陰りゆく大陸 -2

 夜。〈赤の森〉まではいまだ遠かった。カンイーには今すぐにでも、馬が、生きている馬が必要だった。そしてその馬小屋には一匹の馬がいた。

 忍び寄るカンイーに気づいた馬が不安げに顔を向ける。カンイーは極力静かに近づくと、懐からあるだけの銀貨を取り出し、それをそっと馬小屋の入り口に置いた。偽善者であろうとも盗人になるつもりはなかったカンイーは、ただそうしたのだった。


「おい、おい、おとなしくしていてくれよ。頼むから」


 マスクを下ろし、そう馬に小さく声をかけたカンイーは、そこで初めてあたりに漂う臭気に気づいた。血の匂いだった。

 その時雲間から差した月明かりが、馬小屋の奥を無遠慮に照らし出す。そこにあるものを見てカンイーは凍りついた。そこには、丁寧に解体され、そして全く別のかたちに再構築された幼い少女の死体があった。荒縄で胴体に縛り付けられた切断された四肢が肩の上から乱雑に突き出しているその様はまるで、人間の体を使って作られた、あの〈銀の眷属〉の下手糞な模造品のようであった。

 カンイーは、この忌まわしき光景からどうしても目を離すことができなかった。この有様に彼の魂は囚えられていた。


「何かご入用ですか」


 そこへそう言って現れたのは、血まみれの包丁を片手に持ったうつろな目をした痩せ男である。カンイーは素早くその男の首筋を打撃して失神させると、その男の住処と思わしき、近くに建っているあばら家へと向かった。そしてその中で、男の、女の、少年の、少女の、老人の、いくつもの”眷属の模造品”を見つけた。

 カンイーはしばらくそこで佇んでいた。そしてまるで博物館でも見学するかのように、脱力した姿勢でゆったりと歩き出すと、ひとつひとつの”模造品”を、極めて無関心な表情でゆっくりと順番に眺めていった。

 そして鑑賞を終えた彼は、そのあばら家を出て、横たわったままの男の元へふらりと戻ると、無言でその首を踏み折って殺した。そしてあたりに火を放ち、馬に乗ってそこを経った。彼はすべてを燃やし尽くした。あとには何も残らなかった。あとには何も残さなかった。

 カンイーはただ先へ進んだ。何も考えずに進んだ。寝食を忘れ、一心不乱に道を急いだ。

 疲労が限界に来たところで、馬からくず折れるように降り立った彼は、あの光景を思い出し、そして岩場の陰で嘔吐した。そしてそのまま、気を失うようにして深い眠りについたのだった。

 不運なカンイーが遭遇したのは、〈銀の軍勢〉の行軍を、その無慈悲な殺戮を目撃し、そして正気を喪失してしまったものが引き起こしたもののうちの一例であった。彼らの侵略が始まってからは、ドエ大陸のあちこちで、このような猟奇的な事件が散発していた。

 世界は徐々に狂い始めていた。


    ◆


 男の故郷は〈赤の森〉だった。男は生まれたときから〈男〉であり、最初の記憶は〈産木〉の中から樹液と樹皮越しに歪んで見えた、また別の〈男〉の顔だった。

〈産木〉から生まれ落ちてすぐ、〈森の賢者〉の元へ運ばれた〈男〉は、そこで見せられた鏡で初めて自分の顔を、姿を知った。

 鋭い瞳に細く高い鼻、秀でた頬骨に狭い顎からは、自らの顔ながら、ひどく酷薄な印象を受け取った。

 小柄ながらもしっかりとした体格からは、自らの身体ながら、凶暴で強健な印象を受け取った。

 そしてこの顔と身体は、自分の周囲を取り囲む何人もの〈男〉達と全く同じなのだということを知った。

〈森の賢者〉は年老いた貧相な女だった。大きな黒い麻のローブを着てはいても、その枯れ枝のように細い身体は隠せそうになかった。彼女は杖をつきながら、小さな黒い目で彼のことを見つめた。隅々まで見つめた。

〈男〉は本能的に感じ取った。おれはこの女を護らなければならないのだ、と。命続く限り。

〈男〉の仕上がりに満足した〈賢者〉は杖で二度地面を叩くと、森の中のどこかへと去って行く。〈赤の森〉を支配する精霊〈永遠のジハ〉はこれを見届けると、新たな製品の誕生を祝い、黄金色の木の葉の嵐を〈赤の森〉中に舞わせ続けた。

 この木の葉の嵐は、〈男〉が見た人生で最初の美しいものだった。

 それからというもの、〈男〉は世界の各地を、〈森の賢者〉に言われるがまま、他の〈男〉達と群れを組んで、ひたすらに戦って過ごした。〈男〉達は、彼らを呼んだ顧客には〈達人〉と呼ばれていた。

 ある時はムレン海岸へ上陸せんとする〈群島四王国〉のうちの一つ〈暴風のケレザン〉の水兵団を撃退するべく、三十日間にも及んだドエ大陸防衛戦へ二十九人の〈達人〉達と共に加わった。

 ある時は〈北限〉の先代〈沈黙王〉に請われ、彼が指揮する〈無音の旅人〉達と四十九人の〈達人〉達とともに、ドエ大陸の各都市を襲撃し、略奪し、無目的に市民を殺して回った。この侵略には意味は無かった。死に瀕し狂った先代〈沈黙王〉の暴挙だったのだと人は言うが、真実は死んだ王しか知らない。

〈達人〉達は何も主張することはなかった。ただ〈森の賢者〉に言われるがまま、戦力としての自らの力を示し続けたのであった。

 彼の人生は空虚なものであったかもしれない。だが彼の中には、いつでもあの木の葉の嵐が渦巻いていた。その美しさこそが、彼を強く活かし続けていたのであった。

 彼は他の〈達人〉に、彼らの裡にもあの美しい嵐が舞い続けているのだろうかと聞いたことはなかったが、きっと彼らも同じ気持ちなのだろうと信じていたし、そしてそれは事実だった。実際のところそれこそが、〈永遠のジハ〉の作り上げた極めて効率的な品質管理の肝要なのであった。

 だが彼らの中に舞う木の葉の嵐に、ここのところ異物が混じり始めていた。それは鈍い銀色の、重たい、醜い音を立てる雨だった。

 何をしていても、そこかしこで見かけるようになった、あの銀の根が張った死体達が、その雨を降らせるようになっていた。

〈銀の軍勢〉の存在については〈賢者〉から聞いていた。〈賢者〉が言うには、それはかつてこの大陸を支配した文明の残滓であり、拭い去られるべき汚染ではあったが、それは我らの役目ではなく、忌まわしいあの同族同士が片をつけるべき問題なのだ、とのことだった。

 それにどうせあの〈銀〉どもは金なんて持ってないだろうし、とも付け加えた。金こそは〈森の賢者〉の行動原理だった。

 ある日のことである、ちょっとした抗争に肩入れをし──もちろん多く金を出したほうだ──、そして相手を皆殺しにした──もちろん金を出せなかったほうだ──〈男〉達は、〈銀の眷属〉の奇襲に遭った。地下水脈に繋がる井戸から溢れ出るように現れた大量の〈磯巾着〉達は、〈達人〉の一人を背後から拘束し、飲み込み、溶解し、殺した。その〈達人〉は悲鳴を上げる間もなく死に、その死体は新たな〈銀の眷属〉を生み出しつつあった。

 その光景を見た〈達人〉達は、これまでにない衝撃を受けた。木の葉の嵐がざわめいた。〈達人〉達は、自分と同じ顔をしたこの仲間達は敵を殺し、そして敵に殺されるものだと知っていた。それは当然のことだとわかっていた。だがこの死に方は違う。この殺され方は違う。

 彼らの心の中に銀色の大雨が降った。それは彼らの美しい木の葉の嵐を強く打ち据える。

 彼らはすぐに行動を開始した。被害を受けたのなら、完璧な報復を。いつも通りの行動だった。行動を取ること自体には苦は無かった。だが彼らの心はあの雨に耐えられなかった。木の葉の嵐はあまりにも脆弱だった。彼らはこのまま生きていくことはできるだろう。殺し殺され続けることができるだろう。だがそれはもはやこれまでとは同じ生ではないはずだった。彼らには、何か、何か新しいものが必要だった。

 そこへ馬に乗って飛び込んできたのは片腕のない小男だった。小男は残っている腕に持った黒い何かから鋭い火花を撒き散らしながら、支離滅裂な怒りの吠え声を撒き散らしながら、〈銀の眷属〉の群れに飛びかかっていった。

 その時黄金の木の葉の嵐に、小さな怒りの炎が灯った。それは彼らが初めて感じるものだった。

 それが彼らの変化のときだった。


        ◆


〈銀の眷属〉の残骸がいくつも散らばる荒野の中で、幾人もの仲間を失った〈達人〉達は、それでも最後に立っていた。片腕のない小男と共に。

 小男はマスクを下ろすと、鼻のない顔で言った。


「〈森の賢者〉の元へ案内しろ。お前ら、知ってるんだろ? な?」


〈達人〉達は黙って頷くと、青白い顔をした〈夜のカンイー〉とその馬を、〈赤の森〉へと連れて行った。

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