第90話 ワルツは上手く踊れない
この国に幾ばくかの熱狂をもたらした儀式の時間が過ぎ去り、夜を迎えた王城は昼間とはまた別の顔を覗かせる。
中心では貴族の子弟をはじめとしたグループが奏でられる音楽に合わせて踊っており、年配の者たちはそれらを遠巻きに眺めるか歓談に勤しんでいる。
テーブルに並べられた数々の料理や酒は
この宴とて昼間に行われた戦勝祝典の延長線上にあるものだ。
しかし、それがアルスメラルダ公爵家ではなく王家の主催となっているのは、これがどこまでも政治の範囲でしかないことを雄弁に物語っていた。
タイミング的には戦功を独占しているに等しい公爵家が主催となるべきなのだが、そうならなかったのは必ずしも道理が通るわけではなく、すこしでも目立つだけで要らぬ波風を巻き起こすからだった。
王国の勝利を祝うと題しながらも、貴族たちはひとつになることもできず、派閥争いや腹の探り合いから逃れられずにいる。
「なんとも退屈なものよねぇ……」
余計なこと――――思ったままを言葉にしたせいか、次いで欠伸がアリシアの口から漏れ出そうになる。
――――おっといけない。
生理反応に気付いたアリシアは咄嗟に扇子を掲げて口元を隠し、そこから上の表情筋が動かないよう堪えた。
さすがに貴族として、また海兵隊員の
また、海兵隊は不敵にして無敵だが、ならずものではない。好き勝手な振る舞いなど許されはしないのだ。
所在なく視線を向ける先では、集まった貴族たちがさも楽しそうな
心から宴を楽しんでいる人間はそう多くはなさそうだ。誰も彼もが心に仮面をつけて本心を隠しているのがわかった。
だが、それも貴族として生まれたからには仕方のないことだろうし、かくいうアリシアもその中のひとりと言えた。
本当にワルツを踊りたい相手は今自分の隣にはいないし、もし仮にいたとしてもそのように振る舞うわけにはいかなかった。体面――—―むしろ政治的な立ち位置がある。
「はぁ……。適当なところで帰っちゃダメかしら……?」
口を衝いた言葉は扇子に受け止められ消えていくかに思われた。
『――――ダメよ、アリシア。バカな男どもはおととい来やがれでいいけれど、ちゃんと今のパワーバランスを見極めておくのも大事な役目なのよ?』
髪の毛で隠されたインカムからレジーナの声が発せられた。
昼間の式典に参加していない彼女は今回屋敷から他のメンバーと共にバックアップ役を務めている。
「わかってる。でもさっきから立っているだけでいいかげん疲れちゃうわ」
話し相手の登場にアリシアはどこか甘えるような声を出す。
正直なところ、アリシアとしては宴に参加している意味はないように思えた。
戦功報告についてはとっくに終わっているし、そのまま夜会に出ろと言われるのもごく自然な流れではあるが、だからといって特に何が起きるわけでもないのだ。
ぽつりぽつりとくるしょうもない誘いを丁重にお断りしたことも多分に影響してはいるだろうが、手持ち無沙汰にしているアリシアへ声をかけてくる貴族も今となっては見受けられない。
『仕方ないわね……。屋敷に戻ってきたらアロママッサージしてあげるからもうちょっと頑張ってちょうだい』
まるで妹の面倒をみる姉のようだ。
おたがいにひとりっ子であるアリシアとレジーナの相性は存外良く、こうして他愛もない話ができる仲にまで発展していた。
「やった! あれすっごく気持ちいいのよね~。これならもうすこし我慢できそうだわ」
ぶら下げられたニンジンでなんとかやる気を繋ぎ留めるアリシア。
だが、彼女はひとつだけ大きな勘違いをしていた。
周囲の貴族たちとて、なにもアリシアの存在を忌避あるいは無視しているのではない。
むしろ今最も注目を浴びていると言っても過言ではない存在に気安く声をかけていいものかどうかを躊躇っていたのだ。
普通であれば婚約破棄された公爵令嬢など瑕疵物件扱いされるのが当たり前だが、アリシアの場合はそんな次元に留まっていられない戦果を今回挙げてしまっている。
何世代か上――――それこそクラウスやオーフェリアのような年代であればまだしも、アリシアと同年代の貴族で彼女のように多大なる武勲を挙げた者はこの場に存在しない。
盗賊を討伐した程度であれば、多少は褒められてもここまでの騒ぎにはならなかったであろう。
しかし、アリシアが下した相手は
それをわずかな戦力だけで返り討ちにしてのけた戦功は、ひと言でいえばやりすぎだった。
「おい、お前声かけて来いよ。公爵家に接近するチャンスだぞ?」
「バカを言うな。西方の蛮族を倒した女だぞ? 機嫌を損ねたら」
「あんな可愛い顔してメスゴリラってことか……?」
誰しもがなんとかしてお近づきになりたいものの、どの程度の付き合いに至れるかが問題となる。
万が一上手くいって嫁入りさせることができたとして、その後がどうなるかわかったものではない。
もし何か不備でもあれば、容赦なく喉笛を掻っ切るくらいやりかねないのではないか。いささか大袈裟だが悪名高いアンゴールを倒した存在ともなればそういう目で見られるのは避けようがなかった。
『いいじゃないの。最初ボンクラだけ済んだんだから』
まさか自分の顔を知らない人間が呑気に声をかけてくるとはアリシアも思ってはいなかった。
いや、逆に言えばだからこそなのだろうが、その場で海兵隊式の応対をしなかった自分を褒めてやりたくなる。
そういえば、少し会話を続けていたら顔色を真っ青になして広間を出ていき、そのまま帰ってこないがどうしたのだろうか?
「レジーナも美人なんだし、ドレスを着てここに立ってみればわかるわよ」
『ふふ、遠慮しておくわ。わたしはただの平民ですもの』
「はぁ……。ひどい先輩もあったものだわ。とはいえ、あれはあれで迷惑だったけど、なかったら張り合いがないから不思議よね……」
トラブルを欲しているわけではないが、何もないのはつまらない。
湧き上がった感情を飲み込むように右手に持ったグラスを大きく呷る。
これがまたいけなかった。
貴族の中でも軍に携わるような豪胆な人種――――端的に言えば“酒飲み”が好むであろうショートグラスを持っているギャップも、彼女の存在を余計にとっつきにくくしていた。
もちろん、そんな事実を王国軍に在籍経験がないアリシアは知るはずもない。
「帰ってみんなと飲み直したいわ」
そして、海兵隊には酒飲みが多い。
というよりも、現在この世界に転生・もしくは召喚されたアベルを筆頭とした海兵隊メンバーがよく飲むというだけなのだが、いずれにせよ彼らの影響を多分に受けアリシアも酒を嗜むようになっていた。
この国では15歳から成人扱いなので飲酒は全く問題ない。
そんな中、ふとアリシアは会場の隅を歩くアベルの姿に気付く。
まぁ、どうせ話しかけてくる殿方もいないことだし……。
ショートグラスに残った酒をひと息で飲み干し、アリシアは動き出す。
そして、今の見事な飲みっぷりは周囲の貴族たち――――特にこの機会に公爵家に近づこうと考えていた男たちをより一層ドン引きさせているのだが、そんな連中などどうでもいいと思っているアリシアはやはり気づかないままだった。
テラスに出ると夜風が肌を撫で、アルコールの火照りを冷ましていく。
「こんなところにいたの、アベル」
「アリシア様」
声をかけるとアベルが振り向く。
まさかこの場にアリシアがいるとは思っていなかったようだ。
「宴の方はよろしいのですか?」
「レジーナとの通信、聞いていたでしょ? もうたくさんだわ」
「ふふ、そうでしょうね」
肩を竦めて答えたアリシアの言葉にアベルは苦笑を浮かべる。
主人の性格からしてこのように退屈な宴には向いていない。
もっとも、そう感じるように人格矯正をしてしまった身からすると複雑な思いがなくもなかったが。
「でも、アベルはどうしてここに?」
「ちょっと野暮用と申しますか。出来ればアリシア様には関わらせたくなかったのですが……」
問いかけを受けたアベルは彼らしくない迂遠な回答をした。
「……どういうこと?」
「いえ、変な意味ではありません。ただ、ここらでちょっと“黒幕”に軽く挨拶でもしておこうかと思いまして」
そう言い終えたところで室内に繋がる扉が開く。
現れたのは豪奢なドレスに身を包んだ少女――――レティシア・ローザ・ザミエル男爵令嬢だった。
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