第18話 藪をつついて鬼が出た



 それから一ヵ月は、何事もなく――――ともすれば拍子抜けするほどあっという間に過ぎていった。

 いや、厳密に言えば、何事もなかったわけではない。


 長らく棚上げになっていたウィリアムとの婚約の件は、正式に「婚約を破棄する」と王の名で決定が下された。


 アリシアとしては予想の範囲内であったし、むしろ今さらあんなのウィリアムと復縁しろといわれても面倒になるだけだと思っていたため、特に取り乱したりすることもなかった。


 むしろ、父親であるクラウスの反応の方がずっと強烈だった。


「王宮のアナグマども……! そんなに内戦を引き起こしたいのかッ……!!」


「「お父様(閣下)、落ち着いてください!」」


 青天の霹靂も同然の報せを受けたクラウスは完全に怒りで我を忘れていた。それこそ口調が変わるくらいに。

 だが、それも致し方ないことであった。


 王都側はいったいなにを考えたのか。あれほどクラウスとやり取りをしていたはずにもかかわらず、事前通達は一切なしで婚約破棄を決められたのだという。

 貴族派筆頭としての面子を潰されたのもあったのだろうが、そこまで政治中枢が暴走を始めているのかという怒りがクラウスを激情に駆ったのかもしれない。


 結果、即座に貴族派を蜂起させるべく動き出すのではないかと思うほど怒り狂ったクラウスを、なぜかより当事者に近いアリシアとアベルが懸命に宥める側になってしまった。


 これも婚約破棄を受けた中、冷静でいられた一因じゃないかとアリシアは思う。

 なにしろ、自分の感情を露わにする余裕なんかなかったのだから。


「……大丈夫ですか。アリシア様?」


 ふとした時に、アベルはきわめて抽象的な訊ね方をしてきた。


 対するアリシアは――――


「ううん、大丈夫よ。これで“肩の荷”がひとつ下りたわ。心配してくれてありがとう、アベル」


 自分でもはっきりとわかるほど、無理のない笑みを浮かべて返すことができた。





 国家の重大事案ではあるもが、当人からすればどうでもいいと言いたくなるようなドタバタ劇はあったものの、アリシア本人としてはそれなりに静かな日常生活を謳歌できていた。


 そう、彼女にとっては大切な“日常”を――――。


「ふっ!」


 早朝のひんやりとした空気を斬り裂く裂帛の気合が迸る。

 それとともに、アベルの放った鋭い蹴りが間合いを詰めようとするアリシアに向かって飛んでいく。


 吹き起こる颶風ぐふうのような一撃をアリシアは左腕で受け流そうとするが、動きは早々に読まれていた。

 途中で軌道を変えた蹴りが掲げた腕へと直撃。筋肉がたわみ、骨の軋む強い衝撃が走る。


「くっ!」


 鋭い痛みの中、それでもアリシアは蹴りを放った隙を狙って、なんとかアベルの懐に入り込もうと足を前に送り出す。

 同時に、右手に握ったコンバットナイフを横薙ぎに振るうが、すでに体勢を立て直していたアベルはわずかな足の運びでそれを難なく回避。

 それどころか次の瞬間には、アリシアの死角へ滑り込むようにして移動していた。


 マズいと思ったアリシアはすぐに右腕を引き戻そうとするも、いささか遅きに過ぎた。


「どうした、ダンスにしてもすっトロいぞ、二等兵プライベート!」


 “教官殿”となったアベルの叫びが飛ぶ。

 伸びた状態のアリシアの右腕に迷彩柄の毒蛇が巻き付いたかと思うと、鉄塊が降ってきたような重量感が発生。

 予期せぬ重量になす術もなく引きずり込まれるように体勢を崩したアリシアの視界が、ぐるりと反転して浮遊感と共に平衡感覚を失う。


「くぅっ――――!」


 背中から突き上げるような衝撃を受けて、アリシアは自分が芝生に投げ倒されたことを知った。


 慌てて立ち上がろうとするアリシアだが、投げた状態から軽く押さえ込んだアベルがいつもの表情に戻ってかぶりを振る。


「……今日はここまでですね。おっと、今動かれると危ないですよ」


 脇腹に異物感を感じてそちらを見ると脇にナイフ――――訓練用に作られた強化ゴム製のものが突きつけられていた。

 唖然とするアリシアへ小さく微笑むと、アベルはナイフをどけて彼女の身体から静かに離れていく。


「まるで、敵わない、わね……」


 勝負がついたことでアリシアは力が抜けて芝生に倒れ込み、そのまま息も絶え絶えに悔しさの滲む言葉を漏らす。

 緊張が解れたせいか、芝の臭いが鼻腔に漂ってくる。


「今日はいい感じでしたよ。投げ技を使わされました」


「その、わりには……息もぜんぜん、上がって、いないじゃない……。なんだか、遊ばれているみたいだわ……」


 激しい呼吸に合わせてアリシアの全身から流れ出る汗が、迷彩服の下から湯気となって立ち昇っていた。

 毎日の日課とはなっているものの、屋敷の敷地内を何周もするマラソンの後に全力の格闘訓練を行えばこのようにもなる。


 それでも、ブートキャンプと晩夏の頃に比べればずっと楽になったとアリシアは思う。

 加えて、世の貴族令嬢がこの手の訓練に対して浮かべるであろう嫌悪感などとっくの昔になくなっていた。


「お世辞抜きに以前よりもずっと良くなっていますよ。最初の蹴りで沈まないだけでもね」


 アリシアのつぶやきを聞いていたアベルがすぐにフォローを入れてくる。

 その言葉もあまり慰めにならない気もしたが、アリシアはそんなものかと素直に受け止めることにした。

 こういう時、アベルは成長の妨げとなる世辞の類を絶対に挟まないからだ。


 ……呼吸も少し落ち着いてきたかな。


「そうは言われても、ちょっと実感しにくいわ。特に、毎回こうだとね」


 すこしだけ唇を尖らせて拗ねたようにアリシアが言うと、アベルはどうにも困ったような笑みを浮かべる。

 アリシアにとってその表情はひどく新鮮に映った。


「それは仕方ありません。やればやっただけ伸びるとは限りませんし。……それに、簡単に私が負けてしまうようでは、“教官”である意味がなくなってしまいます」


 まったくもって道理である。


「それとも、今後の長期休暇はすべて新兵訓練ブートキャンプ以上にハードなスペシャルコースにしますか? すぐに殺戮兵器キリングマシーンから最終兵器リーサルウェポンにランクアップできますよ? どうかね、二等兵プライベート?」


 アベルのにこやかな笑み――ただし目は笑っていない――を受けて、アリシアの身体から冷や汗と脂汗が新たに流れ始める。

 最後の“教官殿”としての言葉により、なかばトラウマとして植え付けられた新兵訓練ブートキャンプの記憶が、フラッシュバックしそうになるほどの――――。


「……サー……あー、それはちょっと考えさせてちょうだい。とりあえず、湯浴みをさせてもらうから」


 盛大に墓穴を掘ってしまったものの、即座にイヤだと拒否するのも格好がつかないと思ったアリシア。

 とりあえず誤魔化しの言葉を放ちながら、ただ今は問題の先送りを選んだ。


 その日の訓練にちじょうは、最後までアリシアの“敗北”に終わったのだった。



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