〈魔人ンガイ〉-1/2

 メンデ村を発ち、フカ山脈を迂回したヨルンは、夜の拓けた草原を馬に乗り一人進んでいた。あたりに人家の灯りは見当たらなかった。今夜は野宿をするか、それとも夜通し行けるだけ行くか。彼は草の香りを感じながら、ぼんやりとそう考えていた。

 夜風が吹き抜け、木立が囁く。そういえば〈魔女ルーウー〉に出会ったのも、こんな涼しい夜だったと、彼は思い起こしていた。


                  ◆


 彼が〈魔女〉に出会ったのは、オートランを脱出してすぐのことだった。当て所無く夜の街道を彷徨っていた六歳のヨルンの前に木立の影から現れたのは、黒い髪を腰まで伸ばした細身の妖しくも美しい女だった。足首までをすっかりと隠す黒衣に身を包んだ彼女は、その名を〈魔女ルーウー〉だと告げた。ルーウーは言った。お前のことは、お前が生まれてから、いやその前からずっと見ていたのだ、と。

 怯えたヨルンはその場で身動きが取れずにいたが、ルーウーは優しく、怯える必要はない、わたしはお前を護るために来たのだ、と言った。

 ヨルンは彼女の両手が革手袋に包まれていることを発見した。ルーウーはそれに気づくとにっこりと笑い、両手の手袋を外して、そして手を振った。

 ルーウーの両手は、ヨルンの〈右手〉と同じ銀色をしていた。それはヨルンのそれに比べていくらか色あせてもいた。

 ヨルンはそれを見て初めて安心した。彼女は彼の同類なのだと確信した。そしてヨルンは差し出されたルーウーの左手をその〈右手〉で握ると、木立の影へと共に歩いていった。

 それ以来、オートランでヨルンを見かけたものはいなかった。


                  ◆


〈魔女〉の住処はオートランから少し離れた孤島にあった。険しい崖に囲まれたこの名も無き島には、ルーウーと数匹の猫以外誰も住んではいなかった。木々の生い茂る静かで小さな島だった。

 ヨルンは、〈魔女〉の小間使い、そして弟子として、彼女の庇護のもとこの島で長い時を過ごした。彼はルーウーから様々な物事を教わった。〈交信〉について。〈精霊〉について。世界について。〈無限の地平〉について。人と人について。そして彼らの父である、〈銀のけもの〉について。

 そしてヨルンは成長した。背が伸び、身体は逞しく、いつしか髭が生えるようになった。それでもルーウーは出会ったときから少しも見た目が変わらないように見えた。ある時ヨルンは尋ねた。なぜあなたはいつまでも若々しいままなのかと。ルーウーは少し笑うと手袋を外し、その手をひらひらと振って言った。


「年を取るところは、ちゃあんと取ってるんだよ。こう見えてもね」


 その手の銀色は、あの時よりも少し黒ずんでいた。彼女は続けて言った。


「あたしとあんたとじゃあ、血の濃さが違うんだよ。あんたはその〈右手〉だけが銀だろ。あたしはどこもかしこも銀色。人としての割合が少ないんだよ。まあ、そのお陰で、これだけ長生き出来てるんだろうね」


 彼女はそう言うと、憎々しげに付け加えた。


「〈奴〉は今どうしてるんだろうねえ。またどこぞで子供でも作ってるんだろうか。全く、忌々しいことだよねえ」


〈奴〉とは〈銀のけもの〉のことだった。ルーウーは普段、〈銀のけもの〉のことをそう呼んでいた。


                  ◆


 時折他の〈魔人〉や〈魔女〉が島を訪れ、彼女と情報交換をすることもあった。訪れる彼らの銀色の割合は様々であった。ひと目見ただけでは他の人間と区別のつかないもの。光り輝く銀色の髪の毛を持つもの。顔全体を仮面で隠しているもの。

 時折ルーウーは宙にその手を彷徨わせると、ひどく悲しげな顔をすることもあった。ヨルンが聞けば、〈銀のけもの〉に挑んだある〈魔女〉が死んだのだという。

 ルーウーは言った。


「あたしも一度〈奴〉に挑んだことがあってさ。他の〈魔人〉や〈魔女〉と徒党を組んで行ったんだが、まあ、てんで駄目だったね。歯が立たないってのはあの事さ」


 ルーウーはため息をつくと続けて言った。


「ヨルン、あんたは〈奴〉を狩ろうなんて、馬鹿なことは考えるんじゃないよ。〈奴〉のことは忘れるんだ。そして静かに生きていくのさ。いつか〈奴〉が寿命でくたばるまでね。そしたらお祝いしよう。静かにね」


 そう言うと暗く笑った。


                  ◆


 ヨルンが十八歳になったある日のことだった。ルーウーとヨルンはいつもの通り果物の朝食を取っていた。ルーウーは言った。


「あんたももうすっかり大人だねえ。ここに来た頃はこんなに小さかったのに」

「ルーウー師は、相変わらず変わりませんね」

「ハハハハハ。そりゃあまあね」


 ルーウーは空を見上げて言った。


「それにしてもいい天気だ。今日は良い日になりそうだね。本当にいい天気だよ」


 食卓の上に置かれたヨルンの〈右手〉の上に、ルーウーはそっとその黒ずんだ銀の左手を重ねた。そして優しく微笑むと言った。


「それじゃあね。元気にしてるんだよ」


 意識を取り戻したヨルンが気づいた時には、既に夜が訪れていた。傍らには見知らぬ〈魔人〉が立っていた。彼は言った。ルーウーが〈銀のけもの〉に倒されて死んだ、と。

 彼の脳裏にはルーウーからの伝言が残されていた。寿命が近い。自分はもう一週間もしないうちに死ぬことだろう。ああ、それでも諦めきれない。これほど長く生きていても、自分の死を悟った今でも、やはり諦めることは出来なかった。〈奴〉を殺すことを。〈銀のけもの〉を狩ることを。

 私は奴が憎い。私の友を殺した奴が憎い。私をこの運命に産み落とした奴が憎い。だから私は〈銀のけもの〉を狩りに行く。自分の運命に始末をつけに行く。

 お前の人生に幸あらんことを。私の教えを忘れないように。くれぐれも、馬鹿なことは考えるなよ。

 ヨルンの慟哭は、はるかオートランまで聞こえんばかりだった。


                  ◆


 彼を止めようとする〈魔人〉を振り切ってあの孤島を飛び出してから六年、彼の人生の全ては〈銀のけもの〉の追跡に捧げられていた。他の〈魔女〉や〈魔人〉に出会うことは無かった。今日のこの時までは。

 木立の影から音も無く現れたのは、貫頭衣を纏った、背が高く骸骨のように痩せた男であった。男は言った。


「お前、〈忌み子のヨルン〉だな」


ヨルンは男を睨みつけると言った。


「そういうそなたは死にたいようだな」

「殺すのはおれだ」


 男は背嚢から短刀を抜き取るとヨルンへ投げつけた。馬の首を盾にしそれを躱すヨルン。だがしかしその短刀には銀の根が絡みついていた。〈交信〉された馬は暴れだし、落馬したヨルンを踏み潰さんとする。馬の足蹴りを寸でのところで転がって回避したヨルンは男へエストックで斬りかかる。男の貫頭衣が切り裂かれた。その下に見えたのは、体中に張り巡らされた銀の根であった。死んだ馬の横で男は言った。


「いい腕だ。死にかけだったルーウーの弟子にしてはやる」

「何」

「だが残念だ。お前が〈銀のけもの〉を追う限り、おれはお前を殺す。ああ? おお、そうだ。そういえばまだ誘っていなかったぞ」


 男は笑顔を作り、両手を広げると言った。


「どうだ、〈忌み子のヨルン〉よ、我が弟よ。〈銀の守護者〉にならんか。我々は我らが父である〈銀のけもの〉を追い回す不埒な輩を遠ざけ、」


 そこで〈守護者〉の男の口は横に切り裂かれた。不思議そうな顔をする男に向けて、ヨルンは言い放った。


「そなたはこれから二度死ぬことになる。一度目の理由は私を〈忌み子〉と呼んだこと。そして二度目の理由は我が師匠、〈魔女ルーウー〉を侮辱したことだ。覚悟するがよい、虫けらめが!」


 男はそれに答えて言った。


「〈守護者〉になるつもりはないんだな? まあいいだろう。おれの名は〈魔人ンガイ〉だ。お前はこれから、おれに殺されることになる。無惨にだ。かわいそうになあ」


 ンガイは裂けた口でそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る