銀の浜辺の〈銀のけもの〉

〈銀のけもの〉は、身体を起こすと、ヨルンをその一つの瞳でじっと見つめた。

 積年の仇を目にして──たとえここが現実空間では無かったにせよ──、ヨルンが感じたものは、意外にも憐憫の情であった。

〈無限の地平〉ではたましいは真実のかたちを取る。このやせ衰え、やつれ、乱れた髪の〈銀のけもの〉の姿は、彼の生きてきた悠久の孤独とそれに伴う計り知れない疲弊、そして絶望とをヨルンに余すところなく伝えていた。だがヨルンには、何がこの〈けもの〉をこれほどまでに貶めているのか、それがわからなかった。

〈銀のけもの〉は口を開くと、嗄れた声で呟いた。

 

「お前は……」

「私の名はヨルン。オートランのヨルンだ。お前は覚えているか。私の母上を。お前がその人生を破滅させた、我が母上を」

「お前の母……」

 

〈銀のけもの〉は困惑した表情を浮かべながら、何かを咀嚼するように、しばらくの間ただ口を動かしていた。だが突然笑みを浮かべると、大きく口を開けて喋りだした。

 

「ああ、ああ! お前の母! あの小娘か! ああ! 覚えているぞ! 覚えているとも!」

「母上は私を産んだのちに殺された。私にお前の血が流れていることがわかったからだ。お前が母上を殺したのだ。どうだ。何か思うことはないか」

「何。死んだのか」

 

〈銀のけもの〉はたった一つの瞳をひどく歪ませて悲しそうな表情を作ると、ぼそりと呟き、続けて言った。

 

「悲しいなあ。みな死んでしまう。みな、みな死んでしまう。おれを置いていってしまう。誰も彼も、おれを一人にしてしまう。ああ、なんと悲しいことだろうなあ。なんと寂しいことだろうか」

「自らを憐れんでいるのか? 他に何か無いのか。お前は我が師、ルーウーをも殺した。彼女のことは覚えていないのか?」

「ルーウー」

 

〈けもの〉は遠い目をすると、再び口元を動かしながら考え続けていた。そして口を開いた。

 

「ああ……おれの子だな。おれを殺そうとした娘だ。それが叶うことはなかったが」

 

〈けもの〉は低く暗く笑うと、その虚無的な瞳でヨルンを見据えた。

 

「お前もおれを殺しに来たんだろう。にくい、みにくいこのおれを」

「そうだ」

 

 ヨルンは足を踏みしめると、正面から〈銀のけもの〉を見つめ返して言った。

 

「私はお前を殺す。我が母の名において殺す。我が師の名において殺す。お前が巻き起こした全ての災禍に始末をつけるために殺す。私はそのために今ここにあるのだ」

「そうだろう、そうだろう。お前はそのために今ここにある。お前はそのためだけに、これまで生きてきたみたいだからな」

 

〈銀のけもの〉は座り直すと、続けて言った。

 

「だがお前、覚悟は出来ているのか」

「舐めたことを聞くものだ。お前を殺す覚悟など、とうの昔に出来ている」

「そうじゃない。おれを殺したあとの話だ、次なる狼よ」

 

〈銀のけもの〉は身を乗り出して言った。

 

「どうやらお前が”当たり種”だったらしいが。お前、覚悟は出来ているのか。おれが死ねば、お前が次のおれだ。お前がおれになるんだ。おれのこの様を見ろ。お前、こうなる覚悟は出来ているのか? ひとりだけで誰にも理解出来ぬ獣性に囚われ、それでもずっと果てのない時を生きていく覚悟は出来ているのか?」

「何?」

 

 ヨルンは言った。

 

「どういうことだ。わたしがお前になる? 何を言っているのだ」

「おい。おい。お前、まさか、そんなことも知らないでここまで来たのか!?」

 

〈銀のけもの〉は腹を抱えて笑うと、再び空虚な表情に戻り、そしてヨルンに言った。

 

「まさかそんなことだったとはな。いいだろう、教えてやる。お前は次なる狼だ。お前はおれの後釜として生まれてきたのだ。それがお前の運命だ。それが宿命だ。おれが死ねば、お前が次の〈銀のけもの〉になる。これは不可避だ。避けがたい災厄だ。お前にはどうしようもできない、我が一族の間に流れる大いなる貧乏くじだ」

「……」

「おれもそうだった。おれもそうだったよ、ヨルン。おれもこんなものにはなりたくなかった。だが成り果ててしまったんだ。そしておれは弱かった。おれは、おれの全てを〈けもの〉に奪い取られてしまった。そしてそれに振り回されてこれまで生きてきた。もはや、何を失ったかも思い出せないがな」

 

 そこで〈銀のけもの〉はうつむくと、しばらく言葉を切った。そして言った。

 

「まあ、ここでじっくり考えるといい、どうするかをな。時間ならある。ただ、何をするにせよ、決めるなら少しでも早くしたほうがいいだろう」

 

〈銀のけもの〉は再び流木に横たわると付け加えて言った。


「少なくとも、おれが寿命で死んでしまう前にはな」

 

 ◆

 

 ヨルンは〈銀のけもの〉から離れた岩場で、一人考えていた。自分が次の〈銀のけもの〉になる。到底信じられないことであった。だが〈無限の地平〉はたましいの世界である。嘘を付けばそれは誰にでも伝わる。〈銀のけもの〉は真実だけを語っていた。

 ただ、このことを聞かされて、ヨルンは一つだけ安心していたことがあった。それは、彼の師である〈魔女ルーウー〉が、彼が次なる狼であることを知らずに死んでいったであろうことだった。〈銀のけもの〉を憎む彼女が、もし自分の弟子が次の〈銀のけもの〉であることを知ったならば、一体どうしていたことだろう。殺されていてもおかしくはない。裏切られたように思っても仕方はないだろう。ヨルンは、自分の師にそんな思いをさせることが無かったことに、少しだけほっとしていた。

 そして彼は再び母を、師を思った。彼らの死を思った。やはりあの〈けもの〉は殺さねばならない。そう、殺さねばならない……何があろうとも。だがしかし……。

 そこで突然の足音に振り返ったヨルンの目に映ったのは、うつろな表情をした〈銀のけもの〉であった。

 ヨルンは言った。

 

「何の用……」

 

 だが〈銀のけもの〉は何も答えることなく雄叫びをあげながらヨルンを組み敷かんと襲い掛かってきた。その背からは銀色の触手が何本も飛び出し、それは狼の身体をしたヨルンに絡みつかんとしていた。狼狽したヨルンは言った。

 

「貴様! 何のつもりだ! 何をしている!」

 

 そしてヨルンは〈銀のけもの〉の瞳の中に、混沌とした原始の獣欲を見た。その顔つきに知性は存在していなかった。やせ衰えたはずの顔には煮えたぎるようなぎらぎらとした興奮だけが張り付いており、感情の感じられない機械的な昆虫めいた動きはヨルンに恐怖を与えた。

〈銀のけもの〉の口から飛んだ唾が、ヨルンの顔へとかかった。

 ヨルンは叫び声をあげると、前足で〈銀のけもの〉の顔面を強烈に蹴り飛ばし、飛び退き、距離を取り、そして身構えた。

 しばらく気絶したようにうずくまっていた〈銀のけもの〉は、ようやく顔をあげた。そこには再び疲れ果てた男の顔があった。背中の触手はいつの間にか萎びて崩れ去っていた。

〈銀のけもの〉とヨルンはしばらくの間見つめ合っていた。〈銀のけもの〉は怯えたような目で、ヨルンは警戒の目でお互いを見ていた。

 二人の間を風が吹く。そして〈銀のけもの〉はヨルンに背を向けると、すまない、すまないと何度もつぶやきながら、元来た方向へと去っていったのであった。

 

 ◆

 

 ヨルンは眠った。眠り、眠り、眠り続け、そして目覚めた。そして力強い足取りで、〈銀のけもの〉の元を訪れた。ヨルンの姿を見た〈銀のけもの〉は、自嘲の笑みを浮かべて言った。

 

「あれがおれだ。あれこそが〈けもの〉だ。あれこそが」

 

 ヨルンは言葉を返さなかった。〈けもの〉は続けて言った。

 

「ひとたび〈けもの〉に支配されれば……わかるだろう。満足するまでやめることはない。何かで気を失わされでもしない限り、何があろうともな。く、く、く。惨めなものだぞ、”覚めてから”の自分を見るのはな」

「……」

「おれが死んだあと、お前はああいうものになるのだ。死ぬに死ねず、いつ自らのうちから襲いくるかもわからぬ〈けもの〉に怯えながら生きることになる。く、く、く、く、く。さあ。もう一度聞くぞ、次なる狼よ。お前に覚悟は……」

 

 その時既にヨルンの牙は〈銀のけもの〉の腹を食い破っていた。〈けもの〉は喘ぎながら言った。

 

「は、は、は、は、は。見事だ、ヨルン、よくやったぞ、ヨルン! ありがとう、ありがとう。おお、これこそが。おお、死が見える! 解放の時がやってくるぞ。やっとおれは解放されるのだ、この苦役から! おれはずっと待っていたんだ、この時を! は、は、は、は、は」

 

〈けもの〉は口の端から数列を垂れ流しながら続けて言った。

 

「すまないな、すまないなヨルン、おれにはこんなことしか言えない。だが感謝する。〈けもの〉を殺すことは〈けもの〉にしか出来ないのだ。おれはずっと待っていた、この時を。お前も耐えられなくなったら、子を作れ。そして探せ。お前を殺すことの出来る次なる狼をな」

「いいや」

 

 ヨルンははっきりと言った。

 

「私はそなたのようにはならない。私は私の中の獣性を操ってみせる。私にはそれが出来ると、信じている」

「は、は、は、は、は」

 

 もはや消えかけた〈けもの〉の声が、世界のどこかから聞こえてきていた。

 

「大した自信だ。せいぜい頑張ってみるがいい、ヨルン。せいぜい試してみるがいい、〈銀のけもの〉よ! は、は、は、は、は! は、は、は、は、は! お前にならきっと出来るだろう! は、は、は、は、は!」

 

 こうして〈銀のけもの〉は、次なる狼の手によって滅んだのであった。

 

 ◆

 

 ヨルンを包む〈銀の根〉が〈銀のけもの〉をも包み込んでから数時間後。日は暮れ、玉座の広間を闇が包んだころ、ズートの脳裏に響いたのは〈精霊ケク=ナール〉の悲惨な叫び声であった。ズートは言った。

 

「どうした、〈ケク=ナール〉! 答えろ、男爵よ!」

「男爵はもういない」

 

〈銀の根〉の繭から聞こえてきたその声に、ズートは恐怖した。声は続けて言った。

 

「あの醜い精霊は殺した。あのようなもの、私の下僕にするには低俗すぎる」

 

 黒ずんだ〈銀の根〉の繭は端からぼろぼろと崩れ始めていた。繭に開いた穴からズートを見つめるのは二つの青い瞳。それは彼らの父なる〈銀のけもの〉と同じ色をしていたが、だがそれは彼らの父の瞳ではなかった。

 声は続けて言った。

 

「そなた、ズートと言ったな」

「は、はい」

 

 ズートはその声に怯えとかすかな喜びをもって答えた。声は続けて言った。

 

「しばらくそこで待っていろ。そなたに命じることがある」

 

 そして繭が崩れ去った。中から現れたのは青い瞳をした〈呪われしヨルン〉の姿であった。腹を引き裂かれて死んだ一つ目の狼の内臓を口にくわえた、銀色の血に塗れた一糸まとわぬその姿は、まるで今しがたその腹から産まれ出たばかりのように見えた。

 その姿を見たズートは、直感で理解した。これが〈銀のけもの〉だ。我らの新しい〈けもの〉なのだ。なんと美しいことだろう。なんと美しいことだろう! ああ、このような〈けもの〉の元、我らが新しい時代を生きることが出来るとは、なんという幸せなのだろう! 思わず感極まりながら、ズートはそう思った。

 ヨルンは言った。

 

「そなた。悪いが何か服を持ってきてくれないか」

「お、仰せのままに、我らが〈けもの〉よ」

「すまんな、ズートよ」

 

 そしてヨルンは思い出したように付け加えた。

 

「ああ、それと服を持ってきてくれたらな。その後、そなた、死んでくれ。私はそなたのことが心底嫌いだ。自らの手で腹の皮を引き裂き、はらわたを引きずり出して、それを順番に並べていけ。そのようにして自害するのだ。わかったな」

 

 ズートは喜んでそれに従った。

〈銀のけもの〉は玉座に座ったまま、つまらなそうにその死体を眺めていた。


「ヨルン」

 

 そしてその時玉座広間に現れたのは、一人の〈達人〉であった。ヨルンは、その男を見て、かつて共に戦ったある友人を思い出した。その名はカンイーと言った。

 ヨルンの青い二つの瞳は、この男のことをじっと見据えていた。夜明けにはまだ遠かった。

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