嫌を悪くしたらしいが、現状彼自身に実権があるわけでもない以上、怒りの向け先は不幸な家具が壊れただけで収まったと聞く。

 もっとも、そんな噂すら漏れ聞こえてくるようではこの国の将来には不安しかないのだが。


「損して得を取ろうとしたか諸侯もこぞって派兵を決めましたしね。そういえば第3騎士団も今回出張ろうとしているようですが」


「誰も彼も自分が取り残されないようにしているのよ。選択が正しいかは別として」


 不安要素があるからこそ、多くの貴族は自身の権勢を拡大させるためにあれこれと動き始めていた。


 風の噂では、アリシアたちに敗れた第2騎士団や、公爵家と付き合いのある第4騎士団がこれまでの騎馬突撃一辺倒の戦い方を見直し、分隊単位での行動などを初心に立ち返って叩き込んでいるらしい。


 騎士団という性質上、彼らの立ち位置は王室派といっていいはずだが、今の時点でアリシアたちにとって明確な敵となっているわけではない。

 不安要素を抱え込んでいることを考慮すれば、王国の軍事力が多少でも底上げされるのは悪くない話だとアリシアは思っている。


いくさの転換点を察し、それを取り込める者が相手となれば、次の模擬戦はそこそこ苦戦するかもしれません」


。……でも、面倒な第2回模擬戦がなくなって良かったと思っていたら、まさか今度は本当の戦になるだなんてねぇ……」


 アリシアの声色はやや低い。気が乗らないためだ。


 そもそも今いる場所にしても、アルスメラルダ公爵領がある王国西方ではなく、北東部のリーフェンシュタール辺境伯領であるし、彼らが見に包んでいるのも貴族の平服ではなくゴリゴリの海兵隊野戦服だ。


 そう、アリシアが口にしたように戦が迫っていた。


 夏の間は誰も彼もうだるような暑さのせいか企みも控えていたようだが、風が涼しくなる秋口に入って、にわかにまたそれぞれの思惑が動きはじめていた。


 王国北東部で国境を接するランダルキア王国が突如として軍を派遣してきたのだ。


「今回の件、やはり気乗りはされませんか」


 すこしだけ困ったような表情を浮かべてアベルがアリシアに問いかける。


「そりゃそうよ。わたしは別に戦争狂ウォーモンガーじゃないもの。わざわざ国の反対側から兵力を持ってこさせる? 頭悪いんじゃないの?」


 他に聞く者がいないからかアリシアの言葉に容赦は欠片もない。


「どう判断するか迷うところですね。単純に注目を浴びている我々が試されている可能性がありますし、王室派は王室派で自分たちの息がかかった貴族領軍の戦力が失われるのをできるだけ避けたいのかもしれません」


「政敵の力を削ぐのも正道ではあるけど、ぶっちゃけ清々すがすがしいまでの他力本願よね。この状況で参加している連中の気が知れないわ」


 盛大に嘆息するアリシア。


 たしかに麦の収穫が終わった今なら、略奪にはもってこいの時期である。本格的な冬の到来によって軍を動かせなくなる前に、新たな国境線を引き直したいのだろう。


 見方によっては不埒な侵略者に対して一致団結して立ち向かうようにも感じられるが……。


「すこしでも王都の覚えをめでたくしておきたいか、あるいは戦功を挙げて領地を加増してもらうのが狙いでしょうね」


「火事場泥棒にしか見えないわね。そこら中からアリにたかられて、リーフェンシュタール辺境伯が気の毒になってくるわ」


 主役で戦わなければいけないリーフェンシュタール辺境伯家は集まった大小の貴族からの要求――――戦場での配置だとか攻勢の順番などを受け大混乱状態にあった。あれではまとまるものもまとまらず、おそらくまともに戦えないはしないだろう。


 公爵家の威光によってさほど干渉を受けずに済むのを幸いに、アリシアとアベルは特に配置などの要求をしなかった。騎兵がいないので前線での突撃には付き合えないと言ってあるくらいだ。


 細かい要求をするだけ無駄と思っていたことも否めないが、まず第一に遊撃隊が中隊規模だとしても、王国標準の部隊と共同戦線を張るのは無理があったためだ。

 もし本格的にやるのであれば、指揮権そのものを委譲してもらう必要があるが、今回の戦の名目がリーフェンシュタール辺境伯領の死守である以上、それは不可能と同義であった。


「王都も諸侯の動員に制限をかけなかった以上、みんな仲良く損耗してほしいのかもしれませんね。だから、その思惑を隠すために我が国からの攻勢案すら出されている」


 大方、シュトックハウゼン侯爵あたりが自分たちのリスクに対するリターンを考えた結果、リターンのほうが大きいと考えたに違いない。

 防衛のみに留める妥協案は現状では否決され、代わりに国土拡大のための攻勢案がどこからか上申された。国境線の引き直し程度であっても、侵略者の迎撃に成功し、返す刀で領土までかすめ取れれば大金星だ。

 昨年のアンゴールとの戦いで得た戦果よりも名目的には上回る扱いにできよう。政治的なことには無駄に頭が回るものだとアリシアは呆れずにはいられない。


「あわよくばわたしたちを葬り去ってまで? 祖国の腐り具合に、いよいよ亡命したくなってくるわね」


 誰かを小ばかにするように鼻を鳴らしたアリシアの目つきが剣呑なものに変わる。


 軍勢の左翼を任されているが、味方はろくに――――いや、重要視されておらず皆無だ。

 事前の会議で王室波の貴族たちが散々口にしていた「アンゴールを打ち破った精強」を理由にアリシアたち遊撃隊と敵の両方を磨り潰し、最後に自分たちが美味しいところをかっさらっていくつもりなのが透けて見えていた。


「亡命するくらいであれば、海兵隊の全戦力をもって王城を制圧した方が早いかと。最後の手段ですが計画プランは用意してあります。ヘリの強襲で――――」


 いざとなれば全力で国りを支えるつもりがあるとアベルは告げていた。


 こんなことが前にもあったとアリシアは不意に思い出す。婚約破棄の時だ。

 苦しんだし、未来を恐れた。それでもひとりのおかげで諦めることだけはせずに済んだ。今はその時の自分よりも少しは強くなれたはずだ。


 そして、支えてくれる皆がいるからこそ、物語にうたわれる勇者でも英雄でもないアリシアはまだこの世界で戦うことができる。


叛乱はんらんかぁ……。元々辿りそうだった運命的にできるだけ使いたくない手段よね。そもそも領主代行ですら大変なのに王になんてなりたくないわ。あなただって前にそう言っていたじゃない」


 昨年の冬、冷たい部屋の中で互いの温もりをたしかめながら口にした言葉が思い起こされる。


「まさに。ならば、今はちょっとした遠出だと思って我慢しましょう」


「遠出ねぇ……。響きだけはロマンチックだけれど、聞こえてくるのが早晩鳥のさえずりではなく兵の蛮声になるのがわかっているのだから気分も上がらないわよ」


 流血という名の装置の稼働を目前にしながら、ふたりの会話に緊張感は存在しない。


 他の貴族が同じ立場にあれば絶望的な状況に震えるか逃げ出すかしたくなったであろうが、アリシアたちにそのような感情は生まれなかった。


 慢心からではない。勝つために血の滲むような訓練を潜り抜けてきたのだ。いつまでも旧弊にしがみついている者たちに負ける道理がなかった。


「戦いが終わったらすこしはゆっくりさせてもらいましょう」


「そう信じたいものね。……でもアベル。それは“フラグ”というものではなくて?」


 ふたたび吐き出されたアリシアの溜め息は、彼女の意識の代わりに澄み渡る秋空へと吸い込まれていくのだった。




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