〈銀の眷属〉
メンデ村はフカ山脈からブルト方面にやや進んだ先にある小さな集落である。ヨルンはこの村唯一の酒場で、ゆっくりと旅の疲れを癒やしていた。店内には時折ヨルンの方を、特にその手袋に包まれた〈右手〉を盗み見ては何事か噂話をしている者がいたが、ヨルンはいつもの事として特に取り合うこともなかった。彼はひとり、テーブルで黙々と葡萄酒を飲み続けていた。
夜も深まってきた頃、他にも空席があるというのに、ヨルンの向かいにある一人の青年が腰掛けた。年の頃はやっと二十歳を過ぎた頃という具合のその男は、ヨルンの飲んでいる葡萄酒を見ると、それと同じものを店主に注文した。
しばらくの間、二人とも言葉を交わすこと無く黙って酒を飲んでいた。時が過ぎる。根負けしたヨルンは長い溜息をつくと、青年の目を見て聞いた。
「そなた、わたしに何か用でもあるのか。何者だ」
「ああ、いや……その」
青年は目をそらすと口ごもった。そして言った。
「あなた、ヨルンさんですよね。〈右手〉の」
「なんだ。そもそも、まずそなたが先に名を名乗るべきではないのか?」
「ああ、その、ああ、す、すいませんでした。私はビッキと言います。この村に住んでいて……その……ヨルンさんにちょっとお願いしたいことがありまして……」
ヨルンは顔を上に向けると眉根を寄せた。こういった厄介事に巻き込まれるのはいつものことだった。この〈右手〉がある限り。カンイーの言っていたとおり、そろそろ身柄を偽る方法を考えたほうが良いのかもしれない。ヨルンはそう思った。
◆
「よいか。案件がなんであれ、報酬は金貨十枚だ。それ以上取るつもりもないが、まけてやるつもりもない。私が解決できようができまいが、報酬はもらう。前払いだ。ずっとこのような契約でやってきている。そなた、本当にいいのだな」
ビッキの家で、ヨルンはビッキにそう言った。以前報酬の支払いを怠ったまま逃げ出した男がおり、それ以来入念にこのような事前確認を行うようにしていたのである。
ビッキは机の上に金貨十枚を置く。ヨルンはそれを受取ると、ビッキに聞いた。
「それで。そなたはわたしに何をさせたいのだ」
「これを見て欲しいんです」
そう言うとビッキはチュニックを脱ぎ裸の上体を見せた。当惑するヨルンを見て、ビッキは慌てて付け加えた。
「い、いえ、そういうつもりではないんです、そういうことではなく……この、背中のこれを……」
ヨルンがビッキの背中を見やると、そこには背骨に沿って一筋の銀の根が張っていた。ヨルンは根に触れる。そして聞いた。
「……そなた、この根はいつからだ」
「あまりよく覚えていません。気づいたら生えていたようで。特に痛くも無いのですが、決まって夜になるとこの根が蠢くんです。気味が悪くって」
「なるほど。そなた、最近夢は見るか」
「夢、ですか」
「そうだ。特に最近覚えている夢はなんだ」
「ああ、そうですね。よく覚えているものがあります。何か大きな物に追われている夢です。それは……」
「巨大な銀色の狼で、体中から無数の銀の根が生えている。瞳は一つ。そうだな」
「え、ええ。なぜ……」
ヨルンはうつむくと、拳を額に当て、長く息を吐く。そして言った。
「それは〈銀のけもの〉と呼ばれるものだ。そしてそなたの背に張っているこの銀の根、これは〈銀のけもの〉の仕業だ。これまでに何度か見たことがある。残念だったな」
「残念、というのは」
「この育ち具合だと、もう三日ほどすれば、そなたの全身は銀の根に覆われ、そして〈銀のけもの〉の眷属となることだろう。それはちょうど磯巾着のような見た目だ。そなたは磯巾着を見たことがあるか? 海に生きる、樽の頭から触手が生えたような生き物だ」
「何……」
「それは〈銀の眷属〉と呼ばれている。〈銀の眷属〉は危険な存在だ。常人では太刀打ち出来ぬ。重ねて言うが、残念だったな」
ヨルンはエストックを抜くと、素早くビッキの額に剣先を当てた。そして言った。
「今ならば対処が出来る。最期に何か言うことはあるか。〈銀のけもの〉はわたしが必ず狩る。その時まで、そなたの言葉はわたしが必ず覚えておく。必ずな」
「ど、どうにか……ならないんですか……」
「どうすることも出来ぬ。すまんな」
ヨルンを押しのけて駆け出すビッケ。だがしかし、ヨルンのエストックはビッケの首の急所を正確にその背後から貫いていた。
そしてビッケは死んだ。
ヨルンは素早く死体から距離を取る。その背の銀の根は激しく蠢くと、新たな身体を形作ろうと、宿主の死体を急速に分解していった。腐った卵のような異臭が家中に漂う。だがしかし、〈銀の眷属〉はそこから生まれることはなく、萎びた銀の根と半分溶けた死体だけがその場に残されたのだった。
◆
ヨルンはビッケの死体を埋葬すると、翌朝メンデ村を発った。〈銀のけもの〉。我が母親を犯した獣。我が憎むべき父親。ヨルンは馬の手綱を持つ〈右手〉を握りしめると、西のダチェルへの道を一人進んでいくのであった。
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