〈静かの森〉-2/2
ヨルンが前に足を進めるに従って、〈静かの森〉は徐々にその姿を変えていった。木々は優雅で微妙な曲線を脱ぎ捨て不自然な角度といびつな直線にその身を任せる。草花は反復する複雑な幾何学模様の絨毯を大地に描き出す。樹皮や露出した地面のあちこちに銀色の〈根〉が見え始める。これは〈精霊〉の支配する〈魔境〉にヨルンが近づきつつあることを意味していた。
〈魔女ルーウー〉からは、〈精霊〉とは太古に存在した文明で生まれた、身体という器を持たぬ〈たましい〉だけの存在なのだと教えられていた。彼らは人間には理解出来ぬ彼ら独自の存在理由のみに従って、世界を縦横無尽に組み換えるのだという。
月明かりが〈魔境〉を照らしていた。風が吹き、ヨルンの鼻につんとした臭いが届いた。
そして〈植物人間〉がヨルンの頭上から襲いかかった。勢いをつけて振り下ろされた片刃斧の柄を腕で払ってヨルンは受け流す。バランスを崩した〈植物人間〉に膝蹴りとそれに続く横蹴りを入れて蹴倒すと、ヨルンはすかさず距離を取った。
斧の〈植物人間〉はゆっくりと身を起こした。その腐った右足は落下の衝撃で腿が折れ骨が飛び出していたが、それを意に介した様子は全く無かった。首の上の植物瘤からは狩人の〈植物人間〉と同じく蠢く無数のひげ根が生えていた。その服装から、彼が哀れにもこの〈静かの森〉へ迷い込んでしまった木こりの成れの果てであることは容易に想像することができた。
ヨルンは上を向く。他の木の枝にも、何体もの〈植物人間〉が止まっていた。彼らは微動だにせず、まるでヨルンのことを見張っているようにただひげ根を波打たせていた。
〈森〉の奥から再び〈イール〉の声が聞こえてきた。
〈忌み子〉よ。おお、〈忌み子〉よ。お前の身体にはどんな花を咲かせてやればいいだろうか。お前の首にはどんな花が似合うだろうか。ああ。私は楽しみにしているのだ。きっとお前は美しい花を咲かせるだろう。銀色の美しい花を。そしてお前は私に感謝するだろう。美しいまま、永遠を生きられることを。
それを聞いたヨルンは腰のエストックを抜き払い言った。
「新しい花瓶が欲しいのなら、そこの村にでも行ってひとつ頂戴してくるがいいではないか、〈精霊〉殿。私のこの身体はやらんぞ、そなたのようなごとき腐った狂い虫にはな。それに永遠だと? そなたのこのずれた美意識の元で永遠を生きるなど! 少しは街に出て、当世風の美学というものを学んできたらいかがか。おっと。〈精霊〉に成長しろなどということ、無理難題であったな。これは失礼した。ハハハハハ」
そしてニヤリと笑った。
〈森〉は怒りに震えた。木々がざわめく。強い風が吹き荒れる。そして荒れ狂う〈植物人間〉達が一斉にヨルンに襲いかかった。
ヨルンはまず斧の〈植物人間〉の植物瘤を真横に切断した。飛び散る黒い汁をひるがえした外套で受け止めると、背後に迫っていた巨漢の〈植物人間〉に向き直り、その両膝を貫いた。膝をつく〈植物人間〉の上体を蹴り上がり肩を踏み台にして頭上の大木の枝を掴むと、そのまま勢いをつけて〈巨漢〉の奥に居た二人の〈植物人間〉の植物瘤をまとめて蹴り飛ばし破裂させた。
着地の隙を狙って振り下ろされた〈巨漢〉の拳を転がって回避し、こちらに弓で狙いをつけていた〈植物人間〉の元へ立ち上がりながら駆け込む。矢が放たれる前にエストックで弓を打ち払うと、その植物瘤を下から上に切り裂いた。振り返り、幅広剣の横斬りをすんでのところで躱す。後ずさったヨルンは剣を持つ〈植物人間〉に対して細剣の切っ先を真っ直ぐに向けて構えた。上段からの打ち下ろし。ヨルンはそれに怯むこと無く真っ直ぐに踏み込み、皮一枚の距離ですり抜けると、横から敵の植物瘤を貫き、エストックを引き抜いた。剣の〈植物人間〉は黒い汁を撒き散らしながら倒れた。
ヨルンは構えを直す。目の前には膝立ちの〈巨漢〉。奥には弓を持つ二名の〈植物人間〉。ヨルンは放たれる矢を身を屈めて躱しながら、まず〈巨漢〉を処理せんと前に踏み込んだ。そこへ〈巨漢〉の腹に背後から突き刺さる〈植物人間〉からの矢が二本。違和感を覚えたヨルンは後ろへ飛び退こうとするも既に遅く、破裂した〈巨漢〉の腹から飛び出した無数の銀色の根がヨルンの身体に突き刺さっていた。
全身を貫く苦痛。再びつがえられる矢。地中に潜んでいた〈植物人間〉が掴む両足。そして銀の根を伝って聞こえてくる〈イール〉の勝ち誇った嘲笑。
お前は花瓶だ。お前が花瓶だ。お前はもはやおしまいなのだ、〈忌み子のヨルン〉!
ヨルンは震える左手で右手の革手袋を取り払い投げ捨てた。そして自らの額の皮膚を無理やり左手の爪で切り裂くと、そこへ銀の〈指〉を侵入させ、瞳を閉じた。
そして周囲の時が止まった。今ヨルンは、その精神を解き放ち、星々の瞬く〈無限の地平〉の中に立っていた。そこでは彼は銀色の狼だった。
彼は視界の片隅に慌てふためく〈イール〉の姿を捉えた。それはみすぼらしい案山子の姿をしており、その木の棒で出来た身体から伸びた銀色の糸は、何体もの頭部の無い人形と繋がっていた。ひときわ大きい人形からさらに伸びた糸は、銀色の狼にも何本か届いていた。
怒れる狼が一声吠えると、彼の身体に繋がっていた糸はぼろぼろになって崩れ落ちた。そして狼は案山子へと一瞬で距離を詰める。悲鳴をあげる案山子。だが振り下ろされたその右足の爪は、案山子の〈氷〉の防壁に阻まれた。
不満げに唸る狼。案山子は人形に繋いでいた糸を断ち切ると、その場から姿を消した。
狼は瞳を閉じる。ヨルンは再び現実世界にあった。周囲の〈植物人間〉達は皆その場に倒れていた。突き刺さっていた銀の根はすっかり萎びていた。
そしてヨルンはその場に座り込み、自分自身への〈交信〉の反動に備えた。吹き出す脂汗。両手を握りしめ、頭の中を駆け回る苦痛に身を捩り、苦悶の声を絞り出す。明滅する視界。かつて奪い取った兄の憎しみが鮮明に蘇る。ヨルンは背を丸めて額を抑える。全身の筋肉が引き攣るように激しく痛んだ。
ヨルンは数十分の間、この苦しみにじっと耐え続けた。
◆
〈魔境〉の中心は開けた野原であった。下生えの幾何学模様の反復は、野原の中心に立つ、凍りついた石棺を囲むように描かれていた。周囲には、壮麗な鎧と剣がいくつも散らばっていた。
付近に危険の気配は無かった。ヨルンが石碑に近づき、その表面に右手の〈指〉で触れると、凍れる石棺の蓋は音を立てて開いた。冷気が溢れ出す。その中には凍結した沢山の生首が入っていた。
なんということを。なんということを。〈森〉から〈イール〉の嘆く声が聞こえた。
今すぐに蓋を元に戻すのだ、〈聞こえしもの〉よ。お願いだ。戻してくれ。彼らが真の死を迎える前に。手遅れになってしまう前に。〈イール〉はもはやヨルンに懇願していた。
ヨルンは言った。
「真の死だと? 彼らは死んでいる。もう既に死んでいる者を、一体どうすれば殺すことが出来るのか?」
〈イール〉は言った。彼らは確かに今死んではいる。だがしかし、もう何百年、もう何千年と待てば、必ず彼らを再びこの世に蘇らせるわざがこの世界のどこかに生まれることだろう。必ず彼らに新しい身体を与えられる者が生まれることだろう。私はそれまでの時を待つものだ。私はそれまでの時を護るものだ。王の首を。王の命を。
ヨルンは石棺の中を見やった。確かにその片隅には、王冠を被った男の首があった。その王冠の装飾はかなり古い年代のものに見えた。
ヨルンは石棺の蓋を閉め、〈イール〉のこれまでの日々に思いを馳せた。そして〈森〉に向けて言った。
「〈精霊イール〉よ。まだ私に抗う気はあるか」
ない。
「ではそなたは私に従うことを誓うか」
誓う。
「私を裏切れば、私は即座にこの石棺へ向かい、蓋を開け放ち、そして火を放つ。これを理解したか」
理解した。
「よろしい。ならば〈姿〉を作れ。私の前に〈姿〉を現すがいい」
ヨルンがそう言うと、周囲の銀の根が寄り集まり、〈無限の地平〉で見たあの案山子のかたちを作り出した。
そしてヨルンは銀色の案山子に右手の〈指〉でそっと触れた。一瞬のうちに案山子の表面に銀の根が張る。案山子は見る間に黒ずんでいくと、ぼろぼろに朽ち果てた。
こうしてヨルンは〈精霊イール〉の加護を得た。そして言った。
「〈イール〉よ。〈精霊イール〉よ。そなたの知っている〈銀のけもの〉を教えろ」
〈イール〉は答えた。〈銀のけもの〉。その権能は無限である。その身体は大きく、その精神は無慈悲である。〈けもの〉は今もその子を殖やしている。それを私は感じる。〈けもの〉は今も世界を貪っている。それを私は感じる!
「〈イール〉よ、感謝する。しばらく休むがいい。そなたの力はいずれ借りることになるだろう。私に呼び出されるその時まで、石棺の護りを続けるがいい。だがしかし、この〈森〉へ迷い込んできた人は殺すな。これ以上石棺に人を入れることを禁ずる。脅すに留めよ。そして追い返せ。理解したか」
〈イール〉は、理解したと言った。その途端、周囲から悲鳴があがり始めた。
「〈イール〉よ。〈精霊〉よ。何をした」
脅したのだ。
「何をだ」
侵入者をだ。
「なるほど」
どうする。
「それをここに連れて来い。一人だけでいい」
理解した。
地面に張られた根が蠢くと、蔓で縛られた男が一人引きずられて来た。怯える男の手には吹き矢が握られていた。ヨルンは無言でその男の額を切り裂くと、右手の〈指〉を沈み込ませた。そして言った。
「〈イール〉よ。先程の命令に例外を追加する」
何だ。
「この侵入者達に限っては、石棺への収納を許可する。彼らに永遠を生きさせてやれ」
〈静かの森〉は、その命令に激しい喜びと共に従った。
叫び声を背後に、ヨルンは新たな怒りを煮え立たせながら、〈静かの森〉を後にした。
◆
夜。ブルトのオ・ソーンは、屋敷の寝室で、シルクのシーツの上で一人金貨を数えていた。
〈交信士〉は金になる職業だった。自然と〈交信〉してその天候を読み、古代の知識の声を聞き取ることの出来る彼らは貴重な存在であった。彼らのことをペテン師呼ばわりし忌み嫌う者もいたが、皆が〈交信士〉を頼った。そのため、日々の生活のうちに、本来の〈交信士〉としてのあり方を忘れ、金に溺れてしまうものも少なくなかった。オ・ソーンもその一人だった。
オ・ソーンは考えていた。〈忌み子のヨルン〉。あれは本物だ。密かに〈本〉で探ってみたが、あんな〈右手〉を持つものなんてこの世に二人といないだろう。思わぬ拾い物だ。何かに使えると思いオートランとの繋がりを保っていたが、ようやく役に立つときがきた。
いくらあの〈忌み子〉でも、今頃は恐らく〈静かの森〉でくたばっていることだろう。そのうちに死体を回収しに行こう。世にも珍しい〈銀のけものの子〉だ、博物館にでも売りつければまた金になる。オ・ソーンはほくそ笑んだ。
その笑いがくぐもった悲鳴に変わるまで、さほど時間はかからなかった。
こうしてオ・ソーンは死んだ。〈呪われしヨルン〉。〈聞こえしものヨルン〉。彼は、自らを裏切るものを、決して許さない男だった。
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