第5話 父、逃げ帰った後で



「……そうか、ウィリアム殿下はアリシアとの婚約を破棄するとおっしゃられたのか。お前の様子からしてただごとではないと思ってはいたが……」


 アベルの対面から重苦しい溜め息が吐き出された。


 羊皮紙とインクの香りがほのかに漂う広い部屋の中、一目で高級品とわかる執務机に両肘をついて思案しているひとりの男がいた。


 四十近い年齢であるだけでなく、それまでの激動の人生を感じさせる苦労の皺がわずかに刻まれている顔と、少しだけ白に近付きつつある金色の髪。そんな武骨さを持ちつつも整った貌の中で眉根が強く寄せられていた。


 クラウス・テスラ・アルスメラルダ。アルスメラルダ公爵家の当主にして、アリシアの実の父親である。

 彼は現在、王都から強行軍とも言える速度で領地に戻って来たアベルから婚約破棄騒動の報告を受けていた。


「はい、閣下。最善は尽くしたつもりですが、お嬢様を一刻も早くこの地へお連れするのが精一杯でした」


 前世の癖で、アベルは海兵隊員としてどこに出しても恥ずかしくない直立不動の姿勢で公爵と向き合っていた。そんな従者の様子を見て、クラウスは少しだけ不審に思う。


 たしかに、アベルの立ち振る舞いは元々貴族としてもかなり洗練されていた。

 作法のみならず剣術と魔法にも優れていたため娘の護衛に選んだのだが、それでもこんなにきびきびとしていたか? と。


 不意に覚えた違和感を「気のせいだろう」と頭の隅へと追いやり、クラウスは椅子から立ち上がり席を応接セットへと移す。


「いや、そう謙遜するものではない。むしろ最上の判断だったと思うよ、アベル。……まぁ、こちらに来て座りたまえ」


 クラウスはわずかに相好を崩してアベルに席を勧める。


「失礼いたします」


 一礼してソファに腰を下ろしたアベルに向けて鷹揚に頷くクラウス。彼は元来この利発な青年をひどく気に入っていた。


「もし王族の威光を嵩にアリシアを軟禁されでもして、場の勢いのままに殿下の取り巻きたちも騒ぎ立てていれば、後から私が出ていったところで流れを変えることは不可能だったかもしれん。心から感謝する」


 クラウスはほとんど手放しでアベルを褒め称えた。

 いささか大袈裟ではないかと感じるも、肉親が関わっているとなれば当然の反応だろうとアベルは思う。


「まぁ同時に、経由で、あっという間に修道院の手配すら整っていたかもしれんと思うと肝が冷える思いにもなるがな」


 ウィリアムの取り巻きのひとりが、ヴィクラントの国教である聖光印教会の枢機卿の息子であることをクラウスは知っていた。

 彼の父親が、王国軍に強い影響力を持つクラウスとは、国を超えて水面下で睨み合う不倶戴天の存在であることも。

 そんな仇敵が、色恋沙汰絡みとはいえ今回の件を利用しないでいてくれるはずがなかった。


 まさにクラウスにとって、今回の流れは現時点では天恵といえた。


「しかし、とんでもない話だ。揃いも揃って重鎮の息子たちが、よくもまぁたったひとりの小娘に籠絡されたと感心してしまうよ。あるいは、それだけの底知れぬ脅威なり能力を秘めているということか……」


 苦笑を浮かべて二度目の溜息を吐き出したクラウスだったが、喋っている途中から一転して鋭い目つきとなる。彼はアベルの報告を荒唐無稽と一笑に付したりはしなかった。


 いくら第二王子が色に狂ったボンクラだったとしても、国内外から多くの貴族子弟が集まる学園で婚約破棄を口にしたとなればただごとではない。

 そうさせてしまうだけの魔力のようなモノが、その娘レティシアには備わっているということになる。


「どんな顔だか一度拝んでみたくなるものだよ。、な」


 軽口を叩くクラウスだが、表情は少なからぬ不快感に歪んでいた。


 レティシアという男爵令嬢がどうであれ、“やられたこと”が変わるわけではない。

 少なくとも、愛娘アリシアが凄まじく屈辱的な目に遭わされたことに変わりはないわけで、クラウスは怒りの感情だけでも、すぐさま王都に向けて公爵軍を進軍させたいくらいだった。


 ――――この人も、大概親バカなところがあるからなぁ……。


 向き合うアベルは、一見して冷静そのもののクラウスが、内心ではマグマのごとく煮えたぎる怒りを抱えていると気付いていた。


「傾国の美女――――というにはいささか華やかさに欠けてはいますが、人の中にズケズケと入り込む……もとい、心の垣根を乗り越える才に長けているのはたしかでしょうね。それが本人が生来持つ才能なのか、あるいは――――というところではありますが」


 自分の知るアベルらしからぬ軽口に、意外に思ったクラウスから少しだけ怒気が抜けていく。


「しばらく見ないうちに、ずいぶんと諧謔かいぎゃくを解するようになったな、アベル」


「これは差し出がましい口を……」


 しまったと思ったアベルは誤魔化そうとする。


「いや、逆に頼もしく感じるくらいだ。まつりごとのしがらみさえなければ、いっそアリシアの婿にと思うくらいにな」


「……お戯れを。それよりもです。これから先、いかがされるおつもりですか?」


 そりゃあの第二王子ボンクラと比べたらな、と脳内で結論を出しながら、自分の“変化”について深く追及されたくないアベルは話題を変える。


 少なくとも色気のある話は先送りでいい。

 今は主家であるアルスメラルダ公爵家が生き延びる方法をアベルは考えなくてはならないのだから。ゲームのシナリオを覚えていることなど、生きている人間が交錯する世界では大した役には立たない。


「そうだな……。どう転ぶかはわからんが、いずれにしても王家との折衝は私の仕事だな。時間稼ぎとも言うが。こうなってしまっては王家派と貴族派が対立は避けようもないだろう。その上で、この先どうするかを考えなくてはならない」


 クラウスの言葉は、アベルの考えていることとおおむね同じ内容であった。

 

 第二王子ウィリアムの“大失態”により、近いうちに王族派と貴族派の対立は再燃する。問題は公爵家としてそれをどう扱い、またどう将来に備えるかだ。


「閣下としては――――」


「まぁ、待て」


 クラウスはそっと手を掲げてアベルの発言を止める。


「まずはお前の考えを聞きたい。しばらく会わない間に、。私の勘はだな、アベル。“君”個人の意見を聞くべきだと言っている」


 どこか挑むような目をクラウスはアベルに向ける。


 これは……たぶん試されているな。


 覚悟を決めなくてはとアベルも気持ちを引き締める。

 同時に湧き上がるかすかな昂揚感。“ちょっとした戦い”の気配を前に、知らずの内に気持ちが昂ぶっているのかもしれない。


「……今この場で考えられるプランですが、三つほどあるかと」


 頭の中で考えを整理しながらアベルは指を三本立て、そのうちにひとつをゆっくりと折り曲げてみせた。


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