フカ山脈の〈連盟団〉-3/4
〈赤の連盟団〉の〈団長〉の目覚めは香り高いラーズ草の一服から始まる。この習慣は彼がブルトに住んでいた頃から続いていた。兄との権力争いに破れ、フカ山脈へ落ち延び、手勢を〈連盟団〉としてまとめ上げ……彼の全盛期から変わらず残っているものと言えば、ラーズ草と赤いコート、そして愛刀のサーベルぐらいのものであった。彼は諦めていなかった。再びブルトへ返り咲くことを。権力の座を兄から奪い返すことを。
〈森の賢者〉から〈達人〉の供給を受けることが出来たのは僥倖であった。得体の知れない存在ではあったし、値段は高くついたが、その腕前は確かだった。〈右手のヨルン〉を売り飛ばした金でもう何人か〈達人〉を手に入れれば、対立する〈黒の同胞団〉に対して完全な優位に立つことも不可能ではないだろう。彼はそう考えていた。
だがその二人の〈達人〉から今しがた受けた報告は、〈団長〉にとって全くもって喜ばしいものではなかった。〈団長〉はその巻き毛を弄りながら考えた。〈右手〉が逃げた。誰が逃した。誰の責任だ。誰が牢の番をしていた。誰を罰する必要がある。
そこへさらに呼び鈴が鳴る。〈団長〉は伝声管の蓋を開け応答した。
「なんだ」
「〈団長〉、〈黒〉の奴らです! 〈同胞団〉の野郎、とうとうやってきましたぜ」
〈団長〉は応答を切ると、長く細いため息をついた。彼は立ち上がり壁に立てかけたサーベルを手に取る。そして壁の紐を引き、鈴を力強く三度鳴らした。それは戦の合図だった。
◆
ごみ溜まりを這い上がったヨルンとカンイーは、薄暗い洞窟の中を手探りで進んでいた。道中カンイーはヨルンに対してこの秘宝に関する様々な伝承を語っていたが、ヨルンはそれよりもむしろかすかに聞こえてくる〈精霊〉の〈声〉に耳を済ませ、その〈声〉を追うようにして歩いていた。カンイーは当初ヨルンからの返事が無いことを訝しんだが、自分の話を集中して聞いているのだろうと思い、構わずに喋り続けた。
横穴から先へ道なりにしばらく進んだ彼らが目の当たりにしたのは、無骨な造りの鉄扉と、その周囲を取り囲む黒ずんだ銀の根だった。しゃがみ込んだヨルンがそっと触れた足元の銀の根はぼろぼろと崩れ去った。この様子では、この奥の〈魔境〉に〈精霊〉がいたとしても、それは既に存在が消え去りつつあるほどに力が弱まっているに違いない。ヨルンはそう考えた。
鉄扉に近づいたカンイーはヨルンに言った。
「やっぱりだ。これを見てくれ」
促されたヨルンがカンイーの手元を見ると、そこには鉄扉にはめ込まれたガラスのような材質の小さな板があった。カンイーは言った。
「いいか。おれはこれまでに何度かこういう扉を見たことがある。一度目は無理やりブチ壊して通り抜けようとしてみたが、全く歯が立たなかった。もしやと思い二度目は〈交信士〉を雇って仕事をさせてみたが、〈交信〉は出来たもののそいつには〈本〉に浮かび上がった図柄を読み解くことも出来なかった。それで三度目が今日だ」
カンイーはヨルンの瞳を真っ直ぐに見ると鼻の無い顔で言った。
「頼む。その〈右手〉で、このガラス板に〈交信〉してみちゃくれないか。この奥に何かがあるはずなんだ。この板が鍵になってるはずなんだよ。そこらの〈交信士〉じゃ歯が立たない代物でも、あんたになら、〈恐るべき右手のヨルン〉になら出来るんじゃないのか? 礼はする。この奥にある宝、あんたが欲しいものがあればなんでも持っていって構わない。約束する」
カンイーは一呼吸置くと、続けて言った。
「おれは知りたいだけなんだ。この奥に何があるか。そう思って、それだけでここまでやってきたのさ」
「……妙な男だ」
カンイーからの願いがあろうがなかろうが、ヨルンは〈精霊〉の〈声〉の源を確かめるために、この扉の奥へ進むつもりだった。ヨルンは前に進み出ると、その〈右手〉の細い指先でガラス板に触れた。かすかに〈精霊〉の蠢きを感じた。ならばやはり〈交信〉が出来るということだ。板の表面に銀の根を張ると、ヨルンは瞳を閉じた。
そして瞼を開ける。銀色の狼と化した彼は漆黒の空が広がる〈無限の地平〉に立っていた。山の中ということもあるせいか、いつもよりも空に見える星々は少なく遠かった。ヨルンは遠くに死にかけた〈精霊〉の匂いを嗅ぎ、そしてその〈声〉を聞きとった。もはや自らの名前も忘れてしまったその〈精霊〉は、悲痛な〈声〉で、繰り返し、自らに与えられるべき役目を求めていた。ヨルンはその哀れな〈声〉に胸を締め付けられた。忘れ去られたこの〈精霊〉の永い日々を思った。一刻もはやくこの〈たましい〉を救ってやらねばならない。そう考えたヨルンは、眼前に立ちふさがる数列の巨人を青い狼の瞳で睨みつけた。
〈無限の地平〉では大きさは意味をなさない。巨人は単なる『巨人』でしかなく、ヨルンもまた『銀の狼』でしかない。重要なのは思考の速度であった。考えが〈無限の地平〉ではかたちをつくる。考えが〈無限の地平〉ではかたちを運ぶ。ヨルンは〈魔女ルーウー〉からそのことを教わっていた。
巨人の拳が光の速度で振り下ろされる。避ける間もなく銀の狼は跡形もなく押し潰された。だがその銀色の残滓は巨人の腕に絡みつき這い上がる。そして意味を侵食していく。これも〈魔女〉から教わったわざであった。〈無限の地平〉では自らを失うことを恐れてはならない。自らを変えることを恐れてはならない。〈魔女〉はそう言っていた。
巨人は右腕を振り払いそれに抗おうとする。だがしかし無駄なことであった。全身を蝕まれた数列の巨人は無意味な戯言の霧と化し、意味の構造を失って消え去った。あとに残ったのは一匹の銀色の狼。狼は身体を震わせると、ひとつ大きな勝利の吠え声を上げた。〈無限の地平〉はそれに震えた。
そしてヨルンは〈交信〉を断ち瞳を開けた。そこに見えたのは、誰が触れるでもなく独りでに開き始めていた重い鉄扉の姿であった。
◆
扉の奥に待っていたのは、かつてはなんらかの顔料が塗られていたと思わしき無機質な灰色の床と壁だった。ヨルンは壁に触れた。その感触は石材に似ていたが、この壁には継ぎ目が見当たらず、まるでどこまでもひとつながりに続いているようだった。
天井には点々と橙色のほのかな明かりが続いていた。ヨルンとカンイーは、それに従って奥へと進んだ。
通路の脇にはいくつかの小部屋があった。小部屋の中も同じように灰色の床と壁で出来ており、二つほど骸骨が見つかっただけで、苔色の薄い丸兜以外めぼしいものは見つからなかった。カンイーは丸兜の埃を払うと、ヨルンに断ってから、その頭に被った。
突き当りの部屋は大きな講堂のようなつくりになっていた。正面の壁にはいっぱいに地図のようなものが描かれていた。この部屋には多数の骸骨があった。大きなものも、小さなものも見つかった。
ヨルンはひときわ大きな机に近づいた。その天板は淡く光っており、〈精霊〉の〈声〉はそこから聞こえているようだった。ヨルンはその表面に〈右手〉でそっと触れ、銀の根を張った。狂おしい喜びが伝わってきた。ここに宿る死に瀕した〈精霊〉は、最後の命令を待っていた。
ヨルンは聞いた。自らの名も忘れた〈精霊〉よ。今〈聞こえしもの〉がそなたに問う。そなたには何が出来る。わたしに何を与えられる。
〈精霊〉は言った。おお、〈聞こえしもの〉よ。わたしはお前に鉄を与えることが出来る。わたしにはそれしか出来ぬ。わたしはそれだけをしてきた。わたしはそのために生まれたのだ。命令してくれ、〈聞こえしもの〉よ。それがわたしの願いだ。わたしに指示をしてくれ、〈聞こえしもの〉よ。わたしに理由を与えてくれ、〈聞こえしもの〉よ。
そしてヨルンは〈精霊〉の望む通り、命令した。我に鉄を与えよと言った。
瞬間、ヨルンが触れていた机は赤熱し溶解した。驚き飛び退くヨルンの右腕に、溶けた机が絡みつく。ヨルンは苦痛の叫び声を上げた。
驚いて振り返ったカンイーが見たものは、右手から肩までをびっしりと黒い鋼鉄に包まれたヨルンの姿だった。手の甲から伸びた三本の鉄の鞭は不気味に蠢いている。カンイーは聞いた。
「だ、大丈夫なのか、その腕」
ヨルンは無言で右腕を壁に叩きつけた。轟音と共に、灰色の壁に円形状の大きなヒビが入った。ヨルンは〈右手〉をゆっくりと広げ、そしてまた握りしめると、カンイーに言った。
「大丈夫だ。大丈夫。問題ない」
復讐の予感に、その顔は暗い笑みを浮かべていた。
◆
ヨルンとカンイーは、それぞれカンイーが見つけた苔色のベストを着て、洞窟の出口へと向かっていた。ヨルンにはとてもそのように見えなかったが、カンイーが言うには中々のものが見つかったのだという。カンイーのベストのポケットは何かがぎっしり詰まっていたが、ヨルンは特にそれを詮索することもなかった。
彼らは再びごみ溜めに出ると、その斜面を登り始めた。そして砦内部へ戻り目にしたものは、〈赤〉と〈黒〉とが殺し合う、血にまみれた戦場であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます