第68話 狼たちの答え


 巨狼からの圧力のこめられた視線を受けたクラウスに、動揺する様子は微塵も見受けられなかった。


 にわかに重圧を増す空気の中、“ファーン”から押し寄せる威圧を受けながら、公爵家を統べる男の表情にはいささかの変化も起きてはいない。


「……ええ、“ファーン”のおっしゃる通り、


 事もなげに続けたクラウスの言葉に、はっきりと息を呑むスベエルクとアンゴール護衛兵たち。

 空気を一瞬で悪化させた異民族の男は、それを取り繕おうとする様子さえも見せず、あまつさえ下手をすれば挑発とすら受け取られかねない言葉を口にしたのだ。


 クラウスたちを睥睨へいげいする“ファーン”からの圧力がさらに増し、幾人かは息苦しささえ感じ始めていた。


 場の空気に飲まれまいと、アリシアは腰を下ろしたまま表情を動かさないよう懸命に堪えている。

 だが、その背中はすでに膨大な汗が衣服を湿らせはじめていた。


「ですが、これらは勝者の驕りではなく、我らの友好の印に――――」


 小さく手を掲げてクラウスが合図。

 直立不動の姿勢を取っていたエイドリアンとレジーナが、贈答品にかけられていた布をそっと取り去る。


「かつて敵対したとはいえ、互いの間に交わすべき礼儀というものは存在しましょう?」


 最後まで一切乱れることのないクラウスの言葉は、場の空気へと染み入るように消えていく。


「……なるほど。貴公は斯様にもワシを楽しませおる。くくく、愉快よの」


 低い声で“ファーン”は喉を鳴らしながら笑いはじめる。

 しかし、発せられる声は先ほどまでの肉食獣を思わせるそれではなかった。


「ワシとしたことが一本取られたな。どうにも底意地の悪い見方しかできておらなんだ。“戦った相手に対し敬意のひとつも持てぬのであれば、そも戦いなどするべきではない”……ということか、アルスメラルダ公爵?」


 なにかを理解したように“ファーン”は表情を崩す。


 今度こそ、放たれていた圧力は消えてなくなった。

 それまで、わずかながら漂っていた鋭い気配すら今はもう存在していない。


「……そのようなことは」


 控えめに謙遜を口にするクラウス。

 表情は崩さぬまま、この時彼は内心で別の意味での驚愕を覚えていた。


 “ファーン”の口から出た言葉が、娘アリシアが冬の戦いの際にスベエルクを相手に語った内容とほぼ同じであったからだ。


 クラウスの驚愕には気付かぬまま、“ファーン”は布が取り去られ姿を露わにした贈答品へと目を送りながら豊かな顎鬚あごひげをそっと撫でつける。


「ふむ、鉄か……。なるほど、それを筆頭に用意された品の数々を見るに、殿は我らが欲するものをよくご存知のようだ」


 “ファーン”は、ここではじめてクラウスの名を口にしながら唇を歪めて笑う。

 そこに含まれているのは喜びの感情だけではなかった。


 そう、「鉄などがお前たちの弱点とこちらは気付いているぞ」とクラウスが言外に含めていることを理解しての反応なのだ。


 互いに相手への礼節こそ欠くことはないものの、侮ったり、あるいは恐れたりする素振りは微塵も見せない。

 あくまでもそれぞれの守るべき立場からの発言と態度であった。


「喜ばぬ物を贈る愚は犯しませぬ」


「そこは心配しておらなんだよ。貴公は、我らにとって鉄がどれほど貴重かよく理解しているようだ」


 “ファーン”の笑みがさらに深まっていく。


 遊牧生活を送る部族が大半となるアンゴールでは、いかに定住の地“武成ブセイ”を擁するといえども大規模な製鉄を行うことはできない。


 もちろん、アルスメラルダ公爵領であっても、産業革命以前――――工業化という概念すら生まれていないこの世界では大規模な製鉄など不可能だ。


 そう、


 アベルも当初はそこまでやっていいものかと悩んでいたが、新たにこの世界へやって来た地球人――――エイドリアンとレジーナのふたりとも協議した結果、「この世界で生き残るために必要なものは遠慮なく使う」との決断を下していた。


 そして、そこで決まったもののひとつがアルスメラルダ公爵領の“工業化”だった。


 もちろん、これはクラウスの裁可も事前に得ている。

 むしろ、この身代交換という名の交渉事に際して、彼らが重んずる武の象徴――――武器の材料となる鉄を見せつけるために許可したようなものだ。


「スベエルク」


「はっ」


「貴様はこの数か月、定住の者の国――――ヴィクラントを見てどのように感じた。忌憚なく申してみよ」


 突如としてスベエルクへと話を振った“ファーン”に対して、アリシアは内心で身構える。

 まさか身代を要求する前にこのような行動に出るとは思っていなかった。


 だが、今になってスベエルクを止めることはできない。

 その権利は自分にはなく、またクラウスにもオーフェリアにもそれを制止しようとする素振りがまるで見られなかったためだ。


「承知いたしました。私が見ることのできた部分はかなり限られておりますが――――まさしくと言えましょう」


 思わず腰を浮かしかけたところで、アリシアは周囲からの視線を感じて硬直。

 背後からのものはアベル、そして残りはエイドリアンとレジーナからのものであった。


 ――――なんて短慮に……。


 仲間チームメイトたちからの視線によって、十分な冷静さを取り戻したアリシアはそっと身体から力を抜く。

 その瞬間、一瞬だけ自分を向いていた“ファーン”の視線が外れていた。


「なるほど」


 “ファーン”が真っ先に会話を続ける姿勢を見せた。


 そして、その場にいた者たちもまた、何も起こらなかったことで草原の覇者と同じように今の一瞬をなかったものとして扱う。


 いや、ただひとり――――“ファーン”だけは楽しんでいるように見受けられた。


「この場で口にするにはなかなか勇気がいる言葉だ」


「……ですが、それは略奪を以って為すものではありません」


 スベエルクもまた自身の言葉を続けていく。

 あくまでも場の空気へと従おうするかのように。 


「なによりも彼らには誇りがある。私はアリシア嬢にそれを見せていただいた」


 言葉を受けたアリシアはその場で小さく俯く。


 異国の王子に褒められたからではない。

 そこまでの信頼を受けていたにもかかわらず、自分の短慮軽率によって招いた失態を恥じたためだ。


 そんなアリシアの様子に表情をわずかに和らげて、スベエルクはふたたび“ファーン”へと向き直る。


「なればこそ、私は彼らとの友誼を結ぶべきと考えます。私はそのためにこの地に残る所存です」


 クラウスとオーフェリアの視線がスベエルクを向いた。


「ふむ……。せっかく父が迎えに来たというのに、貴様は草原へ戻る気はないということか」


 “ファーン”の視線に鋭さが宿る。

 しかし、とうの昔に覚悟を決めているのかスベエルクは一切動じない。


「有り体に申し上げれば。しかし、情だけではありませぬ。こうして得られた機会を無駄にすべきではないと判断したゆえ」

 

「ふむ? 詳しく申してみよ」


「この地に残り、我々に足りないものを学ぶ。それは草原を駆けているだけではけして得られないものです」


 その役目は自分が引き受けるとスベエルクは“ファーン”を前に宣言していた。


「ほう。それは草原に生きる者としての矜持を捨てても必要なものか?」


「逆でありましょう」


 真意を問いただそうとする“ファーン”に対し、スベエルクは短い言葉を返す。


「ほう?」


 続きを促そうとする“ファーン”の瞳には、この時点で鋭さ以外のものが混じり始めていた。

 明らかな興味の光だ。


「草原に生き続けるために、我らはこれから先、より強くなることで新たな矜持を得らねばならないのです。そこを履き違える者が多いようであれば、今の時点ですでにアンゴールには未来などありますまい」


 ともすれば自らの民族すべてを侮辱したともとられかねない言葉だった。


 だが、スベエルクの表情は真剣そのもの。

 たとえここで“ファーン”の不興を買い、どのような目に遭うことになろうともけして覆さない。

 そんな意思がその場にいるすべての人間に感じ取ることができた。


 一方の“ファーン”は、ふたたび膝を大きく叩き――――そして、破顔した。


「はははははは! なんと面白い日であろうか! ほんのちょっと見ないうちに言うようになりおったな。これもそこな者たちの影響か!」


「おそらくは。得難い“友”であるかと」


「“友”、か。……今切った啖呵は褒めてやるが、貴様にはもうすこし別の修行が必要なようだな」


「はっ――――」


 小さく頭を下げるスベエルク。

 父は息子の内心に秘めたる感情をたしかに見透かしていた。


「わかった。武成ブセイの方はワシがなんとかしておこう。直轄軍から東方派遣使節にでも変えておけば問題もあるまい。商人として振る舞うがいい。そのための補佐もつけよう」


「ご配慮ありがたく」


「案ずるな。お前がもしも次期ファーン選定に名乗りを上げるつもりだとしても、しばらくはワシもくたばる気はない。安心してこの地で学べ」


 いま一度深く頭を下げるスベエルクに向け、“ファーン”は小さく鼻を鳴らしながら答える。


「さて、アルスメラルダ公爵。そして、ご夫人と娘御殿」


 “ファーン”が視線をクラウスたちに向ける。


「こやつはワシに似ず理屈っぽいところがあるが、それでもワシの宝である。我らの友好の証として、しばらく学ばせてやってはくれぬだろうか」


「は……はっ。よろしいのでしょうか?」


 突然の事態に、クラウスも表情を崩さないようにしているがやや困惑気味である。


 だが、その一方で、“ファーン”の口から直接的に「我らの友好」という言葉を引き出せたことの意義はきわめて大きかった。

 その成果と予想外の副産物でクラウスは困惑を覚えずにはいられない。


「構わぬ。だが、つまらぬ王家の目もあろう。聞いてのとおり、草原の地からやって来た商人とでもしておくがいい。そういった“余計な才”もこやつにはある」


 そこで“ファーン”は話は終わりだとばかりに小さく手を叩く。


「さて、ささやかながら宴といこうではないか。我が宝とでもいうべき息子を預けるのだ。それくらいはせねばな。――――酒を持てい!」


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