〈呪われしヨルン〉のその細い指

ズールー

第一部 〈呪われしヨルン〉と〈銀のけもの〉

〈静かの森〉-1/2

〈静かの森〉に近づく者はいなかった。みな〈静かの森〉を、その伝承を恐れていた。けものたちですらこの森には近寄らなかった。〈静かの森〉には、〈狂った精霊イール〉により生み出されたたくさんの亡霊たちが住み着いていると言われていた。どんなに勇敢な戦士だったとしても、〈静かの森〉に足を踏み入れた者がそこから帰ってくることは決してなかった。

 ヨルンがこの〈森〉へ行くと言い出したとき、トリギス村の宿の主人は震えながらも反対した。反対したのはヨルンの身を心配してのことではない。〈イール〉の怒りを買わないかが心配だったからだ。震えていたのは寒かったからではない。ヨルンのことが恐ろしかったからだ。特に、彼の革手袋に包まれたその右手のことを恐れていた。

〈呪われしヨルン〉、または〈聞こえしものヨルン〉の噂は、田舎のこの村にまで伝わってきていた。

 外套を羽織った長身のヨルンは、まるで異界から訪れた死刑執行人のように見えた。彼は宿屋の主人を見下ろすようにして言った。


「そなたらには迷惑はかけん。私はこれから〈静かの森〉へは向かうが、その後この村には戻らん。これからも決して立ち寄ることはない。それで構わんだろう。もうあの鶏のシチューが味わえんのは、とてもとても悲しいことだがな」

「で、ですがね」


 主人は言った。


「村の掟で、誰も〈静かの森〉には行かせちゃあならんのですよ。絶対に。私も旦那が〈森〉へ行くつもりだって知っちまった以上、旦那のことを止めないわけにはいかんのです。〈イール〉の災いが降りかかるって言われてるんで。ひどい目に遭うのは、本当に御免なんですよ。諦めてくださいよ、お願いですから」

「なるほど」


 ヨルンは冷たい声で答えた。


「旦那もタダじゃすまないかもしれませんよ。あそこへ行った者は、誰も帰って来なかったっていう話なんです。一体あの〈森〉、どんな怪物がいるんだか……」

「なるほど」


 そう言うヨルンの左手にはいつの間にか小さなナイフが握られていた。それを見た主人は顔を引きつらせながら言った。


「な、何をするつもりなんです、旦那……?」

「大丈夫だ」


 そう言うか言わずか、ヨルンの左手が二度素早くひらめくと、主人の額に薄く小さな十字の傷が出来た。主人は痛みにか細い悲鳴を上げる。血を流し始めた傷口をじっくりと眺めたヨルンは満足げにうなずくと、額を抑えようとした主人の両手をナイフを持ったままの左手で素早く押さえつけてから続けて言った。


「要するに、私が〈静かの森〉に行くことをそなたが知っていること、そのことがまずいというわけだな。そういうことなのだな。ならば心配することはない。何も問題は無いぞ。そなたはこれから、それを知らないことになるのだからな」


 ヨルンは右手の手袋を噛んで外す。そしてそのあらわになった細い〈指〉を、剣を持つことの出来ぬその繊細な右手の〈指〉を、震える主人の額の傷口に這わせた。そして言った。


「そういうことになる。そういうことになるのだ、これからな」


 そして主人の額の傷口に、ヨルンの銀色の〈指〉はずぶずぶと飲み込まれていった。そのおぞましい感触に、自己の精神が隅々まで無遠慮にまさぐられる感覚に、宿屋の主人はまず口から泡を吹き、身体を痙攣させ、そして白目を剥いて失神した。

 目を覚ましたとき、主人の記憶からヨルンのことはすっぽり抜け落ちていた。ただ何か、得体の知れない恐ろしいことが自分の身に起こったという感覚だけが、彼の身体には残っていた。


                  ◆


 主人の精神と〈交信〉し、吸い取った記憶を元にして、ヨルンは村外れの道を馬に乗って進み、〈静かの森〉のすぐ傍までたどり着いていた。そこには村の人間によって作られたと思わしき、〈森〉への侵入を警告する木板を削って作られた稚拙な看板が立てられていた。ヨルンは馬から降りると、夜闇の中を〈森〉へと分け入っていった。

 ヨルンがこの〈静かの森〉のことを聞きつけたのはブルトのバザーで出会ったある老いた〈交信士〉からであった。交信士は〈本〉を開いて世界との〈交信〉を行うと、〈本〉に浮かび上がった図柄を読み解きながらヨルンに伝えた。


「お尋ねのことでしたら、〈静かの森〉でしょうな。この地にいるあなた様の精神にまで声が届くほどの強大な〈精霊〉がいるような場所とすれば、このあたりにはそこしかないようです」

「なるほど。助かったぞ、〈交信士〉よ。礼を言う」

「いえいえ、こちらこそ。あの〈聞こえしものヨルン〉様からお言葉をかけて頂けるなど、われわれ〈交信士〉にとってこれほど光栄なことはございません。私の名はブルトのオ・ソーン。またあなた様のお力になれることもあるでしょう。何かお困りでしたら、いつでもお立ち寄りください」


〈静かの森〉の中には、生命の気配は無かった。ヨルンが下生えをそのブーツで踏み歩く度に聞こえる、しゃり、しゃりという音だけが、辺りに響いていた。

 そこに音もなく一本の矢が飛ぶ。それはヨルンの右肩に突き刺さった。続けざまに同じ方向から二本目、三本目。ヨルンはそれを転がって回避した。右肩の矢を引き抜いて投げ返すと、腰に佩いたエストックを抜き払って膝立ちに構えた。

 矢の飛んできた方向からゆっくりと現れたのは、弓を持った狩人であった。その衣服はボロボロに朽ちていた。震えるような歩みはぎこちなかった。その首から上は、何者かの手により鱗茎のような奇怪な植物瘤に置換されていた。腹にはヨルンの投げ返した矢が突き刺さっていた。

 この忌まわしき〈植物人間〉を見て、ヨルンはそれが〈狂った精霊イール〉の手によるものであると感じ取った。〈静かの森〉に入っていった者が誰も帰ってこなかったという、その理由も理解した。

 狩人の〈植物人間〉は、植物瘤のひげ根を震わせながらこちらへ走り寄ってきた。ヨルンはその踏み出した右足を切り払うと、返す一閃で転倒した〈植物人間〉の植物瘤を下から貫いた。〈植物人間〉は、瘤から悪臭漂う黒い汁を垂れ流しながら、しばらく手足をびくつかせていたが、じきに動かなくなった。

 ヨルンはエストックの汚れを拭いながら立ち上がる。そして〈森〉の奥に向けて大声で怒鳴った。


「これがそなたの客のもてなし方か、〈イール〉よ! 大した馳走だな、〈精霊〉殿!」


 これを聞いて、〈静かの森〉はざわめいた。下生えが波打った。木々が揺れ動いた。

 何者か。何者か。そなたは何者か。木々がそう囁いた。


「我が名はヨルン! そなたを奪いにきたぞ、〈精霊〉よ!」


 ヨルン? ヨルン? 声の聞こえるヨルンだと? 木の幹が困惑した。

 これは面白い。これは面白い。枝と葉が嘲笑した。

〈忌み子〉が来たぞ。〈忌み子〉が来たぞ。〈忌み子〉が〈森〉にやってきたぞ。ハハハハハ。下生えが囃し立てた。

 ヨルンは右手の手袋を取り去るとその銀色の〈指〉を近くの木に突き刺して〈黙らせた〉。そしてヨルンは続けた。


「今〈忌み子〉と呼んだな? この私のことを?」


 そして叫んだ。


「容赦はせんぞ! 今に我が奴隷に貶めてくれるわ、〈狂った精霊イール〉よ! 覚悟しておくがいい! 覚悟しておけ、虫けらめが!」


 そしてヨルンは木から〈指〉を引き抜いた。〈黙らされた〉その木は、見る間に立ち枯れていった。

 ヨルンは憤怒をその身に湛えて、〈静かの森〉の奥へと突き進んでいった。


                  ◆


〈呪われしヨルン〉。〈聞こえしものヨルン〉。ヨルンには数々の呼び名があった。だが彼に向けて決して言ってはならない言葉が二つあった。それは〈銀のけものの子ヨルン〉、そして〈忌み子のヨルン〉であった。

 ヨルンは東方の王国オートランの第二子として生まれた。だがその赤子の銀色の右手と忌まわしき〈指〉を見た産婆は、悲鳴と呪いの声をあげた。それは〈銀のけもの〉の証であった。あってはならないことであった。この事実は厳重に秘匿された。出産に関わった者は全て密かに処刑された。

 怒れる王に厳しく詰問された王妃は、とうとう彼に吐露した。かつて自分が〈銀のけもの〉に犯されたことがあることを。そしてそれを黙っていたことを詫びた。だがしかし、それは王に嫁ぐ前の、子供の頃のことであり、決してあなたを裏切ったわけではない、信じて欲しい、私の心はあなただけのものなのだから、と彼女は続けた。しかしながら、王妃は王の手により直接処刑された。

 民には母子ともに死産であったと伝えられた。これを聞いたオートランの民は悲しみ、国は一年の喪に服した。

 生まれて以来、王の庭の片隅に立つ尖塔に幽閉されていたヨルンは、自らの右手の〈指〉に慣れ親しんだ。〈指〉を地に這わせ、大地に住まう〈精霊〉と〈交信〉した。〈指〉を空に遊ばせ、世界を飛び交う〈声〉を聞き取った。両親の愛を知らぬまま、幻想の中に遊んで暮らした。狭い牢の中に居ながら、外の世界の様々な事を学んだ。

 だが彼の孤独な日々にも終わりがきた。ヨルン六歳のある日のこと、牢を彼の兄が訪れたのだ。ヨルンの五歳上の彼は、ヨルンに向けて冷たく言い放った。お前がヨルンか。

 ヨルンはあまりの驚きに答えることができなかった。兄は構わず続けた。

 なぜお前は生きている。なぜお前が生きている。どこにそんな権利があるというのだ。お前のせいで母様は死んだのに。お前が居なければよかったのに。お前など生まれなければよかったのに。〈忌み子〉め。穢れた〈忌み子〉め!

 ヨルンの存在は、オートランの中でもごく一部の者にしか知られていなかった。その存在を兄に明かしたのが誰なのかは、今でも明らかになっていない。

 それを聞いたヨルンは泣きながら言った。なぜそんな事を言うのです。なぜ初めて会った兄弟にそんなことを言うのです。私にはどうすることも出来ないではないですか。私が生まれたことが罪だというのですか。私にどうしろというのですか。

 牢の鍵を開け中に入ってきた兄は、ヨルンを繰り返し蹴り飛ばしながら言った。〈忌み子〉め!〈忌み子〉め!〈忌み子〉め! お前など、くたばってしまえ! お前など、死んでしまうがいい!

 陽の差さぬ暗い牢の中で生きてきたひ弱なヨルンには、兄の行いに抵抗することなど出来なかった。ただ、兄がどうしてこんなことをするのか、それだけが知りたかった。だから彼は右手を、その銀の〈指〉を兄に向けて伸ばした。〈指〉は兄の右足首に絡みつき、そして根を張った。皮膚の下を、根はどこまでも伸び続けた。瞬く間にヨルンの根は、兄の全身のいたるところまでを覆い尽くした。

 兄は絶叫した。

 これでヨルンは兄の〈すべて〉を知ることができた。彼の憎しみも理解することができた。その代償に、兄は〈すべて〉を失った。理性と知性と情動を失った兄は生ける屍と化したのだ。

 ヨルンは恐れた。自らの行いを、そしてその報復を。だからそこから逃げ出した。オートランから。自らの故郷から。

 それ以来彼は、一人きりで生きてきた。彼の目的はただひとつ、自らの運命を産み出した〈銀のけもの〉を見つけ出し、そしてそれを殺すことだった。

 もう二度と自分のような存在が生まれぬように。それこそが彼の願いだった。

 彼は今、西方のダチェルと呼ばれる辺境の都市へと向かう旅の途中であった。山間のその都市の近くで、〈銀のけもの〉が見つけられたという噂が入ったのだ。だがしかし、商業都市ブルトの近くまで来たところ、異様な〈精霊〉の声を聞きつけ、そして〈静かの森〉へ来たというわけだった。

 彼は〈魔女ルーウー〉から、〈銀のけもの〉と戦うのならば、〈精霊〉の加護を身に着けよ、と教わっていた。

〈精霊〉から加護を得るにはどうするのか。〈精霊〉と語り合い、同意を取り付けるか。それとも〈精霊〉を力づくで屈服させるか。この二つしか方法は無かった。

 そしてヨルンは今、いかに〈イール〉を屈服させるか、そのことだけを考えていた。

 彼の瞳は怒りに満ちていた。

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