第12話 咲かせて裂かせて桃色空間
失恋は人を変える――――これは昔から王国に伝わる格言のような言葉だ。
どこの国にも似たような言葉はあるらしいので、根本的に人間のやることというのは同じなのだろう。
とはいえ、
心の成長を促す切っ掛けとなってくれたり、あるいは逆に屈折させてしまうこともあるのだから不思議なものだ。
今回のアリシアの場合、それは幸いにも前者――――プラス方向に働いてくれたと言ってもいい。
そうなった要因としては、無理矢理放り込まれた
また、復帰した学園で“元カレたち”はさておきとして、人間関係が以前に比べて大きく改善されたからであろう。
そのような流れもあって、アリシアはいつからか“元カレ”であるウィリアムには見向きもしなくなっていた。
むしろ、どうして今まで気が付かなかったのだろうとアリシアは不思議に思うくらいであった。
しかし、これが“一部の人間”の自尊心を大きく刺激してしまったことは想像に難くない。
「一度敗けた者は、敗者として無様に醜態を晒し続けるべき」と思いこんでいる人間は、残念ながら世の中には一定数存在する。
あるいは、権力という甘い毒をその身に受ける者ほど、そんな意識は強くなってしまうのだろうか。
「そこは
「……あら? ここに指定席などありまして?」
突然、“ウィリアムご一行さまたち”から声をかけられたアリシアは、冷静にこそ返すことができたものの内心ではひどく困惑していた。
無理もない。“あれ以来”では、初めて――――二ヶ月ぶりとなるウィリアムとの会話だ。
大勢の前で断罪された記憶が、アリシアの脳裏にはっきりと蘇ってくる。
……だが、それはもう過去の話だ。
わたしはもう以前のわたしではない。昔の弱い自分はあの砂漠の世界に置いてきた。
精一杯意思を強く持とうとすると、激しく打っていた心臓の鼓動も次第に小さくなっていった。
そうしてわずかに残った心中の動揺を悟られないよう、努めて自然な動作を意識してアベルが用意してくれたハーブティーの
静かな音。……うん、成功だ。
「そこにいるのが邪魔だと言っている」
しかし、アリシアの問いにウィリアムは答えない。
そればかりか、本来ならば直接言葉を交わすのも避けたいという表情さえ浮かべていた。
「はぁ……」
周りを見渡してから曖昧な言葉を放つも、アリシアの中では不快感が生まれていた。
「私たちはレティと皆で歓談をしたいのだ。全員が座れる席数があるのはここだけだろう」
学園のカフェテラスには、たしかに貴族子弟専用エリアとされる一角はある。
だが、それは明確に決められているわけではなく、“暗黙の了解”のような存在であった。
それも差別意識に基づいたものではなく、平民は平民たちであまり気を遣わずに仲間たちと過ごす場所は必要だろうとしての判断であったし、それは貴族たちにとっても同様となる。
だからこそ、それぞれが自由に利用するためにエリアこそ別々に存在しているが、椅子だとかテーブルだとかの設備に差異は設けられていない。
当然、周りからもなにごとかと好奇の視線が集まってくるが、ウィリアムたちに気にした様子はまるでない。
いや、どうも単純に周りが見えていないだけのようだ。
「そもそもだな、そんな広い席をたったふたりで占拠するなど、お前は図々しいと思わないのか?」
それどころか、続けてウィリアムが放った言葉には「いいからさっさと退いて失せろ」という傲慢な響きがこめられていた。
よくもまぁ“あれだけのこと”をしておきながらこんなセリフが……。
アリシアは呆れてしまいそうになる。
それも、これ見よがしにザミエル男爵令嬢を“レティ”などと呼んで。図々しいのはどちらなのかしら……。
アリシアの中で、ウィリアムに向ける自分の感情が恐ろしい速度で冷めていくのがはっきりとわかった。
それよりも不安になるのはウィリアムの頭の能天気具合だ。
王子の一存で勝手にアリシアに婚約破棄を突きつけて、王国内外から密かに大顰蹙を買った記憶はもうどこかへ行ってしまったのだろうか。
もしくはその事実すら把握していないか。
こんな人間に将来この国を任せて大丈夫なのだろうか?
「図々しい、ですか……?」
脳内で王国の行く末を案じながら、アリシアは「はて?」と返す。
このような反応をアリシアがすれば、とにかく馬鹿にしたいウィリアムは余計に調子に乗るかもしれないが、侮るなら侮ってもらった方がなにかと楽ではある。
「そうだ。お前にはそんなこともわからないのか」
アリシアの横で黙って控えていたアベルは、すでに彼らの勝手な物言いにまるで“ウジ虫”を見るような目になりかけていた。
ウィリアムたちは「従者ごときが……」と先日あれだけボコボコにされたにもかかわらず存在を無視しているが、それがいっそう事態を剣呑なものにしていた。
……危ない。ここはわたしがなんとかすべきところみたいね……。
アベルの中に潜む“鬼教官”っぷりを、その身をもって味わったアリシアの本能が盛大に警鐘を鳴らしていた。
仮にアベルが暴発――――もとい出ていくと、比喩表現を抜きに血を見る事態に発展しかねないのではないかという不安。
自分自身がトラブルに巻き込まれているにもかかわらず、それがかえってアリシアの感情を落ち着かせてくれていた。
笑える状況ではないはずなのに笑えてきてしまう。
目の前の事態も、それほど大したものではないのかなと思えてくるほどだ。
以前の自分ならこうはいかないかもしれないわね、とアリシアは鬼教官殿のアベルに心の中でひっそりと感謝をしていた。
「……僭越ながら、ウィリアム様。周りに人がいない席に座りたいと思うのは当たり前のことではないでしょうか? 誰もがゆっくりとした時間を過ごしたいもの。そんな中で、よそ様の近くに座るものでもありませんでしょう?」
ここまでの言いがかりじみた物言いをされては、さすがのアリシアも不快感を隠したままにすることはできなかった。
たしかに、アリシアが座る席の周囲に人は少ない。
しかし、それはこのテラスにいる人間各々が、互いに気を遣って席と席の間を空けて座っていたからだ。
アリシアからすれば、周りに気を遣って座った席がたまたま大人数用だっただけである。
大勢で座りたそうな人間が現れたらちゃんと席を譲るつもりでいた。
それを後から来ておいて譲ってほしいと申し出てくるどころか、「座りたい場所はそこだからさっさとどけ」と言う方が非常識というものだろう。
先ほどの自分の言葉と矛盾するようだが、その辺の空いているところに座ればいいとさえ思えてくる。
「なんだアリシア。お前、まさか王子たる私に歯向かう気か?」
挙句の果てには、このような学生同士のレベルのことにまで、自分が王族であることを持ち出そうとする斜め上の返事。
あまりの次元の低さに、アリシアは大きな溜め息が出そうになる。
敢えて口に出したりはしないが、べつにアリシアには席へのこだわりなどまったくない。
だが、貴族の世界では謝ることもそうだが、譲歩することですら相手に負けたと見なされる。
王子相手だけならまだしも、彼と共にいる取り巻きすら対象となれば話は別だ。
アリシア個人としては「じつにくだらないこだわりね……。好きになされば?」と会話を切り上げて席を立ちたいくらいに思っている。
だが、公爵家令嬢としての立場がそれを簡単には許さない。
この部分だけ見れば、アリシアは学園に復帰したことによる面倒さというものを強く感じていた。
それに、ここで「そうですか。では、どうぞお座りになってくださいまし」と簡単に引いてしまうようでは、今後も同じようなシチュエーションで譲歩を求められる――――つまるところ舐められてしまうと思ったのだ。
それに、また“あのような目”に遭わされることは、アリシアとしては二度とご免だった。
「いえ、滅相もございません。ただ……王子殿下ともあろうお方が、席ひとつにずいぶんとご執心なされると思っただけですわ」
自分でも驚くほど冷たい口調で、アリシアは皮肉めいた言葉を放っていた。
わざわざ自分に声をかけてきたのも、いったいどういう思考形態かわからないがレティシアとの仲を見せつけたいからだろう。
勝手に婚約を破棄しておいて、その上で婚約者でもない新しい彼女を見せつけに来る時点で
それよりも、こんなつまらない男に熱を上げて自分自身すら犠牲にしていたかと思うと、いよいよ自分が恥ずかしくなってくる。
だが、恋とはするものではなく落ちるもの。その深みにはまっていては見えないこともあるのだろう、とアリシアは自分に言い聞かせる。
そうして、発作的に昂りそうになる自分の気持ちをゆっくりと落ち着けていく。
「な、なんだと……?」
一方、さすがにウィリアムも皮肉だと気付いたのか、ついには剣呑な雰囲気が辺りに漂い始める。
しかし、この場でとびきり危険な
「ウィリアム様……。わたくしは結構ですから……。他へ行きましょう?」
意外なことに、それまで黙っていたレティシアがウィリアムに対して遠慮がちに声をかけた。
まさかこのまま続けるにはあまり状況がよろしくないと思ったのだろうか。
それによって、空気と少年たちの顔が一気に弛緩した。
アリシアは愕然となる。なんだこの桃色空間は。
「しかしだな、レティ――――」
「せっかくわたしのために殿下が御自ら動いてくださりましたのに。こんな風になってしまっては、なんだか殿下に申し訳がなくて……」
まるでこちらが聞き分けがないみたいに聞こえるのだけれど。
アリシアは眉がヒクついた。
それにしても、言葉ひとつで相手の心をなんというか上手くくすぐるものね――――とアリシアは目の前で繰り広げられる“レティシア劇場”を辟易と眺めつつも、同時に見ていて感心しそうになる。
こういうちょっとしたやり口こそが、彼らを次々に籠絡してきたポイントなのだろうか。
もっとも、アリシアとしては真似したいなどと微塵も思わなかったが。
「あぁ、レティは優しいのだな。まぁ、お前がそう言うのならもういい。他へ行く。興が醒めた」
こちらを睨み付けながら、吐き捨てるように言いたいことだけを言って去っていくウィリアムとその取り巻きたち。
それはこちらのセリフよ――――。
アリシアはイラッとしたが、せっかくトラブルが向こうから去ってくれると言うのだ。精一杯のにこやかな笑みを浮かべてそれを見送る。
去り際に漏れ聞こえてきた声では、取り巻き立ちが口々にレティシアを褒めちぎっていたが、アリシアにはひどい茶番にしか思えなかった。
なんて、迷惑。いえ、大迷惑だわ。
思わずそう思いかけるも、アリシアは意識を切り替える。
そう、あれこそが自分たちが打倒すべき“敵”なのだ――――と。
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