第11話 復活のアリシア



 二か月にも及ぶ地獄の新兵訓練ヘル・ブートキャンプが終了し、夏期休暇の終了とともにアリシアとアベルは王都――――学園に戻ることとなった。


 未だ夏が自己主張するような強い日差しが残る青空の下、学園の正門を入ってすぐの場所にある停留所に一台の馬車が停まる。

 馬車に掲げられた紋章がアルスメラルダ公爵家のものであることに、近くを歩いていた生徒たちから一斉にざわめきが発生する。


「……なんというか、予想通りの反応ですわね」


 小さな溜め息と一緒にアリシアは苦い笑みを漏らす。


「無理もありません。しかし、この程度は些末事です。アリシア様はこうして。これは今までの貴族社会では考えられないことです」


 アベルは気にすべきことではないとはっきり言い切る。


「そうでしょうね。でも、アベルの言葉ではないけれど、逃げるのは好みじゃありませんもの」


 窓の外から向けられるそれら好奇の視線を感じたアリシアだが、特に意に介した様子は見受けられない。


「お手を」


「ええ、ありがとう」


 そうして馬車から降りる際、先に降りたアベルが差し出した手を取ってアリシアが踏み出した一歩目。

 アベルには、それがかすかに乱れたようにも見えたが、ゆっくりとかぶりを振ったアリシアが新たに踏み出した二歩目は、すでにいつもの堂々としたものへと戻っていた。


 ――――二ヵ月が過ぎたとはいえ、結局のところは遠ざかっていただけだ。そう簡単に克服できるものではないし、まだその時ではないか。


 少なくとも、今の時点では傍で見守ることしかできない。

 従者としてのアベル――――というだけではなく、海兵隊員マリーンとしてもできる限りのことはした。


 しかし、あの訓練はけっして根本治療ではない。

 あくまでも“あの一件”で受けた精神的な負荷ストレスを上回る“より強いストレス”と肉体への“シゴきP.T.”で強制的に上書きをしたようなものだ。

  あとはそれに耐えきったアリシアの精神力にかけるしかない。


 だが――――。


「ひどく……久し振りな気がしますわね……」


 馬車から降りた場所に立ったまま、少しだけ遠い目をして目の前の学び舎を見上げると、アリシアは静かにつぶやく。


 しかし、その表情にはもう恐れを表す類の感情が含まれてはいなかった。

 むしろ、透き通る翡翠色ジェイドをした瞳の奥には、難敵に挑もうとするタフガイのような気配すら漂わせている。


「不安ですか?」


「……まさか! あなたの“鬼教官”っぷりに比べれば、これから先のことなんて、どうということはありませんわ。……そうでしょう?」


 あえて問いかけたアベルの言葉に、わざと肩を竦めてから大げさに驚いて見せるアリシア。

 もしかすると、それはただ強がっているだけなのかもしれない。


「ええ、その通りです」


 だが、たとえそこに強がりが混ざっていても、この気丈さがあればきっと大丈夫だ。

 今のアリシアなら、これから先に待ち構えているであろう幾多の困難さえも乗り越えていけるに違いない。


 アベルは強く頷き返しながらそう思うのだった。











 そうして、学園に在籍している者たち各々の思惑が巡る中、二学期は例年のそれと同じように始まった。


 授業を受けていく中でも、他の生徒たちからの視線が時折アリシアへと注がれていた。

 “人の噂も七十五日”という言葉がどこかの世界にはあるとアベルは言っていた。

 やはり二ヵ月程度の期間では、生徒たちの記憶からが風化することもないのだろう。


 とはいえ、それらは悪意の混ぜられたものではなく、ほとんどが好奇の視線であった。


 実際、あんな風に衆目にこそ晒されたものの、アリシアのしたことは一種の“忠告”であり、貴族社会に生きる者としてなんら間違った行動ではなかった。

 だから、その視線の多くも、潰れることなく舞い戻ってきたアリシアへの興味が先行したともいえる。


 それでも、第二王子ウィリアムたちがレティシアは“いやがらせ”を受けていたと言うのであれば、それは他の貴族子弟がやったことが、どういうわけかアリシアのせいにされているだけだ。

 そのようなことをしたアホがいるのは公爵家でも把握しており、家には額に血管を浮き上がらせたクラウスが“それなりの処置”を裏からとっている。


 少なくとも、今後はよほどのバカでもない限りは、レティシアに対する“いやがらせ”はなくなるであろう。

 もっとも、それすらアリシアが断罪されたからと吹聴される可能性はあった。


 しかし――――。


「アリシア様、なんだか以前よりも明るくなられましたか? とてもお元気そうで安心いたしましたわ」


「ええ、身体を動かすようにしましたの。おかげで身体が以前よりもずっと軽く動くようになりました。そうしましたら朝の目覚めもとても快適で……」


 柔らかに微笑みながらアリシアは同級生の子女に返すが、少しどころの話ではない。

 体格こそほとんど変わってはいないが、その女性らしいしなやかさを持った身体の下には鋼のように引き締まった筋肉が潜んでいる。

 今のアリシアなら、この学園内であれば身体能力でもトップクラスの成績を残せるだろう。

 もちろん、素手でリンゴが握り潰せるとか木の板が拳で割れるとか、そのような直接的な表現は使わない。

 それは淑女らしくないからだ。


 また、睡眠についても、おそらく訓練を行う中で体力がつき、生来低かった血圧までもが改善されたからだと思われる。


 しかし、目覚めはどうだろうか。

 すぐに起きなければ耳元でドラム缶を容赦なく叩かれる“海兵隊式目覚まし”を毎日のように受けていたため、快適という表現はずいぶんとアレだ。

 これについては海兵隊マリーンに毒されてしまったともいえる。


「あら、アリシア様。御髪おぐしをお切りになられたのですか? せっかく長くてお綺麗でしたのに。もったいないですわ」


「ええ、“あんなこと”もあったので、少し気分を変えようかと思いまして……。でも、案外良いものですわよ。さっぱりとしますから。それに、髪はまた伸びてくるものですから」


 さっぱりしたかったというのも嘘ではない。

 嘘ではないが、本当のところは長い髪では“シゴき”を受ける上で邪魔になるからと、自分自身で早々に切ってしまっただけだ。


「まぁ……。わたくしもやってみようかしら」


「ええ、髪型が変わると気分も変わります。よいことだと思いますわ」


 このように朗らかに語るアリシアも、最初は「髪は乙女の命」とひどく難色を示していた。

 だが、鬼教官と化したアベルから自分が放った言葉の十数倍の罵倒を受けた挙句、初日からやらされた五キロマラソンで大量の汗を吸った髪の自重に首を

 結局、アリシア本人が言うところの“乙女の命”によって、自分の命が物理的に脅かされてしまったことを受け、さすがに考えを改めざるを得なくなったらしい。

 我慢を続けたものの、一週間も経たないうちに、真剣な顔の下ばっさり切ることを決意していた。

 これだけは海兵隊も悪くない。


 なんにしても、ものは言いようなのだな――――と実際のところを知るアベルは内心でツッコミを入れたりしていたが、そんなアリシアの変化は周囲からはおおむね好意的に受け入れられていた。


「なぁ、アリシア様変わられたよな……。以前よりもずっと健康的っていうか色っぽいっていうか。俺、惚れてしまいそう……」


「あなたでは家格が釣り合いませんでしょう? でも、本当にお美しくなられて……。受け答えも今まで以上に堂々とされていらっしゃるし……。わたくし、本気で憧れてしまいますわ……」


 などと漏れ聞こえてくる声すらあったが、それはある意味では当然の結果であった。


 むしろ、“あんなこと”があった後にもかかわらず、体調を崩して“療養”という名目で退学したりすることもなく、新学期から堂々と学園に復帰してきたのだ。

 これだけでもアリシアの評価は大きく上がっている。

 それに“あの訓練”の成果が加わったのなら、もはやうなぎのぼりと言ってもいいほどだ。


 なにしろ、アリシアが生来持つ深窓の令嬢然としたほっそりとした美貌に、絶妙な具合に溌剌はつらつとした生気が添加されたことで、女性としての魅力を累乗倍的に上昇させたのだ。

 学園の顔として一気に躍り出たようなものである。


 結局、大勢の前で大恥をかかされたはずであったアリシアだが、肩身が狭くなるどころか逆に大きな注目を浴びるようになってしまった。それもいい意味で。


 さて、こうなると面白く思わない連中が現れてくる。


 なんとなくであろうことを、アベルは早い段階からを予想していた。


 問題は、相手がどこまでこちらの予想の下を潜り抜けてくるかであったが、よもやそのさらに下を行くとはさすがのアベル自身も思ってはいなかった。

 これは、彼自身が前世も含めて常識人の多い場所で育つことのできた幸運もあるのだろうが、げにおそろしきは“人間の欲”の深さであったのかもしれない。




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