第26話 夕闇は金色のドレス
「ぐ、え……、おぼぉ……!」
蹴りを喰らった男の喉の奥から絞り出すような呻き声が聞こえたところで、アリシアは若干慌てたように足を引っ込める。
それに一拍遅れるように、男は口から勢いよく反吐を撒き散らして地面に崩れ落ちる。
よほどの威力だったのか、男は自分が作り出した反吐の中にもかかわらず、腹部を押さえて激しくのた打ち回っている。
ただ残念なことに、彼の胃壁が破れてなければいいと心配する人間はこの場にはいなかった。
傾き始めた日差しが一瞬だけ差し込み、路地裏とアリシアを照らし出していく。
背後から夕陽を受けたことで、アリシアの姿が
もっとも、それを有り難がるには今さっき行われた凶行を忘れなくてはならないが。
「なんだか
一瞬だけ漂い始めた異臭に顔をしかめたものの、アリシアは足元に倒れる男には一切目もくれず、残る相手に見せつけるようにして不敵な笑みを浮かべる。
「テメェ、このアマァ! やりやがったな! 痛い目に遭わされてぇのか!」
職業人としてのプライドを傷つけられたのはわかるが、この手の輩の放つセリフはなぜどこで聞いても同じようなものなのだろうか。
そんな風に思うアリシアへと目がけ、ふたり目の男が叫びながら飛びかかってくる。
「そんなに女性と戯れたいなら娼館にでも行けば? ……あぁ、
明らかに暴力慣れした雰囲気の大柄な男が自分を害そうと近付いてくるだけで、常人であれば身が竦んでしまうだろう。
だが、そんなものはアリシアにとって無縁の話だった。余裕交じりに軽口を叩く始末ですらある。
こちらに向かってまっすぐ突っ込んでくる相手。そのコースを見極め、線の上からわずかに身体をどけて半身の構えをとると、アリシアは軽い掌底を顔面に向けて叩き込む。
自分の腕力ではなく、相手の運動エネルギーを利用した方法だ。
「ぶっ」
顔面を痛打された男の口から呻き声と鼻血が漏れるが、そのまま倒れはせずたたらを踏んだ姿を見て戦闘意欲はまだ健在と判断。
アリシアは後方へ二歩ほど下がって体勢を立て直すと、自分に背中を向けた男に向かって躊躇なく回し蹴りを繰り出す。
鋭い弧を描くように放たれた蹴りは、ちょうどアリシアの方を向こうとした男の側頭部に吸い込まれるように喰らいついた。
たしかな手応え。生じた衝撃が足を通じてアリシア自身にも伝わってくる。
すぐさま足を引き戻すと同時に、一撃を受けた男が地面に崩れ落ちる。
さすがに多少は手加減はしたが、当たりどころが良くて
「……なんというか」
姿勢を元に戻したアリシアは、男をふたり地面に沈めた直後とは思えない口調で静かに溜め息を吐いた。
「誰も彼も
「な、なんだ、お前は! いや、待て! う、動くんじゃ――――」
遅まきながら、目の前に立つ少女が自分の常識では計り知れない危険人物だと気がついた最後の男が慌てたように動き始める。
この状況下で相手を刺激するような言動は悪手なのだが、逆上し始めている男にそれを判断するだけの冷静さは存在していなかった。
「ちょっと言うのが遅かったな」
いきなりかけられた見知らぬ声にぎょっとする男。
腰の凶器に手をやりながら叫ぼうとしたところで、三人目の男は突然背後から伸びてきた何者かの手によってナイフを掴もうとしていた腕を絡め取られていた。
「なっ、なっ、なっ――――」
「まぁ、言われたところで止まらないが」
苦鳴を上げる暇もなく、凄まじい力によって一切の容赦なく関節を極められる。
突然の事態を理解できない困惑と苦痛による悲鳴のミックスボイスが男の口から漏れ出す。
突如として現れた闖入者は、そのまま悲鳴を上げる男が腕の力を緩めたのを見計らい、拘束していた少女を軽く突き飛ばすようにしてアリシアの方に遠ざける。
「――――おっとっと」
アリシアが自分の方に放られてきた少女を受け止める。
もちろん、そのままでは終わらない。
自分を襲う苦痛の中でなんとか抵抗を考えていた男だが、その反抗の意思を嗅ぎ取られたように関節の可動方向とは逆向きに腕を捻り上げられ悲鳴が漏れ出す。
「がががががが!!」
そして、ついに身体が限界を迎え、体勢が崩れたところを空中で一回転するように投げ飛ばされてしまう。
同時に空中で上がる絶叫と鈍い音。腕が折れた音だ。
いきなりのことが連続した上に、激痛に襲われていては受身など取れるわけもなく、背中から地面に落ちてカエルが潰されたような声を出して沈黙した。
「……さすがだわ」
アリシアの目線は、何が起きているかわからない様子の少女ではなく、その向こう側に向けられていた。
「光栄の至り」
恭しい一礼とともに、やや芝居がかった言葉がアリシアへと返ってくる。
「ずいぶん早かったわね、アベル」
そこには、一瞬の動きで人質を取ろうとしていた男を制圧したアベルが立っていた。
路地裏に入ってアリシアと別れた直後、そのまま屋根の上へとよじ登り、相手の後方に回り込んでいたのだ。
貴族の従者のやることではないが、まぁアベルは最早従者とかいう言葉では説明ができない存在になってしまったので仕方がない。
「……まぁ、これでも
アベルの視線はアリシアの右手へと向けられていた。
そう、腰を飾るナイフへと伸びたアリシアの手に。
あのままアベルの介入が遅れていた場合、たった今投げ飛ばされた男の身体にナイフがズブリと突き立っていた可能性が高い。
躊躇なく持てる手段を行使しようとする点は海兵隊員として非常に評価できるのだが、貴族の令嬢を兼務しているとなるとその評価を継続するのはなかなかに難しいところだった。
「それよりも、アリシア様」
話題を変えるようにナイフから目線を戻したアベルはアリシアに声をかける。
「なにかしら?」
「どちらもいい蹴りでしたよ。毎日の訓練の成果がちゃんと現れてくれたようで」
「――――あら、そこは先に動いたことを叱責するところではなくて?」
突然の言葉に一瞬反応が止まったアリシア。
だが、すぐに取り繕うように言うと「それでいいの?」という視線を向けてくる。
もっとも、そこに咎めるような気配は微塵も含まれてはいない。
「まさか。あの程度のザコに負けるような訓練を施した覚えはありませんから」
さも心外とでも言いたげなアベルの言葉。彼の返しの方が数段上だった。
「言ってくれるわね」
アベルから褒められたアリシアは言葉の上でこそ素っ気なく言っていたが、その顔にうっすらと浮かんだ笑みはひどく嬉しそうなものであった。
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