第91話 無垢なる悪意


 この国では珍しい艶やかなストレートの黒髪を伸ばした少女――――レティシアがゆっくりと進み出てくる。彼女はひとりだった。

 今となってはレティシアの婚約者になることがほぼ確定事項となった第二王子たるウィリアムの姿は見えない。

 素養はさておき、彼の立場としては好き勝手歩き回れるものではないのだろう。


 レティシアが身に纏う薄桃色のドレスは、鮮やかな花が咲き乱れるがごとく各所に小さな花の意匠があしわれており、彼女の持つ柔らかな雰囲気と可憐さを上手く引き立てている。

 パニエで広がるスカート部には、控えめではあるが切り込みが入れられており、下からは除く白のレースが覗いていた。あるじが歩く度にわずかな仕掛けが見えるようになっていたのは仕立てた職人の技であろう。

 間違いなく最高級の品であり、同時にが着て夜会へ出るにはなかなか勇気のいるものだった。


「あれ、アリシア様にアベル様? お久しぶりです~。こんなところでなにをなさっているのですか?」


 開口一番のふんわりとした口調。


「あら、レティシア様。夜会の空気に疲れたので、ちょっと夜風に当たっていただけですわ」


 ――—―いやいや、普通は気まずくて会話をしようだなんて思わないものじゃないの?


 淀みなく発せられた言葉に反して、アリシアは内心で戸惑いを覚えていた。


 レティシアの行動が常識外れなこともある。

 貴族社会では爵位の低い者から目上の者に話しかけることはれっきとしたマナー違反であり、普通は上位の者から声をかけるのが慣例だ。


 平民――—―庶子上がりの少女にそういった機微の聡さを期待するのは間違いかもしれないが、貴族社会のルールを抜きにしても過去の経緯からトラブルにつながりかねないとして早々にこの場から離れようとするものだろう。

 次期国王の王妃最有力候補であるため誰も表立っては口にしないものの、横恋慕で婚約者を奪い取った常識外れの存在に好意的な目が向けられるはずもない。


 もちろん、アリシアもアベルもこの期に及んで短慮に走るような真似など考えてはいなかった。

 だが、もしもこれが他の貴族であれば婚約者を略奪してくれた報復くらいは考えても不思議ではない。

 いや、この世界の常識からすればそう考えるのが普通だ。


 しかし、レティシアにこの場から離れようとする気配はなかった。


「そういえばアリシア様、広間でお見かけした時からずっと思っていましたけど、すごくお綺麗なドレスを着られてますよね~」


 相手の真意がわからないでいるアリシアに向けて、レティシアはこの世に自分へ向けられる害意など存在しないとでも思っているのか、実に馴れ馴れしく語りかけてくる。

 夏の日に衆目の集まる場で断罪した記憶などもはや存在していないようであった。


「あぁ、このドレスは……」


 従来、王国をはじめとした主要国の社交界ではパニエを使ってふわりとスカートの形が出るタイプが主流だった。


 しかし、レティシアが指摘する通り、今回アリシアはこの世界で着られているドレスではなく地球のパーティードレス――――言うなれば身体の線が浮き上がるものをその身に纏っている。

 鮮やかに染め上げられた光沢を放つスカーレットのドレスは、これまで見られなかった細身なデザインに仕上げられており、海兵隊の訓練により鍛え上げられた肉体のラインを、品を損なわないように披露する見事な出来栄えとなっていた。


 本人の努力もあって、アリシアのドレス姿は世辞を抜きにしても並ぶ者がいないほどに美しいと言える。

 先ほど遠巻きにしていた貴族子弟の面々が声をかけられなかった理由も戦功だけではなかったのだ。


「そんなデザインのもの初めて見ました。どこでお買い求めになられたのです? わたしも欲しいなぁ~」


 さすがのアベルもこの振る舞いは予想していなかったのか信じられないものを見るような目となっている。

 貴族として見ても、海兵隊員として見てもこの少女はあまりに異質だった。


「これは領地で試作品として作ってもらった特別なものなので、注文を受けているものではないのですよ」


 いちいち礼儀がどうと指摘するまでもないだろう。

 おそらく彼女特有の思考回路に邪魔されて無駄になるだろうし、なにより変な噂を流されてもたまらない。


「え~、どこの仕立て屋が考案されたかも教えてくれないんですかぁ?」


「ごめんなさい、まだその時期ではないの。わかっていただけるかしら」


 やんわりと問いかけを断るアリシア。

 この姿を他の貴族子弟が見ればなんと優しい振舞いかと感動するか、あるいは少し甘すぎるのではないかと眉を顰めたことだろう。


 ドレスの話に戻るが、より厳密に説明をするとすれば、アリシアのドレスは「夜会があるかもしれないから勝負服を作りましょう。年頃の女の子なんだからおしゃれしなきゃ!」とレジーナとキャリーが悪ノリ気味にデザインして公爵家専属の仕立て屋に依頼したものだ。

 当然ながら市販などされているものではないし、実際に製作した職人にしても今のところ公爵家の許可なく売ることはできない。

 絹にしてもアンゴールの更に向こうにある西方諸国家から入手したもので、その技術は完全に秘匿されていた。


 もっとも、アベルたちには地球の知識があるのでその正体が蚕――――蛾の幼虫が吐くものであると知っている。

 あとは自分たちで養蚕技術を確立すればいいだけだが、肝心の幼虫なり卵をどうやって入手するかに時間がかかっている状態だ。

 ちなみに、フラれても尚アリシアに強い興味を覚えているスベエルクはアンゴールのコネをフルに使ってでもどうにかする気満々のようである。


「むぅ~、仕方ないですね。でも、その時はかならず教えてくださいよ? 絶対買いますから! このドレスだって悪くはないんですけど、すっごく重いしパフスリーブなんかもっさりしててあんまり好きじゃないんですよねぇ」


 アリシアは返す言葉を失った。口調が砕けすぎているからではない。


 ザミエル男爵令嬢がボロクソに貶しているドレスだが、この国でも超一級の職人が手に入る中で最高級の生地を使って作り上げたものだ。

 あまり考えたくないことだが、もしそれが国費から出ているとすれば国民から集めた税で作ったものにケチをつけているに等しい。


 それがアリシアには信じられなかった。


「ウィリアム様が似合うってしきりに褒めてくれるからこうして着てはいますけど、アリシア様のキレイなドレスを見ちゃったらそれもねぇ……」


『ねぇ、少佐。このクソビッチ撃っちゃいます? むしろ撃っちゃいましょう?』


 声こそ軽快だが、明らかに怒りを覚えているであろうエイドリアンの声がインカムから伝わってくる。

 式典だけで夜会には参加しなかったものの、情報収集および不測の事態に対応できるよう狙撃手スナイパーとしての任務に就いていたのだ。

 今この時も、どこからかM40A6スナイパーライフルを構えてレティシアの頭部にでも照準を合わせているに違いない。


 これでアベルかアリシアがひとこと「撃て」と言えば、彼らの目の前で可憐な男爵令嬢の頭部は瞬時に7.62×51mm NATO弾により血霧と化すであろう。


『今は少佐が答えられないだろうから代わりに言うけどダメよ、エイドリアン。こんなところで暗殺したら大問題になるじゃない。やるなら路地裏とかそっちでやらないと』


 あー、相当怒ってるわね。どうあっても始末する方向で考えだすとか……。


 海兵隊員マリンコたちのキレっぷりにアリシアは内心で乾いた笑いを漏らすしかないが、自らが当事者でなければそう言いたくなるのも理解できる。


 回線に割り込んできたレジーナが同じく湧き上がる怒りを堪えてたしなめるものの、発言したエイドリアンとて海兵隊員士官でありバカではない。


 そう、皆わかった上で敢えて口にしているのだ。

 会話を耳にしている人間すべてが感じているであろう謎の違和感を共有するためだ。


『そこまでだ。わかってるだろうが絶対に撃つなよ、スミス中尉。それと各員気をつけろ。この娘、


 そこで通信にリチャードが参加してきた。

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