フカ山脈の〈連盟団〉-2/4
ヨルンはカンイーに言った。
「逃げ出すだと? そなた、何か考えがあるのか」
「あんただよあんた! あんたがおれの考えだよ」
「わたしが?」
「そう、『わたし』様がだよ。その〈右手〉の噂は聞いてるぜ、〈恐ろしき右手のヨルン〉さん? ひとたびそれが煌めけば皆跪き、天も地もなく切り開く。世界は全てその〈手〉の奴隷! ああ恐ろしや、ってなもんだよ、ええ」
ヨルンはそれを聞き流した。カンイーは構わず続けた。
「まあしかし、なんであんたほどの人間がこんなところにいるのか、想像も出来ないね。本当、どんなヘマやらかしたんだか。ま、昔のことはいいじゃない。とにかくその〈右手〉で、パパッと早いところ、ね、お願いしますよ」
「何をだ」
「何をって、この鉄格子をよ。その〈右手〉で開けられるんでしょうよ、こう、曲げたりして」
「無理だ」
「何」
ヨルンは鉄格子に〈右手〉で触れながら言った。
「これには〈精霊〉が通っていない。そういうものには〈交信〉できない」
「本当に?」
「嘘をつく必要はないと思うが」
「じゃあ、ここから出られない?」
「わたしが怪力無双であれば別だがな。そういうことになる」
それを聞いてカンイーはとても悲しげな顔を作ると、顔を自らの牢の中へと引っ込ませた。
そしてしばらくの間沈黙が続いた。
ヨルンは言った。
「……どうした?」
「ああ、なんだい? あんた、まだ起きてたのか? 悪いけど、今遺言の続きを考えるのに忙しいんだよなあ。おたくも準備しておいたほうがいいんじゃないかと思うがね。さあて、おれの骨はどこに撒いて貰おうかなあ……やっぱり海の見える丘なんていいよな……〈第二の月〉の加護がありますようにと……」
ヨルンはため息をつくと、仰向けに寝転がった。そして〈右手〉を見つめながら、かつての幽閉の日々を思い出していた。ここの牢はひどい。あの塔とは比べ物にならない。夜だと言うのに夕食も出ない。世話役もいない。着物も粗末だ。まさかあの穴が便所なのだろうか? おお、なんということだ。
〈右手〉を窓の方へかざし、〈精霊〉を探してみたが、役に立ちそうな〈声〉は聞こえて来なかった。ヨルンは傷の具合を確かめるため、〈右手〉の包帯を慎重に解いた。
〈右手〉を貫く五寸釘は、いつの間にか全体が銀色の皮膜で覆われており、釘と〈右手〉は完全に癒着していた。
ヨルンは唾を飲み込むと、釘を一本、銀の〈右手〉から無理やり引き抜いた。釘と〈右手〉の接着点が裂ける。そして鈍い痛みとともに引きずり出されたその釘には、〈右手〉の傷口から伸びた銀色の根が絡みついていた。
ヨルンは無心になって傷口から銀の根を引きずり出し続けた。腕の肉を引き裂くような痛みに耐えさせたのは、絶えず湧き上がる山賊達への怒りであった。
◆
そして夜が明けた。片手斧を背負った毛皮鎧の太った山賊の男が、彼らの牢の前に現れた。その手には二つの椀があった。男は無言でカンイーの牢の前に椀を置く。その中身は濁った芋のスープだった。
「へ、へへへ、ありがとうございます、すいやせんねどうも、へへ……」
カンイーはそう言うとうやうやしく椀を受け取った。男はヨルンの牢の前にも椀を置くと言った。
「〈右手〉。食え」
ヨルンは尊大な態度で言葉を返した。
「ほう。お前はこのわたしに、こんなものを食えというのだな」
「何?」
「わたしの名を知らんのか? わたしはヨルン。世に謡われた〈呪われしヨルン〉だぞ。そなたら山賊ども、貴人に対する食事の出し方も知らんと見えるな。まあよい、許してやろう。ただし一度だけだ。次はないぞ」
「何だと?」
「おい。早くせんか。何を突っ立っておる。早くもっと、上等な食事を持ってくるがよい」
そしてヨルンは大きく伸びをすると付け加えた。
「ああ、果物は必ずつけるのだぞ。なにせ朝食だ。新鮮なものを、必ずな」
スープの入った椀がヨルンの顔めがけて投げつけられた。身を屈めてそれを躱したヨルンは、右手の甲から引き抜いた釘を山賊へ素早く投擲する。銀の釘は毛皮鎧に覆われていない山賊の右の脛に突き刺さった。怒声を上げる山賊。だがしかし、その釘とヨルンの〈右手〉との間に繋がっている銀の根を見て、彼の怒りの表情は本能的な恐怖と嫌悪感のそれへと変わった。
背中の片手斧を手に取り銀の根を切断せんとする山賊。だがしかし既に遅い。山賊の身体とヨルンの〈右手〉との間の〈交信〉は、斧の刃が届く前に完了していた。うつろな目つきになった山賊は斧を取り落とすと、その場に座り込んだ。
今、ヨルンの視界と身体の感覚は二重になっていた。彼は自分の瞳で山賊の男を、山賊の瞳で自分のことを見つめていた。他人の身体を自由自在に操るには、その身体を流れる〈精霊〉の動きによく馴染むことが必要になる。だが今はそれを待っている時間は無い。いつもよりも距離があるせいか〈交信〉の反応が悪く、また他の山賊がすぐにでも現れる可能性があった。ヨルンは山賊の身体を強いて動かすと、腰に吊られていた牢の鍵を自分のほうへ放り投げさせる。そこでヨルンの集中は途切れた。
目を覚ます山賊。ヨルンは素早く牢の鍵を開けると、山賊の男が見当識を取り戻す前に斧を拾い上げ、そしてその首に叩きつけた。首に斧を食い込ませた山賊の男は何事か呻いてから、前のめりに倒れ絶命した。
ヨルンは銀の根を手繰り寄せて右腕に巻き付け、その隙間に釘を差し込んだ。そして唖然としているカンイーに向けて鍵を投げてから言った。
「ここから出たくば使うがいい。だがしかし、そなたのことをまだ信用したわけではない。共に行動するつもりはない。わたしがこの部屋を出たのを確認してから鍵を開けろ」
「あ、ああ」
「そなたがこの砦でこれから何をしようが、それはそなたの勝手だ。だがな、もしわたしを後ろから刺すような真似をしてみろ。わたしはわたしを裏切るものは決して許さない。わかっているな」
「も、もちろんだ」
「よろしい。ではさらばだ」
◆
ヨルンはその長身を屈めながら、低い天井の下を進んでいた。フカ山脈の中を蟻の巣のように掘り進めて造られたこの〈赤の連盟団〉の砦には、たくさんの分かれ道が存在していた。
ヨルンは通路を歩く寝起きの山賊の背中に斧の刃を叩き込んで引きずり倒してから、その首筋へ銀の釘を突き刺して〈交信〉しその精神の中を調べ上げた。だがこの男も、ヨルンが拷問を受けたあの部屋の場所を知らなかった。舌打ちをしたヨルンは斧で山賊の頭をかち割ると、痙攣する死体を手近な樽の中に放り込んだ。
ヨルンは今復讐のために動いていた。牢を抜け出してから殺した山賊はこれで三人になる。いずれの男も、ヨルンの荷物が隠されている場所も、拷問部屋の場所も知らなかった。
埒が明かない。ヨルンは苛立ちを覚えていた。砦から抜け出す道はとっくにわかってはいたが、自らの身体に好き放題してくれたあの拷問士と、この砦を支配する山賊の頭目を始末するまではここから逃げ出すつもりはなかった。彼の高い自尊心と、煮え立つ怒りが砦からの脱出を邪魔していた。
徐々に砦中が目を覚まし始めていた。直に脱走も知れることだろう。ヨルンは左手に持った片手斧を握り直すと、獣のような笑みを浮かべた。かかってくるがいい、下衆どもめ。どいつもこいつもその脳髄の中を調べ上げ、その上で叩き殺してくれる。このヨルンに手を出したこと、後悔するがいい……。
「おお、恐ろしい恐ろしい」
そこへ声を掛けてきたのは、追いついてきたカンイーであった。イルコスのカンイーは言った。
「まあそう睨むなよ。別に刺したりなんてしてないだろ? なああんた、ここの山賊達に一発カマしたいんだろう。しばらく後ろから見てたが、まあ無慈悲な殺しっぷりだことで」
「ならばどうした」
「なあに、そのつもりなら、おれについてきてくれれば、その……おれの目的も果たせるし、あんたの目的も果たせる。まあ、お互いにとって良いことしかないんだが、とにかく案内したい場所があるんだよなあ」
ヨルンは無言でカンイーの腿に銀の釘を突き刺して〈交信〉し、その頭の中を調べ上げた。意識を取り戻したカンイーは、ヨルンが自分にしたことに気づくと、引きつった笑みを浮かべて腿の傷跡をさすりながら言った。
「い、痛えなあ……。まあ、これでわかってもらえただろ? おれはあんたを裏切るつもりなんてないし、山賊の一味でもないし、ついでにおれの目的も……」
「フカ山脈に眠る古代の秘宝だと? そなた、そんなものを本当に信じているのか」
「おれの頭を読んだんだろ! だったらおれが本気だってこともわかってるはずだ。いいか、ここの山賊どもが気づいてもいないお宝がここには眠って……おい、どこに行くんだ。そりゃないだろう! 置いていくつもりか!」
「いいか。ここから真っ直ぐに進め。突き当りを左だ。そこから道なりに行けば、この砦から出られるだろう。わたしはわたしの用事がある。邪魔をするな」
「そうは言ってもだな……ああ、こりゃあまずいぞ……」
そう言うとカンイーは脇の扉へと飛び込み、鍵を閉めた。ヨルンは正面を見やる。そこには端正な顔をした、小柄な男の姿があった。男は異国風で細身の赤い革鎧を身にまとい、その長い頭髪は後ろへ撫で付けられていた。ヨルンの方へと真っ直ぐ近づいてくる。その両手には短刀が一本ずつ握られていた。
ヨルンは斧を構える。ヨルンは赤鎧の男の動きを注意深く見守っていた。只者ではないことはその構えからわかっていた。額から汗が垂れる。ヨルンは先に仕掛けるつもりはなかった。相手が飛び込んできたところを、躱してから斧の一撃で……。
そこでヨルンの背中に短刀が突き刺さった。激痛に振り返るヨルン。目の前には赤鎧の男と瓜二つの格好をした男がいた。咄嗟に斧を振り回して距離を取る。だがしかし背後には既に気配。ヨルンは後ろ回し蹴りを繰り出したが、赤鎧の男はそれを身軽に回避した。
ヨルンは狭い通路の中で、二人の達人に挟まれていたのであった。
どうする。剣さえあれば。鎧さえあれば。ヨルンは必死に打開策を探す。何かこの状況を切り抜ける方法は。突撃するか? 無策で挑めば返り討ちにされて終わるだろう。では逃げ出すか? ヨルンの自尊心がそれを拒否した。山賊達の精神に〈交信〉したお陰で、どうすればここから逃げ出せるかはわかっていた。だがあまりにもその行先は屈辱的であり、オートラン王国第二子としての彼の出自がそれを拒むのであった。
だがもはや時間は尽きた。このままでは死ぬ。嬲り殺される。ヨルンの精神はもはや留めようもない怒りに支配されていた。不条理な現実に対する怒り。情けない自分に対する怒り。ヨルンの顔は見る間に紅潮した。彼は吠えた。
「貴様ら! 顔は覚えたぞ! いつか必ず殺してやるからな! 覚えておれよ!」
それを聞いて赤鎧の双子は笑った。嘲笑を背にしながら、ヨルンはあまりの憤怒に目に涙を浮かべながら、壁の木板を蹴破ると、その中へと飛び込んでいった。
ヨルンの飛び込んだ穴を覗き込む双子。だがその暗闇を見通すことは出来なかった。双子は顔を見合わせると、頭目へと報告に向かった。〈右手〉がごみ捨て場に落ちていった、と。
◆
ヨルンが着地したのはやわらかな腐った残飯の上だった。そのおかげでどこの骨も折ることは無かった。折れたのは彼の自尊心だけだった。ヨルンはしばらく呆然としていた。情けなさに動くことも出来なかった。彼の瞳から一筋の涙が流れた。それを見て笑ったのは、先にここへたどり着いていたカンイーだった。
「よう、久しぶりだなあ。〈呪われしヨルン〉さん?」
「貴様……」
「まあ、怖い顔するなよ。な! おれも生きてる、あんたも生きてる、そうだろ? それが一番だ。な? そうだろ? そうだよな?」
ヨルンは無言で立ち上がった。だが打ちひしがれた彼には、自分を置いて逃げ出したカンイーに言い返す気力も無かった。そんなヨルンを気にすることもなく、カンイーは続けて言った。
「さあて、ここからどうにかして脱出しないとなあ。ああ、偶然なんだが、このごみ捨て場から上に戻る途中に、おれの仕入れた情報によると例のお宝があるみたいなんだよなあ。いやあ、なんて偶然だ。ぜひともヨルンさんに、牢から出してくれたお礼がしたいんだがなあ」
ヨルンはカンイーの頬を引っぱたくと、身体の汚れを払ってから、とぼとぼと歩き出した。カンイーは笑いながらその後に続いた。
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