第36話 ヒミツください
「まったく、ゲームの世界に来てしまってどうしようかと思ってたら、ここでも面倒事だらけか……」
教会から戻ったその日の夜遅く、ひとりになった自分の部屋で、アベルはベッドに腰をかけながら溜め息を吐き出す。
ベッドの脇に置いたサイドテーブルにはスコッチウイスキーの瓶とグラス。背の低いグラスに入れられた琥珀色の液体の中で、大きな
『海兵隊支援機能』の『備品支援機能』内に含まれる『MCX機能』(Marine Corps Exchange=酒保機能)で取り寄せたものだ。
前世では「
残念ながら今のMCXでは12年のものまででそれより古い長期熟成のものは置いていないようだが、好みの銘柄が置いてあったことは幸いだった。
異世界に来ても、好きな酒を楽しめるのはありがたい。
グラスを口に運んで、アベルは静かに液体を喉に流し込む。キツめのアルコールが喉を焼いていく感覚が心地よい。
「しかし、自分が政治に関わるだって? 俺は一介の少佐だったんだぞ?」
ほのかにアルコールの香りが混ざった言葉が吐き出される。
そこには困惑の色が含まれていた。
しかし、アベルがこのように思うのも無理はない。
アリシアを中心に学園内であれこれ暗躍する計画どころか、そんなものが霞んで見えるほどキナ臭い事態に関わることになってしまった。
明らかに事態の流れは、自分がプレイしていたゲームとは大きく変わってきている。
……いや、もうゲームの知識は設定くらいしか役には立たないだろう。
なにしろゲーム本編では語られなかった様々な要素が加わり、まさしく“現実の世界”として動いているのだ。
今までも気を抜いたつもりは一切ないが、これからはまったく別の世界にいるものと意識せねばならない。
だが――――アベルは思う。
荒療治に思えたブートキャンプも、アリシアにとっては予想以上にいい方向に転がってくれた。
あのままでは国を相手に内乱を起こして公爵家が滅亡するルートがほぼ確定していたため、少なくとも王国に滅ぼされ断頭台の露と消える運命は
もっとも、アリシアの性格が大きく変化してしまったことで、それがまた“新たな運命”を招き寄せているようにも思えるのだが。
アリシアの変化はさておき、やることは依然として山積みだ。
この国で貴族を続けていこうと思うなら、第二王子派閥の跳梁をどうにかしなければ、亡国の運命を回避することは難しいだろう。
やはり今回の件を利用して、第一王子に接触するべきかもしれない。これはクラウスも考えているであろうが自分からも上申してみよう。
……このまま放っておけば、いずれ内戦に突入するだろうな。
しかし――――とアベルは遠い将来のことではなく、ここ数日のあれこれについて考える。
教会へのカチ込みはともかくとして、今回の人攫い組織への強襲作戦にしても、本来ならばもっと万全の体制で臨むべきであった。
具体的には、最低でも五名程度の強襲チームを組織し、倉庫内の人質を解放するのみならず、その痕跡を一切残さずに犯人たちの身柄を確保するくらいはしなければいけなかった。
十分な人数がいればより多くの情報を得ることもできたし、組織の壊滅を“敵”に悟られるタイミングを遅らせることも可能であっただろう。
だからこそ、開き直って“牽制”のために倉庫を破壊したのだ。
「いずれにしても、“チーム”が必要だな……」
公爵家の手勢を使うという方法もあったのだが、かえって上手くいかない可能性の方が高く早期に断念していた。
地球の軍隊的な小規模なチームによる戦い方を最低限こなせるのは現状アリシアのみ。甘々に見た次点でラウラだが、これもなかなかに厳しい。
来年の春までは王都でやらねばならないことも多々ある今、公爵家の人間や領軍から引き抜きを行って“訓練”を施すような時間的な余裕もない。
「いよいよコイツを頼るしかないか……」
ひとしきり逡巡した後、アベルはPDA端末を喚び出す。
ディスプレイの電源を入れて表示されるメインメニューから『海兵隊支援機能』を選択。
その中には、『
この中でアベルが気になっているのは後者の『派兵機能』だ。
今まで度々お世話になっている『備品支援機能』――――支援物資の名目で備品や武器を呼び出すのではなく、実際に動ける“人員を派兵する”という意味を持つらしきその項目が知らぬ間に新しく追加されていた。
この中に、いったいなにがあるのか……。
しばらくの間指が虚空をさまよった後、意を決してそれをタップして開く。
続いて表示された内容を見たアベルは、しばらくの間硬直することとなった。
「
ややあって口から漏れ出たのは震える声。
それに遅れるように、アベルは長い息を吐き出し次いで天井を仰ぎ見た。
もしこの世界に“運命”のようなものが存在するのだとすれば、それはいったい自分とアリシアに何をさせようとしているのか……。
アベルはそう思わずにはいられなかった。
端末の画面に援軍人員として浮かび上がっていたのは、アベル――――カイルであった頃にチームを組んでいた部下たちの名前だった。
しばらくの間、アベルは見えない鎖で縛り付けられたように動けなかった。
そんな彼の身体にまとわりついた鎖を引きちぎったのはドアをノックする音だった。
耳朶を打つその音でアベルは意識を現実に引き戻される。
……普通はもう寝静まっている頃だ。こんな時間に誰だろうか。
PDAを消し去り、左手に持っていたグラスをサイドテーブルに戻すと、アベルは後ろ手にSIG SAUER P228拳銃を持ってドアへと向かう。
「アリシア様……?」
小さくドアを開けると、寝間着に毛糸で編まれた上着を羽織った姿のアリシアがいた。
アベルとしてはもうとっくの昔に床へ入ったものとばかり思っていた。
すぐに拳銃をしまうと、アベルはドアを開ける。
「……ごめんね、アベル。こんな時間に」
驚いているアベルの隙を縫うように、するりと中に入ってくるアリシア。
アベルには止める間もなかった。
「こんな時間にどうされたのですか? さすがに貴族の子女が男の部屋を訪ねるのは……」
「さっきまで、お父様と話をしていたの」
部屋を進み、先ほどまでアベルが腰を下ろしていた位置に座るアリシア。彼女はアベルの言葉には答えなかった。
きっと自分でも褒められた行動をとっていないことはわかってるのだろう。
それがわかったアベルは今は追求の言葉を避ける。
「あと半年もないけれど、学園を卒業したら領地に戻ることになったわ」
まぁ、そうなるだろうなとアベルはかねてより思っていた。
貴族子弟の社交の場でもあった学園を卒業する以上、王都に留まる意味はもはや存在しない。
騎士や魔導士など、なんらかの職に就いて国に仕えるとなれば話は別だが、アリシアはそのどれにも属する予定はない。
もしそれらを望むのなら、公爵令嬢という立場を除いて考えれば、今のアリシアなら相当な活躍もできるだろう。
しかし、その生活は夏以降様々なものに関わってきたアリシアにとってはひどく退屈な生活となるに違いない。
「今回の件で、お父様は王都での政争に専念すると決められたみたいだから。それでわたしには領主代行を……ということらしいわ」
そこを突いたか……とアベルはクラウスの取った手法を分析する。
女性には正式な領主となる権利がないこの国であっても、領主が存在している上でその代行に任命するという形であれば問題はない。
もっとも、それはかなり裏技気味なやり方となるが。
「お母様はいつものように国境線に張り付かされているようだから、先にその報告をしに行く必要もあるでしょうね」
ベッドからアベルを上目づかいで見るアリシア。その仕草にアベルの心音が少しだけ大きくなる。
クラウスの右腕として西部方面軍を国境に展開させているのが、アリシアの母親である公爵夫人オーフェリアだ。
元々貴族派に属する侯爵家の令嬢でありながら、生まれ持った才能と異様なまでの強さで騎士団から軍部へと移り、その後も盗賊の討伐などで数々の功績を上げたこともある女傑で、時を同じくして軍部で才能を発揮していたクラウスと紆余曲折を経て婚姻することとなった。
名前こそ変えられているが、ふたりを題材にした恋物語は今でも王都などで人気を博している。
しかし、現実は物語のように大団円とはいかない。
貴族位と軍才を持つ人間同士の婚姻に危機感を持った王室派により、オーフェリアはアリシアを産んで以降、その生活の大半を国境線で異民族を牽制することに割かれている。
異民族への備えという王命だが、一時は貴族派が反乱を企てる際に担ぎ出せる男子を産ませないようにしているとの見方もあったほどだ。
事実そうなのだろう。
貴族派には、本気になればこの国をひっくり返すことのできる求心力を持った人物がトップに揃ってしまっている。
ふたりにそんな野心など存在しないとしても、それだけで王室派は安堵することができなかったのだ。
「領主代行という任は伊達や酔狂で与えられるものではありません。奥様にも喜んでいただけることでしょう」
「どうかしらね……。正式に婚約破棄されてしまったことで、お母様はまた国境から離れられなくなってしまったから……」
ウィリアムとの婚約がなくなった以上、再び貴族派に対する警戒感は強まってしまう。
そうなると、真っ先に防ごうとするのがクラウスとオーフェリアの合流だ。
「でも、お話をいただいたからにはわたしは引き受けるつもり。それだけに足ると、お父様がわたしを認めてくださったのだからね」
柔らかく微笑んで、アリシアは言葉を続ける。
「それに、今のままではこの国は衰退する一方よ。そのための備えもしなくてはならないわ。ぜったいに負けたくないの」
すでに決めたであろう覚悟を表情に滲ませるアリシア。
しかし、その瞳は揺らいでいる。これから自身を待ち受けるであろう幾多の困難に対する不安に。
だが、それをアリシアは決して口に出さない。
「……ねぇ、アベル。訊いてもいい? いえ、聞かせて欲しいの」
ベッドから静かに立ち上がると、アリシアはアベルを正面に見据えて口を開く。
「あなたは……わたしについて来てくれる?」
そう問いかけるアリシア。
アベルはそれが従者へと訊ねた言葉ではないと気付く。
いち個人として――――幼い頃から自分を見守ってきてくれた“アベル・ナハト・エルディンガー”、自分をこうして破滅の道から救い出してくれた“カイル・デヴィッドソン”、そしてそれらふたつの魂が混ざり合い形成されている“今のアベル”に問いかけている言葉なのだ。
「……僭越ながら、それは愚問というものです、アリシア様。たとえ血に塗れた世界が待っていようと、私はあなたとともに在りましょう。私はあなたの従者ですが、それ以上に死が互いを分かとうとも兄弟の絆で結ばれた
その言葉を受けて、アリシアはアベルの胸に近付きそっと身体を預ける。
思わずアリシアを抱き留めたアベルだが、そこからどうするべきかで身体が動かない。
「お願い、このままでいさせて。今晩だけでいいから……」
アベルの胸の中でアリシアは小さく懇願する。
あの婚約破棄騒動から今まで、アリシアはずっと駆け抜けてきた。
これからどうなるのかという未来への不安。
強く在らねばならないという貴族と自身の矜持。
それらを心の中に抱えたまま、アリシアは走り続けてきた。
本当にそれしか道がなかったのか、それは誰にもわからない。
だからこそ、ふとした時に底知れぬ不安に襲われるのだろう。
「アリシア様……」
「ここは屋敷の中だものね。外なら、“アイーシャ”って呼んでもらえるのに……」
アベルの顏を見てふっと儚く微笑むアリシア。
たとえふたりの間柄を偽装する偽りの呼び名であっても、それは自身にのしかかる重責からほんの束の間アリシアを解放してくれたものだった。
もし偽りのものだとしても――――
アベルはそっとアリシアの背中に両腕を回す。腕に伝わるぬくもりと小さな震えが伝わってくる。
「私――――俺には、これくらいしかできない。……“アイーシャ”」
「……ううん、いいの。これだけでわたしには……。ごめんね、アベル。明日には、また元のアリシアに戻るから……」
アベルの胸に顔を深くうずめてアリシアは消えそうな声で言う。
そんな想いで、アリシアはこの言葉を口にしたのだろうか。
「いいんだ、必要な時は言ってくれたら」
自分が何者だからとか、そんな無粋な言葉を今は使わない。
運命は人へと押し寄せるだけで、自らはなにも語ろうとしない。
それを神の意志になぞらえたとしても、人はそれに翻弄され続けいつの間か心をすり減らしていく。
それでも、人は手探りのような歩みで進んで行こうと足掻く。
たとえそれが刹那の夢に過ぎないとしても、このわずかなぬくもりのために人は生きていくことができる。
「ねぇ、昔の話をして。この世界じゃない世界の話を……。あなたの――――
アベルはアリシアの身体を優しく抱いたまま、静かにベッドへ腰を下ろす。
アリシアもその動きに合わせるよう、横を向いた状態でアベルの腿に頭を預けて背中を向ける。
近いけど遠い。
しかし、これが今のふたりにとって“精いっぱい”の距離だとアベルは思う。
「そうだな……。俺の
そして、夜は静かに更けていく。
まるでふたりの会話が、今だけでも幸せなものであることを願うかのように。
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