ダチェルにて -2/2

 城外のバリケードに上がったヨルンは、そこで初めて〈蜘蛛男〉の姿を目の当たりにした。その〈銀の守護者〉は奇妙に丸くつややかな黒色の胴体をしており、いくつもの手足とひとつの頭がそこから伸びた長い〈銀の根〉に繋がれていた。そのうつろな眼窩の奥底からもまた何本もの細い〈銀の根〉が伸びており、先端に生えた瞳がダチェル城の様子を油断なく伺っていた。それはもはや人には見えず、だがしかし間違いなく人であった。ヨルンに気づいた〈蜘蛛男〉は頭部から髭のように生やした〈銀の根〉を蠢かせながら甲高い声で言った。


「ああ! これはもしや貴公、かの高名な〈銀の右手のヨルン〉殿ではないのか?」

「いかにも。そう言うそなたは何者か」


〈蜘蛛男〉は微笑むと言った。


「恐れながら私、〈銀の守護者〉のズートと申す。先日は、我らが仲間のンガイが世話になったようで」

「ああ、何かそんなような名前の男がいたな。礼儀をわきまえぬ男であったが。はて彼の人は、今頃どこで何をしていることやら」

「ははははは」

「ハハハハハ」

「冗談はよしていただこうか、ヨルン殿。ンガイの行く末は知っている。なんと残酷なことか。貴公、人の情というものを持ち合わせぬ悪鬼としか言いようがないな」

「人の情だと?」


 ヨルンは足を踏み鳴らすと言葉を続けた。


「この有様を見てその口ぶりか。そなたら、何の理屈があってこのような蛮行に至る。言ってみせよ。納得できる理由があるのなら、法の名の下に裁いてやるのもやぶさかではない」

「理由。理由か」


〈魔人ズート〉はその複数の目をヨルンに寄せると言った。


「父の命だ。我らが父の命令だ」

「何」

「よいか。我らが父は欲している。その生命尽きる前に、次なる〈狼〉を探さんとしている。そのためには手勢が必要だ。だからこの街を襲った。それが理由だ。納得したか」


〈狼〉。その言葉はヨルンを動揺させた。次なる〈狼〉? ズートは言葉を続けた。


「まずはダチェルだ。そしてこのドエ大陸に生きる全ての生物を総ざらいする。いずれは〈狼〉が見つかることだろう。次なる〈銀のけもの〉が見つかることであろう。我らはその時まで、我らが父を、その生命を守護するものである。貴公も我らが父の子供であろう? なぜ協力せぬ? 我らが父のことを、大いなる〈銀のけもの〉のことを、愛おしいとは思わないのか?」


 ヨルンは強いて気を落ち着かせると言葉を返した。


「父上はここに来ているのか」

「来ているとも! 我らが父はすぐそこにいる。貴公のことを知らせれば、喜んで会いたいと言うだろう。〈銀の右手のヨルン〉よ、我が弟よ!」

「私も……私も是非会いたいものだ。我が父上にな」

「ははははは」


 ズートは〈銀の根〉からいくつもの口を新たに生やすと、それら全てで笑いながら言った。


「ははははは。貴公、一体何を耐えているのだ? 会話を続けていれば私から何か引き出せるとでも? それとも時間稼ぎのつもりか? ははははは。哀れなヨルンよ、〈忌み子のヨルン〉よ、この不出来な子は一体何をしたいのかな?」

「黙れ!」


 ヨルンはエストックでズートの瞳を一つ潰した。それが合図となり、周囲を囲んでいた〈銀の眷属〉がバリケードに押し寄せる。ヨルンは背面跳びでバリケードから飛び降りると兵達に城内へ避難するよう指示をした。健気なバリケードはそれを待っていたかのように崩壊する。城へと続く跳ね橋を背にしたヨルンは、押し寄せる〈銀の眷属〉へ、そしてその向こうに見えるズートへ向けて、大声で叫んだ。


「わたしの父はただ一人。我が父はオートラン王国第二十代国王ウールンであり、我が母はその妻ベイトである! わたしはそなたたちとは違う! わたしは人間だ! わたしは、このヨルンは、ただ一人の人間だ!」


 それを聞いた〈銀の眷属〉の集団はズートの声で一斉にひび割れた笑い声を返した。それは人外の嘲笑であった。ズートは〈銀の眷属〉の口を借りて言った。


「貴公、その〈右手〉が既に『この私は嘘をついています』と叫んでおるわ、笑えることよ、なんと笑えることよ。その父上様が貴公に一体何をした? ははははは。知っておるぞ、知っておるぞ、聞いておるぞ、見ておるぞ。幼き頃の塔での暮らしは、さぞや寂しかったことだろう?」


 激昂の絶叫を上げたヨルンはその〈右手〉を、銀色に輝く細い〈指〉を足元の〈銀の根〉へ突き刺した。時が止まる。街中に根を張る〈銀〉とつながったヨルンは〈無限の地平〉へと飛翔し銀色の狼と化した。

〈無限の地平〉における〈銀の眷属〉は手足が胴体からちぐはぐに飛び出している奇怪な〈肉人形〉であった。銀の狼は思考の速度で次々と蠢く〈肉人形〉の腹を食い破っていく。銀色の返り血を全身に浴びて狼は吠えた。猛った。憤怒を叫んだ。狼が一歩踏み出すごとに、まるでその怒りに怯えているかのように〈無限の地平〉の大地は、夜空は震えた。

 そして銀色の狼は足を止め訝しんだ。ズートはどこだ。この私を侮辱したズートはどこにいる。臭いを嗅ぎ、耳を立てる。ズートの気配は感じられなかった。今狼が〈無限の地平〉で感じられるのは、無数の〈銀の眷属〉と、星一つない夜空、そして自分自身だけだった。

 星一つない夜空だと。

 狼はその全身の毛を逆立てた。何かがおかしい。星は〈たましい〉。これほどの人が集まっているのに、空に星が見えないわけがない。

 銀色の狼は夜空を見上げる。その空に無数の瞳が開いた。そして夜空は、狼を、ヨルンの〈たましい〉を中心にして、光の速度で収縮した。


                  ◆


〈銀の根〉へ〈右手〉を突き刺したままの姿勢で固まっているヨルンの脇を何匹もの〈銀の眷属〉が通り過ぎていく。ズートはかがみ込むと、そっとヨルンの頬に触れた。

〈ケク=ナール〉は現実に関与する力を持たない特殊な精霊である。ズートが産まれた頃から共にある笑う盲目の男爵の姿を持つこの精霊は、〈無限の地平〉の任意の一領域を隔離することができる。隔離空間へ閉じ込められた〈たましい〉は〈ケク=ナール〉の手の元に捕らえられ、〈たましい〉とのつながりを断たれた身体は沈黙する。

 ズートはンガイがヨルンに始末されたとの情報を掴んでから、ヨルンを重大なる脅威とみなし、そしてもしヨルンがダチェルへ来るようなことがあれば、〈ケク=ナール〉の罠によりその〈たましい〉を抹殺せんと目論んでいた。

 だがしかし、もはやズートの瞳には殺意は宿っていなかった。

 ズートは震える声で呟いた。ヨルンよ。〈呪われしヨルン〉よ。貴公が〈狼〉であったのか。貴公が次なる〈けもの〉であったのか。歓迎しよう、気高い〈狼〉よ、受け入れよう、愛しい〈けもの〉よ。貴公のその〈たましい〉の元で、我らの銀色はより美しく輝き続けることであろう。ズートは〈魔人ヨルン〉を〈銀の根〉で包み込むと、その背に優しく載せ、そしてダチェル城をぼんやりと眺めた。

 跳ね橋は無数の〈銀の眷属〉の重みで上がらない。そして城内から聞こえるのは悲鳴だけだった。


                  ◆


「どういうことだ」


 カンイーは額から汗を流しながら、銃眼から跳ね橋の様子を眺めていた。ヨルンが〈右手〉を〈銀の根〉に突き刺した途端周囲の〈磯巾着〉が何体か爆発した。だがそれだけだ。〈磯巾着〉どもは次から次へとやってくるし、おまけにヨルンが攫われてしまった。これは。まずいぞ。まずいことになった。

 背後を振り返る。領主を先頭にして、市民達は城の隠し出口から避難を開始していた。だが遅い。遅すぎる。出口と通路に対してあまりにも避難民の人数が多すぎた。

 カンイーは懐から、〈ギョウェンの瞳〉より貸し出された〈武器〉を取り出した。秘匿番号三十九。つやの無い奇妙な黒い素材で作られた〈旧文明〉のその小さな〈武器〉は、通称〈雀蜂〉と呼ばれていた。


「クソ、クソ、クソ、クソ」


 どうにか退避までの時間を稼がねば。カンイーは〈銀の眷属〉を押しとどめている槍衾の隙間から、〈雀蜂〉を乱射した。

 カンイーが引き金を引く度に、炸裂音と共に〈雀蜂〉の先端から鉛の弾が猛烈な速度で飛んで行き、〈銀の眷属〉を貫通し、破裂させていく。カンイーは上司からのお達し通り几帳面に〈薬莢〉を回収する自分に苦笑した。こんな時まで秘匿、秘匿か。だかこれも世界の均衡のためだ。仕方がない。そしてカンイーは守備兵の生き残りに対して叫んだ。


「退け、退け! だが逃げるんじゃないぞ、あくまで退くんだ! 少しずつな! いいか、せめて、せめて半分は逃してやらないと、話になんてならねえじゃねえか! だろうがよ、畜生め!」


 そうだ、せめて半分は。だがそのカンイーの願いは叶うことはなかった。背後から聞こえる悲鳴にカンイーは背筋を凍らせる。その足元に転がってきたのは逃げさせたはずの領主の生首であった。

 振り返ったカンイーの眼前に立っているのは大柄な男であった。いや女であった。その両方であった。男と女の胴体を正中線で〈銀の根〉によりつなぎ合わせた身体の上には、男と女の二つの首が生えていた。その両手には一本ずつ大鉈が握られていた。

 振り下ろされる大鉈。咄嗟に飛び退いたカンイーの左腕が切り落とされた。カンイーは構わず〈雀蜂〉を撃ちまくりながら戦場を駆け抜ける。生き残らねば。これを伝えねば。カンイーの頭脳はそのことだけに集中していた。


                  ◆


 その全身を〈銀の根〉に蝕まれたダチェル城の広間では、〈守護者〉に囲まれて〈銀のけもの〉が眠っていた。その懐には、〈銀の根〉にくるまれた〈呪われしヨルン〉の姿があった。

 ダチェル城にはもはや生きている人間はどこにもいなかった。どこもかしこも死体だらけであり、そしてその死体からは次々に〈銀の眷属〉が生み出されていた。これが〈ダチェルの虐殺〉の顛末であった。

 そして〈銀の軍勢〉の行進が始まったのであった。

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