銀の〈城〉

 今のダチェル城には、かつて誇ったあの石造りの威容はもはや存在していなかった。時折脈打つ〈銀の根〉が、細い蔦のように、太い縄のように絡みつくその様は、ダチェルの街の完全な敗北と屈服とを余すことなく完璧に表現していた。今この場を支配する〈銀の軍勢〉は、ただ単にこの場所のことを〈城〉とだけ呼んでいた。

〈銀の守護者〉のうちの一人であるズートは──彼はかつて存在したダチェル市民からは〈蜘蛛男〉と呼ばれていた──いつもの朝のごとく、彼らの父である〈銀のけもの〉の様子を確かめるために、〈城〉の玉座の広間へと向かった。〈銀のけもの〉は繭のようなやわらかな〈銀の根〉に包まれたままのヨルンをその懐に抱いて、横倒しにした玉座を枕にゆったりと横たわっていた。

 広間へと入ってきたズートに気づいた〈けもの〉が、顔の中心にあるその一つしかない瞳で彼を見やる。ズートは一礼すると、黒く丸い胴体から生やした〈銀の根〉を巧みに操って〈けもの〉の元へと歩み寄り、ヨルンを包む〈銀の根〉をその何本もの手で撫でた。愛おしげに。

〈呪われしヨルン〉。次なる狼。ダチェルでの戦いの最中、この〈忌み子のヨルン〉が、彼らの次なる指導者であることがわかったのは、何の運命の采配だったのであろうか? ズートはあの戦い以来、ずっとそのことを一人考えていた。次第に彼は、これまでの人生は、全てあの瞬間のためだけにあったのだ、とまで考えるようになっていた。

〈銀のけもの〉の子が産まれたとき、それを喜ぶ親は〈魔人〉以外にいない。ズートの母も例外ではなかった。幼い頃人里離れた山間の森に迷い込んで以来絶えず聞こえる〈声〉に突き動かされ、〈銀のけもの〉を追うことだけにその人生を費やした彼の母親は、望み通りに──〈声〉に唆された彼女がそれを本当に望んでいたかどうかは定かではないが──〈けもの〉の子を孕み、産んだ。彼女にとっての不幸は、まさに〈けもの〉の子を産んだその瞬間に、彼女をこれまで操ってきた〈声〉から突き放されるように解き放たれてしまったことだった。自らのこれまでの人生の有り様を認識し、そしてたった今自分の身体から産まれたその集大成をその目で見た彼女は、間を置かずして崖から身を投げて自殺した。彼女の産んだ〈銀のけもの〉の子は、到底尋常の精神に耐えられる外見をしていなかったこともその原因だった。

 そして〈声〉は、その主である盲目の男爵〈精霊ケク=ナール〉と共に、母から子へと受け継がれたのであった。〈ケク=ナール〉は焦がれていた。自分の〈声〉を聞くだけでなく、自分と交流できる存在に出会うことを。そうでなければ、いつか自分の存在が消えてしまうことがわかっていた。他者との交流こそが、彼の存在理由だった。

 ズートは母の死の真相を〈ケク=ナール〉から聞かされても、少しも動揺することはなかった。母の胎内にいた頃から〈ケク=ナール〉の〈声〉を聞いていたズートは、その中にいることを認識していながらも、そもそも自らの母を自分と同じ生物とは考えていなかった。彼は生まれながらにして、自分のことをはっきりと、〈銀のけもの〉の子であるのだと認識していた。

 そして彼は〈銀の守護者〉として、〈銀のけもの〉に付き従い生きてきたのであった。彼の父親を狙う敵は多かった。各都市の〈けもの狩り〉。あの忌々しい〈ギョウェンの瞳〉。どこから噂を聞きつけたのか、大陸に侵入してまで現れた〈南限〉の蛮族どもに付け狙われたこともあった。

 だが全てを撃退した。〈銀の守護者〉たちは多くを望んではいなかった。ただ、父である〈銀のけもの〉を守り、そして彼に、彼の”したいこと”をさせる。それだけが目的だった。

 その結果として、時折どこそこの婦女子が犯されることになるだろうが──何の問題があるのか? 彼にとっては、何故彼の父親が人間どもにこうまで命を狙われるのかが、少しもわからなかった。

〈銀のけもの〉の寿命が近づいていることに気づいたのは、つい最近のことであった。〈銀のけもの〉は彼らの父親であり、そして精神的な支柱でもある。次なる狼を早急に見つける必要があった。そのためにダチェルを襲った。ダチェルで見つからなければ、山を下りブルトを。そこでも見つからなければ、次の街を。そしてそのまた次の街を。いつかどこかで彼らの父親が産み落とさせたであろう次なる狼を見つけるまで、彼らは徹底的にやるつもりだった。

 ズートは眼窩から生えたその複数の瞳で、眠れるヨルンを見つめた。彼は日が暮れるまで、一日をこうして過ごす。そして〈銀のけもの〉の寿命の訪れを、それに伴うヨルンの目覚めを、彼らの新しい時代の幕開けを待っているのであった。

 

 ◆


「そこまでである。話をしようではないか」

 

 星の無い空の下、無限の大地を駆け抜け続ける銀色の狼の前に、突如盲目の男爵が現れた。その口髭の下には三日月型の笑みが常に浮かんでおり、その長い眉毛の下には何かにえぐられたような、虚無で出来た畝があった。男爵は不満げに唸る狼を制しながら続けて言った。

 

「余の名は〈ケク=ナール〉。そうとも。貴君をここに閉じ込めたのは余の力によるものである。さぞやお怒りのことだろうな、ヨルン殿?」

「貴公。それがわかっていながらこの私の前に姿を現すとは、いい度胸をしているな」

「おお恐ろしい。試してみるか?」

「忌々しい。結構だ」

 

 ヨルンは苦虫を噛み潰したような顔でそう答えた。〈ケク=ナール〉によりこの空間が支配されていることは、この男爵と相対した瞬間にわかっていた。それは彼の生殺与奪の権利が既に相手に握られていることを意味していた。

〈ケク=ナール〉は満足げにヨルンの顔を覗き込むと、続けて言った。

 

「賢明なことである。余は満足している」

「話とはなんだ」

「”話”の定義の話をしたいのであるか?」

「何だ? 何を言っている。そなたが言ったことだぞ」

 

 ヨルンは困惑しながら言った。

 

「おお、おお、そうであったな。話である。話である。余は話がしたい。次なる狼と話がしたい。余は貴君に興味があるのだ」

「私はそなたに興味はない」

「貴君は私に興味がないのであるな。貴君についての要素が一つ増えた。余は貴君に感謝する」

「そなた、一体なんなのだ」

「余は精霊〈ケク=ナール〉。今は〈銀の守護者〉ズートと共にある。会話こそが我が望み」

「ズート」

 

 その名を聞いた瞬間、ヨルンの内側に煮えたぎるような怒りが沸き起こった。

 

「ズート。ズート。あの男。殺しても足りん。醜い〈蜘蛛男〉め」

 

 ヨルンは足を踏み鳴らすと、隔離空間全体を震わせるほどの激昂の叫び声をあげた。

 

「この私を、我が父君を、母君を侮辱しおって! 許さん! 許さんぞズートよ! どうしてくれようか。どうしてくれようか、あの〈蜘蛛男〉!」

「貴君は我が友を憎んでいるのであるな。それは彼が貴君及び貴君の両親を侮辱したからで間違いないか」

 

 ヨルンは男爵を睨みつけると言った。

 

「その通りだ。付け加えれば、そなたのことも憎んでいる。できるものなら今すぐ八つ裂きにしてやりたい。いかれ男爵め」

「しかし、確認したいのであるが、貴君の父親は〈銀のけもの〉ではないか?」

「いいか。我が父はオートラン王国第二十代国王ウールンであり、我が母はその妻ベイトだ。私の両親はこの二人だけだ。二度と間違えるな」

「しかし、貴君は〈銀のけもの〉を自らの父親であるという理由で憎んでいるのであるな。ふむ。歪んだ二重思考である。おお、おいたわしや、おいたわしや、次なる狼殿よ。おっと。紳士的な話し合いの最中であるぞ。そう牙を剥くものではない」

 

 ヨルンは〈ケク=ナール〉を無視して歩き出した。だが〈ケク=ナール〉の姿は、視界の中心に張り付いているかのように、ヨルンの眼前から動くことはなかった。

 

「どこへ行こうというのか、ヨルン殿?」

「そなたのいない場所へだ」

「それは無理なことである。貴君は我がうちにあるからにして」

 

 笑う男爵は少し考え込むと、再び口を開いた。

 

「しかし貴君は今大変に怒っておるな。これでは会話にならぬ。何か貴君を喜ばせるものが必要であろう」

 

〈ケク=ナール〉が右手の人差し指を振ると、少し先に苔むした石造りの扉が生み出された。〈ケク=ナール〉は言った。

 

「あの先へ行ってみよ。面白いものが待っていることであろう」

「何のつもりだ」

「きっと貴君は喜んでくれるはずだ。もしかしたら余のこの行動に我が友は怒るかもしれないが──」

 

〈ケク=ナール〉はその笑みをより大きくさせると言った。

 

「余は彼の下僕というわけではない。このことは覚えておいていただきたい。余は余の面白いと思ったことを行う。きっと面白い会話が見れることであろうと、余は期待している。ぜひ余の期待に応えてほしい。余はそう願っている」

 

 ヨルンは横目で〈ケク=ナール〉を睨むと、歩みを止めた。だがしかし、結局はため息を一つつくと、鼻先で扉を押し開け、その奥へと進んで行ったのであった。

 扉の奥には、銀色の浜辺と、赤色の海、そして星のない淀んだ夜空が広がっていた。

 ヨルンは浜辺に横たわるものを見て息を呑んだ。そこには、一人のみすぼらしい男が、流木を枕にして横たわっていた。

 その男には目が一つしかなかった。その男が〈銀のけもの〉であることを、ヨルンは出会った瞬間に悟ったのであった。

 

 ◆

 

「何をしている、〈ケク=ナール〉」

 

 ズートは目を見開いてそう呟いた。彼に帰ってきたのは男爵のひどく歪んだ笑い声だけだった。

 ズートの目の前で、ヨルンを包む〈銀の根〉はその触手を伸ばし、〈銀のけもの〉をも包み込まんとしていた。

 日は既に傾きかけており、広間には夕陽が差していた。世界に夜が近づいていた。

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