〈魔人ンガイ〉-2/2
夜闇を貫く銀色の矢。再び投擲されたンガイの短刀をヨルンは横っ飛びで躱した。銀の根が絡みつくそれがもし身体のどこかに突き刺されば、ただの刺し傷では済まないことは確かだろう。牽制にとヨルンも小石をいくつか掴み上げ投げ返す。だが全ての石粒はンガイの眼前で静止していた。ンガイの背から伸びた何本もの銀の根が投げつけられた小石を砂利一粒に至るまで捕らえているのだ。
「人に物を投げつけるなど! 不躾な弟だ。誰の教育だ?」
銀の根が脈打つと、ヨルンが投げた数倍の速度で石つぶてが飛来し、ヨルンの身体を打ち据えた。うずくまるヨルンに対してンガイがさらに言う。
「まだだ。まだ終わらんぞ。そうらよく見ろ……よく見るんだ……」
もはやンガイは自分の足を地につけていなかった。互いに絡みつき太い一本の束を形成した銀の根が彼の身体を支えているのだ。そして背中から触手のごとく伸びた無数の蠢く銀の根は、全てあの短刀を握っていた。
よろめきながら立ち上がったヨルンの背を何者かが蹴りつける。不意をつかれ受け身を取ることもできず倒れ伏したヨルンの背後には、全身を銀の根に蝕まれた馬の死体が立っていた。
「お前、よく見ろと言ったろう? 馬鹿な弟よ。無様なことだ」
腕組みしてその様を見下ろすンガイの声。ヨルンは再びンガイへ砂利を投げつけてから立ち上がると、脇の林の中へと一目散に駆け出した。
「逃げるか。まあ逃さんよ。〈銀の守護者〉の名にかけてな」
ンガイと銀の根の馬はその後を追っていった。
◆
〈魔人ンガイ〉の母親は〈魔女〉であった。その母親もまた〈魔女〉であった。彼らは代々〈銀の守護者〉であった。その血は代を重ねるごとにより濃くなる。ンガイは自らの系統に誇りを持っていた。〈魔人〉として、世俗から離れて闇の中を生きることも、誇りさえあれば苦では無かった。
だからこそ彼はヨルンの生き方に疑問を持っていた。なぜ人として生きているのか? なぜ自らの銀の血を誇らないのか? 〈銀のけもの〉を護るにせよ狩るにせよ、なぜ〈魔人〉としての生を送らないのか?
彼はヨルンがそのような教育を受けていないためなのだろうと思っていた。だから彼はヨルンに〈魔人〉としての自覚を教育を施してやるつもりだった。死の淵へ追い込んだうえで同じ銀の血が流れる兄としての自分に畏敬の念を植え付けさせ、ひいては〈銀の守護者〉へと導く。それを自らの使命だと感じていた。銀の血が流れるものとしての使命なのだと感じていた。
ンガイは銀の根を宙に彷徨わせ、ヨルンの気配を探った。その身体はもはや七割が銀の根に覆われていた。銀色の馬を共にして、ンガイの巨体は夜の森の中を進む。そしてぼそりと呟いた。
「ほお。やる」
木々は優雅で微妙な曲線を脱ぎ捨て不自然な角度といびつな直線にその身を任せる。草花は反復する複雑な幾何学模様の絨毯を大地に描き出す。樹皮や露出した地面のあちこちに銀色の〈根〉が見え始める。これは〈精霊〉の支配する〈魔境〉にンガイが近づきつつあることを意味していた。感心した様子でンガイは辺りを眺めた。不出来な弟ながら、〈精霊〉の操り方はわかっているようだな。彼はそう思った。
彼の背後でどさりと何かが倒れる音がした。そちらを振り返れば、木々から伸びた蠢く蔦によって銀の馬の身体から次々と根が剥ぎ取られている最中であり、〈交信〉の効力を失ったそれはただの力なき死体へと戻っていた。
ンガイは鼻を鳴らすと先へ進んだ。眼前に現れたのは、腐りかけた動物の死体に蔦を絡みつかせて蘇らせた〈死獣〉である。掘り起こされた白骨死体に無理やり蔦を纏わせて操っているものまでいた。ンガイは銀の根を鋭い鞭へと変化させた。
そして頭上から襲いかかってきたのは猿の〈死獣〉。ンガイは鞭の一撃でその首を薙ぎ払うと、降り掛かってくる腐った内臓を銀の根で防ぎながら、背後から迫る三匹の犬の〈死獣〉へ短刀をそれぞれ数度突き刺して撃退した。
滑空する鳥の〈死獣〉を鞭で払い除け、蛇の〈死獣〉を短刀で切り払い、制御を失った犬の〈死獣〉の身体を投げつけてまた別の〈死獣〉を始末する。
ンガイはひときわ太い銀の根を生成すると、それを鋭く鍛え上げ、猛烈な勢いで振り回した。犬の〈死獣〉が、猫の〈死獣〉が、狼の〈死獣〉が切り裂かれ、猛烈な腐乱臭が一面に漂った。
違和感を感じたンガイは足元を見やる。そこには無数の小動物の〈死獣〉が纏わりついており、ンガイの身体に絡みついた銀の根を齧り取ろうとしていた。
「ハッ。やらせんよ」
ンガイは銀の根の大部分を引き剥がすと宙返りで素早くそこから飛び退いた。残された銀の根は小動物の〈死獣〉を巻き込んで溶解していく。あたりを警戒しつつ再び銀の根を育て上げようとするンガイ。そこに迫るのは巨大な熊の〈死獣〉であった。熊の〈死獣〉は腐った目玉でンガイを睨みつけながら突進した。
「やる! やる! やりおるな、我が弟よ! ハハハハハ!」
ンガイは素早く〈死獣〉の懐に潜り込むと、絡みつく蔦ごとその腹を短刀で下から上へ大きく切り裂いた。制御を失い倒れ込む熊の〈死獣〉、だがその懐に潜んでいたのは〈呪われしヨルン〉であった。
ンガイとヨルンの目と目が合う。一呼吸の後、ヨルンはンガイの胸の中心に生えている銀の根の塊をエストックで貫いた。
◆
獲った。ヨルンはそう確信すると、ンガイの身体を蹴り飛ばした。身体の中心の銀の根を貫かれたのだ、その苦痛は自分の〈右手〉のそれの比べ物になるまい。ヨルンは身体から熊の内臓を払うと、倒れ伏すンガイに悠々と近づいた。そして飛び起きたンガイの両足に蹴り飛ばされ、その背中を木の幹で強打した。ンガイは首を傾げながら言った。
「惜しいな。なぜ銀の根など狙った? こんなところを突き刺しても何にもならんだろう。まさか余裕のつもりか? まあ、私の心の臓はそんな剣ごときでは貫けんがな」
「何……」
ヨルンは咳き込みながら続けて言った。
「銀の根を貫かれて痛みも何も無いだと……?」
それを聞いてンガイは眉をひそめた。
「どういうことだ? 痛みだと? まさかお前……」
ンガイは素早くヨルンとの距離を詰めると、ヨルンの〈右手〉を手袋の上から短刀で突き刺した。ヨルンはその痛みに絶叫し、苦悶した。
その様を見たンガイは後ずさると、困惑して言った。
「なんだと……? なぜお前が……」
ヨルンは相手の行動が理解出来なかった。だがしかしこれを逃して他に勝機はない。ヨルンは手袋を引きちぎると、短刀が突き刺さったままの〈右手〉をンガイへ向けて繰り出した。その短刀はンガイの左肩に突き刺さる。
そして彼らは〈無限の地平〉にいた。星星の瞬くくらやみの空の下、起伏の一切ないない真っ直ぐな水平線の世界には、一人の男と一匹の狼がいた。
ンガイは見た。彼の前に立つ、猛々しい銀色の狼を。それは〈父〉とは違い、無数の銀の根も生えておらず、瞳も二つあったが、だがそれは紛れもなく〈父〉と同じ、銀色の狼であった。彼の〈たましい〉は恐怖に震えた。彼の〈たましい〉は不条理に震えた。銀の狼だと。なぜだ。なぜなのだ。こんなことはあってはならない。こんなことはありえない。なぜこいつなのだ。こいつの〈たましい〉は一体どうなっているのだ。ンガイにはわからなかった。
銀色の狼は怒りの吠え声を上げた。ンガイは絶叫すると、加護を受けているありったけの精霊を呼び出した。〈ベスター〉。〈ハンニバル〉。〈ラスプーチン〉。〈トレメンダス〉。その負荷に〈無限の地平〉が歪みだす。強大な〈精霊〉の出現にンガイの存在が崩れかける。〈ベスター〉は燃えたぎる溶岩の巨人であった。〈ハンニバル〉は虚無の暗黒で形作られた闇色の巨人であった。〈ラスプーチン〉は無数の手を持つ明けの明星の色をした巨人であった。〈トレメンダス〉は全てを否定する無垢な純白の巨人であった。
銀色の狼は鼻を一つ鳴らす。そして大きく息を吸い込むと雄叫びを上げた。〈ベスター〉は、〈ハンニバル〉は、〈ラスプーチン〉は、〈トレメンダス〉は、その存在を拒絶され、無意味な言葉の羅列と化して消え去った。今この空間を支配しているのはこの銀色の狼なのであった。何者もその邪魔をすることは出来なかった。
焦燥したンガイは言った。
「待てヨルン。おれにはお前を殺す気は無かった。今日は本当にお前を〈銀の守護者〉として導こうとして」
怒れる狼はその声を唸り声で遮った。ンガイは構わず続けた。
「おれはお前のためを思ってこうして話しているんだ……だから年長者の言葉はよく聞いたほうがいいぞーッ!」
ンガイが隠していた精霊〈スレッシャー〉が狼の背後から襲いかかった。〈スレッシャー〉は数列をその裡に秘めた美しい虹色の巨人であった。だが〈スレッシャー〉の拳が狼に届くことはなかった。〈氷〉の防壁が狼を守っているのだ。案山子のくすくすと笑う声が、どこか遠くから〈無限の地平〉に聞こえてきた。
狼が〈スレッシャー〉を一睨みすると、虹色の巨人は消え去った。そして銀色の狼はヨルンの声で言った。
「私はお前を殺す。二度殺すつもりだ。必ずな」
ンガイは悲鳴をあげて銀色の狼へ殴りかかる。狼はそれを事も無げに躱すと、その爪でンガイの身体を引き裂いた。
ンガイの〈たましい〉は、言葉を撒き散らしながら〈無限の地平〉の彼方へと崩れ去っていった。
◆
ンガイは目を覚ます。そこは凍りつくように寒い、暗い闇の中であった。手足の感覚は無かった。ここはどこだ。ヨルンはどうなった。そうだ。ヨルン……。なぜ奴が〈狼〉なのだ……。混乱するンガイの脳裏に響くのは、ヨルンから残された伝言であった。
ンガイよ。残念ながら認めよう。わたしの負けだ。そなたを二度殺すことは出来なかった。〈無限の地平〉でそなたの〈たましい〉を切り裂くことは確かに出来た。だがその切れ端を寄せ集め、そなたを蘇生した後、二度目の死を与えようとしたが、わたしの剣はそなたの首を断ち切ることも、そなたの心臓を貫くことも出来なかった。どこを切りつけてもすぐさま銀の根がそれを塞ぎ、止血してしまう。大した護りだ。銀の根にそのような使い方があることは学びになった。今後に活かさせてもらうことにする。
その礼として、そなたには永遠の生を与えることにした。少し寒くはあるが、大したことではあるまい。そなたは年長者なのだからな。
良き余生を送りたまえ、兄上様よ。
ンガイは首を下げ自らの身体を見る。手足は断ち切られており、その断面は凍りついていた。銀の根を伸ばし手足の代わりとせんとする。だが極度の低温のためか、銀の根は成長することなく、片端から萎びていった。
ンガイは声なき絶叫を上げた。〈静かの森〉では、それを聞くものはどこにもいなかった。凍りついた涙は、流れることなくその瞳にとどまった。
◆
ヨルンは小川でその身を清めると、物思いに耽っていた。ひとり、〈魔女ルーウー〉のことを思っていた。
空を見上げる。夜は白みつつあった。身支度を整えたヨルンは、朝の空を飛ぶ小鳥の群れを、ぼんやりと眺めていた。
涼やかな朝だった。ヨルンは〈イール〉へ礼を言うと歩き出す。ダチェルまではあと少しだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます