第80話 足りぬ足りぬは


 それからしばらく、アリシアは休む間がなかった。


 あれこれ始めるための下準備として内政に勤しむ毎日が続く。

 正式に領主代行となったわけではないのだが、内示を受けている関係もあってそのあたりは柔軟に動いていくしかない。


 アリシアが日々駆け回る姿を見た使用人などは「本格的に動くのは領主代行となってからでもいいのでは?」と心配に思ったりするのだが、それは事情を知らない人間の感想に過ぎず、実際のところ当人にそんな暇は存在しなかった。


 さらに言えば、この時点でアリシアは確信していた。

 かなりの可能性で、王国はこれから分裂に向かっていくと。

 それこそ、第二王子ウィリアムが王太子にでもなろうものならそれは決定的となろう。


 いつかは乱れる国のために今からどれだけの備えができるか。

 それこそが領主代行となるアリシアの務めともいえた。


 “最悪の事態”すら考えておかねばならない。


「出世がかかっているからか、ずいぶん熱心なことね」


 吐き出されたのは小さな溜め息。


 自分の部屋でアリシアは届けられたばかりの手紙に目を通していた。

 冒険者ギルド クリンゲル支部長であるノーマン・ダウリングからのものだ。


 件の“冒険者を募って私兵集団を創設する話”も水面下では進んでいるらしく、時候の挨拶とともに候補者リストも早々にアリシアの手元へと送られてきた。

 おそらく、ひと月もすればこちらの準備はほぼ整うだろう。


 その頃には、アリシアも名実ともに領主代行となるため、かえって動きやすくなるというものだ。


 尚、彼らに調練を施すのは公爵領軍を退役した士官――――中でも年金の多い騎士爵になれなかった人間となり、その手配もクラウスとオーフェリアを通して進んでいる。

 彼らとしても長年の奉公には報いたい気持ちはあるらしく、いかに一代限りのものとはいえ爵位を得られなかった領軍退役者のことは気にかかっていた。

 しかし、爵位となればさすがに王都の意向は無視できず、領地を与えない騎士爵であっても味方を増やすための乱用と思われれば痛くない腹を探られかねない。


 そういった意味では、アリシアの提案は渡りに船といえた。


「問題は初期投資かぁ。でも、あんまり楽をしてしまうと、後で面倒なことになるものね」


 現状、私兵集団を作るにおいて課題となりそうな箇所は、宿舎とかそういったものだった。


 それらについては、あまりに早く完成してしまっては悪い意味で目立ってしまう。

 内部の設備はこの世界の物では不十分と判断されれば海兵隊支援機能を使うにしても、せめて建物くらいはちゃんとこの世界のものを使って新たな雇用を生み出さねば意味がないのだ。

 そして、そういった場所ハコモノに支配階級が率先して金を流しこんでいかなくては領内にも金銭は回っていかない。


「でも、やっぱり訓練の人手が足りないなぁ~」


 内部に溜め込んだアリシアの感情が限界を迎えた。

 座ったまま両手を掲げながら締まらない声を出してしまうほどだった。


 その昔、彼女に教育を施したメイド長が見たらさぞや嘆き悲しむことだろう。


「アリシア様、お気持ちはわかりますが……」


 見るに見かねたラウラがやや遠慮がちに声をかけてくる。


「ああ、ごめんねラウラ。見苦しい所を晒してしまって」


「いえ、お悩みになられていることはよくわかっておりますので」


 なにかあれば力になるとラウラは“彼女の全力で”主張していた。


 ――――うーん、ラウラが全力なのはわかっているけれど、もうすこしそれを表情に出してくれればかわいいのになぁ……。


 アリシアはすこしだけ幼馴染の少女に対して残念に思うが、今は脇道に逸れると口には出さずに終える。


「そうなのよ……。かき集めた候補者を訓練しようにも割ける人員の数がギリギリだわ」


 そう、アリシアの悩みは他にもあった。

 肝心の調練にあたる海兵隊メンバーが十分とはいいにくい状況なのだ。


「新しく3名の方々が“着任”されましたが……」


「それでも、なのよ。せめて、もう2人……ううん、欲を言うなら3人は欲しかったわ。おかげで、しばらくアベルを手放さなければいけないのだもの」


 アリシアは嘆息する。


 いくら兵力の整備が必要だとしても、最初から無理な人数を集めるわけにはいかない。


 そのため、海兵隊メンバーの助言を受けて、現時点では王国編制単位である1兵団を1個中隊――――30名を1個小隊として、総勢90名で編制しようとしている。

 隊を回していくには当然ながら支援要員も必要になるため、実質的には支援小隊を入れて100名ほどになるだろう。


 彼らの雇い主はアリシアになるが、彼女には領主代行の仕事も多くあり、最初に顔を出してから先は現場に任せる予定だ。

 調練は中隊長としてアベルを、またその補佐にエイドリアンとレジーナ、各小隊には退役士官を2名ずつ付けるつもりでいる。

 また、支援役として、体調管理や食事などについてはキャロラインが彼女の仕事のついでとして行ってくれるらしい。

 

 そして、残るリチャードとクリフォードだが、彼らは領主代行となるアリシアの補佐官として活動する。

 この頃、めっきり執事化してしまったリチャードがさらなるスキルを求めて補佐を行い、クリフォードは集まってくる情報の整理などにあたる。


 こうなってしまうと、調練の責任者は少佐という階級もあってアベルしか適任がいない。

 先任メンバーとしてこの世界のことをある程度理解しているレジーナとエイドリアンが動けないのもまた痛手だ。


 もっとも、アリシアにとって悪いことばかりではなかった。


 彼女の従者として長く務めてきたアベルも、彼なりに複雑な感情を抱いているらしく、人員の配置が決まった時にはすこしだけ寂しそうな表情を浮かべていた。

 そんな想い人の姿を目撃したアリシアは、わずかな寂しさと同時に嬉しさを覚えることとなった。


「しばらくは会える頻度も減るけれど、あまり悪い感情だけじゃないわね」


 ラウラの淹れてくれた紅茶に手を伸ばす。


 適度な距離がおたがいの想いを上手く回してくれるのだろう。

 直感的にではあるがアリシアはそのように理解していた。


 あれも足りないこれも足りないとつい思いがちだが、そこで工夫をしていくのが領主代行であり女のしての腕の見せどころなのかもしれない。


「アリシア様、本当に変わられましたね」


「そうかしら?」


 ラウラの言葉を受けて、アリシアははじめて客観的に自分自身について考えてみた。


 ともすれば、ある種の余裕ともいえるのだろうか。

 焦りだとか空虚さとは無縁の不思議な感覚が、いつしかアリシアの中に生まれていた。

 あの男爵令嬢ファッキンビッチが、元婚約者ウィリアムに粉をかけているのを見かけただけで胸中に激しい憎悪の炎が湧き上がっていた頃が嘘のように思える。


「ええ、前よりもずっと満ち足りているように見えます」


「そう……。だとしたら、アベ――――海兵隊マリーンのおかげね」


 思わず素の感情をさらけ出してしまいそうになるのを懸命に堪えて、アリシアは何気ない表情を作ろうとする。

 長い付き合いのラウラにはお見通しかもしれないが、それでもアリシアには公爵令嬢としての面子というものがあった。


 逆に休みの日なんかにはふたりで出かけられたらそれはそれで……。


 とはいえ、脳内の思考だけは勝手に進んでいく。暴走特急でないのがせめてもの救いだろう。


 そんなことを考えながら無意識のうちに表情をにやつかせていると、来客の先触れがあった。



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