第92話 顔のない“敵”
リチャードの放った言葉にアリシアは小さく息を呑む。
他の海兵隊メンバーも同じなのか通信回線越しに沈黙が流れた。
「はぁ~、アリシア様みたいに聡明な方がたくさんいればこの国ももっと楽しくなりそうなのに。でも、公爵家のご令嬢が自ら戦いに出られるなんて危険な真似をされてはいけないと思いますー」
よもや監視者たちによって自身の内部にまで言及されていると知らないレティシアは、まるでアリシアが数年来の気が合う人間であり、それを心から思いやっているような言葉を並べていく。
いったいどういう思考回路が搭載されていれば、このように人の心の中へズケズケと踏み入る言葉が口から出てくるのか。
アリシアにはそれが不思議でならなかった。
しかし、よくよく考えてみれば、これこそが彼女の“魔法”なのかもしれない。
学園に通う貴族子弟は、平民などから見ればさぞや社会的に恵まれた立場として映ることだろうが、純然たる階級社会の歯車であることを求められるがゆえに心中には抑圧され鬱屈した感情を抱えているケースが多い。
もしそれを巧みな、それでいて媚びを売るようなやり方でなく自然に解きほぐし入り込むことができたとしたら?
今まで考えもしなかった可能性が突如としてアリシアの脳裏に浮かんできた。
「レティシア様、あのように喧伝されてはおりますが、実際のところは巻き込まれたようなもので戦功にしたってたまたまの結果です」
思考の海に沈みかけていたアリシアの代わりにそっとアベルが横合いから口を挟む。
久しぶりに
ただ、その後やる気満々で迎撃戦に参加しているため、それをこの場で口にするのはさすがに憚られた。
「やっぱりそうなんですね! はぁ……、もっと世界が平和になればいいのに……。みんな野蛮人じゃないんだから、ちゃんと話し合って解決しないと。王都でも政治の煽りを受けて市民は困窮しているし――――」
何も知らない人間が見ればさぞや可愛らしく映るであろう笑みを浮かべてレティシアは語り続ける。
『なんとも聞こえの良い言葉を並べるものだな。ストレートな物言いに慣れていない貴族のおぼっちゃんたちにはさぞや強い“毒”となったことだろう』
常に冷静さを見せる彼にしては珍しく不快そうに小さく鼻を鳴らすリチャード。
『毒ですか?』
エイドリアンが問いかける。
『考えてもみろ。国の中枢に関わりのある上級貴族の子弟ばかりが、たったひとりの少女によって次々と篭絡されたばかりか、次期国王候補まであの体たらく。ちょっとばかり
事の発端となった婚約破棄時にも、クラウスとアベルの間でそれについてはちょっとした議論がなされたことがある。
しかし、当時は状況を悪化させないことを優先したこと、またアベルひとりしかいなかったこともあり、すぐに日々の中に埋もれてしまっていた。
『少将、地球の常識では考えにくいことですが、この世界には――――』
『関係ない。もしそれがこの世界の特有の
通常であればレジーナのように「魔法だから仕方がない」と片付けてしまいそうなものだが、この世界で過ごした時間が長くないのもあってかリチャードは一切惑わされない。
相手がどれほど常識外れな手段を用いていようが、評価すべきはただひとつ。もたらされた結果のみだ。
『最大の問題はそこじゃない。すくなくとも一連の行動がなにかしらの意志の下になされていることであり、真に評価すべきはその手腕だ。違うか?』
リチャードは断言した上で問い返した。
第3海兵師団の師団長にまで上り詰めたほどの男から鋭い指摘を受け、海兵隊員たちの間にほのかな緊張が宿る。
『……失礼いたしました。どうやらこの世界に毒されかけていたようです』
自身の浅慮な発言を恥じるようにレジーナは声のトーンを落とす。
『そう恐縮するな、グラスムーン中尉。今までの常識を一度捨て、再構築しなければならないのだから無理もない。もっとも、そうなるからこそ私のような老兵の出番もあるわけだが。――――ジョンソン少尉』
『はい、少将。これまでに知る得た限りの情報を分析しました結果、ザミエル男爵令嬢の行動は男女の恋愛あるいは性的関係を利用したスパイ活動――――“HUMINT”の一種である可能性が高いものと推測されます』
リチャードに名を呼ばれ、次いで回線に入ってきたのはクリフォードだった。
彼の語る“
“HUMINT”には合法活動や捕虜への尋問等も含まれており、一般的に諜報と聞けばイメージするスパイ活動だけを指すものではない。
より細かく分類すると、外交官や駐在武官による活動を
そして今回、クリフォードが可能性を指摘しているのは
『ザミエル男爵令嬢の行動は、この世界の貴族にありがちな、降ってきた地位によって増長・慢心したものと考えるのはいささか早計かもしれません』
クリフォードはさらに推論を並べていく。
もちろん、この間あれこれとしゃべり続けているレティシアは誰からも完全に無視されていた。
『現状の調査が不十分のため結論を出すには至りませんが、彼女の行動には疑問点が多いと言わざるを得ません。次期国王候補の婚約者がほぼ内定しているところまではほぼ完ぺきだったにもかかわらず、無意味に思える貧民への炊き出しといった国庫からの支出などがあり国力を不安定にさせております』
『単なる権力への欲求ならばシュトックハウゼン侯爵のように私腹を肥やす方向にいくな。かといって単なる純粋培養のお花畑ということもあるまい』
『ええ。男爵家とはいえ、長らく行方知れずとなっていた庶子上がりがすんなりと学園に入れた時点で疑念を抱くには十分な要素です。何らかの意思が介在していると思われます。この条件を満たせるのは――――』
『他国の諜報員……?』
導き出された過程にアベルたちは愕然とする。
なぜ今までその可能性を見落としていたのかと。
「そういえば、模擬戦をやられるんですってね。騎士の方々はなんだか不満に思っていたみたいだからウィリアム様に言ってみたんですよ。そんなに納得いかないと思われるなら、なにか競い合うもので結論を出せばいいって」
なんの悪びれもなくレティシアは自分のやったことを口にする。
『ちっ、まともに騎士団へ属した経歴があるわけでもない第二王子があのような発言をするのはおかしいと思っていたが、やはりこの娘の入れ知恵か。敵ながら見事な謀略だ』
不快そうにではあるが、それでいて感心したように唸るリチャード。
『これも謀略だっていうんですか?』
『そうだ。地球で行われる軍隊の演習などとはまるで意味合いが違う。プライドが服と鎧を着て歩いているような連中が国家権力と暴力装置を独占している世界だぞ? 模擬戦なんてした日にはどっちが勝っても間違いなく禍根を残す。これは公爵家と王都の間に溝を作るのが狙いだな』
そんなことをしていったい何の得があるのか。
しかし、それも糸を引いているのがこの国の人間でなければすべて説明がつく。
『アベル、いずれにせよこの場は無難にやり過ごせ。長々語ったがすべては憶測でしかない。全容が明らかになっていない以上、すくなくとも我々の関与が疑われるような行動は避けておくべきだ』
国を傾けられるところまで来ているにもかかわらず、リチャードはここでレティシアを始末するべきではないと言った。
クリフォードが指摘したようにレティシアが他国のスパイである可能性は高い。
しかし、その可能性を受け入れていながらリチャードは確信が持てないでいた。
考えれば考えるほどどこかちぐはぐな印象を受けるのだ。
一方、上官からの指示を受けたアベルは逡巡する。
その気になれば一呼吸の間にレティシアの喉を潰し、そのままテラスから落下させ事故死にすることも不可能ではない。古来よりスパイの末路は不審死と相場が決まっており、先ほどからアベルは密かに臨戦態勢に入っていた。
だが、リチャードはそれを制止した。
彼が無意味な行動を嫌うと知っているアベルは内心の迷いを振り切り奇襲を断念。通信機のマイク部分を指でそっと叩いて了解の合図を出し身体の力を抜く。
『なに、そう不満に思うな。じきに飽きていなくなる』
「――—―と思うんですよねぇ。……あ! そろそろ戻らないとウィリアム様が心配なさるかも! それではここで失礼しますね!」
ふとレティシアが思い出したように叫び、慌てたように一礼して、そそくさと広間へと戻っていく。
『Holy Shit…… あのクソビッチ、本当にいなくなりやがった……』
リチャードが予想した通りの結果となり、エイドリアンが驚きの言葉を漏らす。
絶妙に神経を逆撫でするような発言を繰り返していたレティシアも、一向に望む反応を示さないアリシアたちに興味を失ったのかもしれない。
「……どうやら、領地のあれこれ以外にも“対策”が必要みたいね」
ふたりだけになったのを確認して、長い溜息がアリシアの口から漏れる。
恐れとかそういった感情ではないにもかかわらず、妙な疲労感を覚えていた。
貴族同士の腹の探り合いとはまったく異なるものだ。あるいは、これが情報戦というものだろうか。
「ええ。他国の手が伸びているにしても、あるいはそうでないとしても、彼女の存在は王国にとって潜在的な脅威であることに変わりはありません。私情を抜きにしても、どこかで我々とぶつかるでしょうね」
同意を示すアベルが主人を窺うように視線を向けてくる。
しかし、アリシアの表情に不安や迷いの類は存在していなかった。
「もしも立ち塞がるっていうなら――――その時は容赦なんてしないわ。叩き潰してあげるだけよ。……それはそうとして、アベル」
それまでの険しい顔から力が抜け、にわかにアベルを上目遣いに見上げるアリシア。
「なんでしょうか、アリシア様」
「中じゃお邪魔虫ばかりだから……。ううん、せっかくの舞踏会だし、ここで一曲、わたしと踊ってくださらない?」
アリシアの肌が、わずかながらに赤くなっているのはアルコールのせいだけではないだろう。
たしかに、月明りがほのかに差し込むいい夜だった。中から聞こえるオーケストラの音楽も、ここにいたって十分に聞こえてくる。
舞台こそ狭いが、照明も音響もすべてが揃っていた。
「ええ、喜んで」
恭しくも流れるような所作で、笑みを浮かべたアベルは差し出されたアリシアの繊手を握った。
『
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