#20 Chimny

 カーテンの先にはベランダがありました。


 夕食後に、アカネはベランダに行くと言って、転がっていたコートを取り、部屋の奥に歩いていきました。私も付いて行く、と言うと、彼女はやめておいた方がいいと思うけど、なんて、少し不愛想に言って。でも決して止めはしませんでした。私も自分のコートを羽織り、彼女の開けたガラス扉から、外に出て行きました。

 そこからは色々なものが見渡せました。冬の夜は、辺り一面に白い光をたたえ、吐く息さえも白く染めていました。隣ではアカネが、室外機の上においてあったライターとタバコを取って、埃を払い、それから火を付けました。

 むせるような煙が、辺りに漂いました。

「タバコ、吸うんだ」

「そう、喫煙者よ。まあ、ここでしか吸わないけど」

「ねえ、タバコってさ、どんな感じなの?」

「苦しいし、しんどいだけよ。良いことなんて何もない。ただの現実逃避」

「吸っても、いい?」

 それから、彼女は少し躊躇した後、私に一本だけシガレットを渡してくれました。

「いつもなら、絶対に止めるところだけど。今日は」

 ライターを持つのに、少し気後れする私を見て、彼女は私のタバコにも火をつけてくれました。慣れた手つきで。

 私はそれを咥えて、少しだけ煙を吸い込みました。それは確かに苦しいものでしたが、想像していたほどのものではありませんでした。タバコは悪だと、ずっと刷り込まれ続けて、私のイメージは、あまりにもひどく悪い方に肥大化していたのでしょう。

「吸い方を教えてあげる。いい? タバコっていうのはね、何かを忘れるためにあるのよ。だから、忘れたい分だけ吸い込んで、覚えておきたい分だけ吐き出すの」

 タバコを右手に挟んで、風向き的に、その煙に包まれながら、彼女はそう言いました。

 私はその言葉に従って、少しだけ吸って、一杯に吐きました。煙を吸うと、確かにその時には何も考えられなくなりました。クラクラして。彼女がそれを求めていると考えると、私は少し悲しい気持ちにもさせられましたが。


 彼女は、ただ前の景色を見て、ただタバコを吸い続けていました。でも時々私の方を見て、微笑みを浮かべてくれました。私も、彼女と同じように、ベランダからの景色を見渡していました。この辺りはずっと住宅が続いているようでした。家や、マンションや、そんなものから、光が無数に放たれていたのです。目の前には、青と白の二色の塔が、ぼんやりと浮かんでいました。その頂上に、赤い航空障害灯を燈しながら。

「あの塔、何?」と私は聞きました。

「ああ、焼却場よ。焼却場。横浜市中のごみが、あそこに集まってきて、それから燃やされるの。ひっきり無しにね。本当に、ひっきり無しに」

「焼却場」と私は繰り返しました。

「そう。でも私ね、あれを見ると少し安心するのよ。人間なんて、昔からなんも変わりやしないんだなって。地面が全部コンクリートで固められても、不要物の処理は、自然から狩猟採集していた時代から、進歩も何もない」

「安心する」

「変わっているかしら」

 それからアカネは私に屈託のない笑みを向けました。私は何だかドキドキしていました。心臓の上の部分が、締め付けられるように痛んで。その時には、タバコのせいなのだろうとしか、考えていませんでしたが。

 私は目の前を立ち上るタバコの白い煙と、あの塔、焼却場の煙突と彼女が言っていたもの、から立ち上っているのだろう煙を、重ねていました。そう、確かに、人にとって要らないものは、太古の昔から変わらず、結局は気体になって、空に混ざっていくのです。要らないもの。でも、今要らないものというのは、結局はすべてが過去に必要だったものなのです。そうじゃなきゃ、身の周りに置いてある理由がありませんから。昔欲しかったもの、大切だったもの。でも、今は要らなくなってしまったもの。

 頭の中で、彼は言いました。『別れてくれ』と。覚悟を決めた目をして。

「ねえ、私ね。『君の傍に居ると、切なさが消えない』って、そう言われたことがあるの」

 いつの間にか、私はそんな話を始めていました。

「誰に?」

「その時、付き合ってた人に」

 そう、とアカネは二本目の煙を吐きながら言いました。ちょうど私のタバコが消し頃になったころで、アカネは私に空き缶を差し出してくれました。

 それから、私が火を消すのを、何となく二人一緒に、じっと静かに見つめました。

「でもね、そういうものなのよ。きっと」

 缶を受け取りながら、彼女はそう言いました。

「私たちは全部分かりあうことなんてできないの。きっとその人は、それに気付いていなくて、しかもそれに耐えられないくらい、ナイーブだっただけなのよ。あなたは、何も悪くないわ」

「ううん、違うのよ。彼はそういう人じゃないの。クレバーで、優しくて。私が傷付けてしまったのよ。絶対に、きっと」

「傷つけようと思って、傷付けたんじゃないなら、あなたが悪いわけじゃない。誰も悪くないのよ。ただ不幸だっただけ。自分を責めちゃいけないわ」

「誰も悪くない」

「そう、誰も悪くない」

 アカネはそう言って、彼女のタバコの火も缶で消しました。

「それにね。ねえ、知ってる? 男の方が、ずっとナイーブなのよ。女よりも、ずっと」

「どうして?」

「そういうものだからよ。きっと、単純なのね、男の方が」

 アカネはベランダの柵に腕を載せて、目を細めながら、そう言いました。

 私も、同じように柵に腕を載せました。肘が彼女のそれと当たって、彼女は、私の方に少し振り向きました。私は気付いていない振りで、腕をそのまま彼女のそれに触れさせました。夜の冷え冷えとした世界の中で、体温だけが、ゆっくりと伝わりました。

「ねえ、ありがとう。変な相談にのってもらって」

「いいわ、気にしないで。それにね、仕方がないのよ。目の前にこんなに光の束を出されて、センチメンタルにならない人間なんて、居ないんだから」

 それから、私たちは、私の手が凍えるまで、ベランダからずっと外を見続けました。夜とは思えないほどに、明るい景色でした。燈された光は、距離感なんて無視して、私のずっと傍まで迫ってきているように、私には思えました。

 センチメンタルにさせられる、景色。

 そんなものがあるということは、人なんて所詮、周りのものからの影響に悉く左右されるような、ひどく移ろいやすく、脆い存在だということなのでしょう。

 でも、それでいい、と私は思いました。

 凍り付く夜に、二人光を見つめて、こんなにも幸せになれるのが、もしその脆さのお陰だとするなら、私は、感謝の他にそれに持つべき感情を、見いだせなかったのです。


 結局私は、ほとんど最終に近い電車で帰宅することになりました。

 四つも路線を経由する、ひどいルートでしたが、私鉄が多いことも幸いしたようで。十一時を半ばまで回っても、まだ私は帰る選択肢を持てていました。

 泊まってもいいと、私は思っていたのですが、帰った方がいいと、彼女は言いました。親にあまり心配を掛けない方がいい、と。

 メールして伝えれば、問題ないと、私は食いついたのですが、でも、そういう問題ではないのだと、彼女が言うので。私は諦めて帰宅することにしたのです。


 十一時の街は、街灯からの光しかなくて。

 私たちは二人、何も言わずに並んで歩きました。今度は歩道しかない狭い道で、駅まではずっと真っ直ぐに進んでいきました。薄い赤い色の、レンガ調の道でした。

 大規模商業施設の、死んだように立ち並ぶ夜の駅前を越えて、私たちは眩しいくらいに輝く、駅の構内まで辿り着きました。

 改札の際まで、彼女は私を見送ってくれました。改札を越えて、コンコースを歩く私に、彼女はずっと手を振ってくれました。笑顔でもなく、ただぼぉっとした顔で。目に生気もなく。でも、ずっと手を振ってくれました。私が、ホームに続く階段を下りて、完全に見えなくなるまで。それは、何というかひどく心を叩く光景でした。

 地下鉄の席の中で、携帯にイヤホンを繋ぎながら、私は思っていました。アカネって、あんなにかわいらしい人だったんだ、と。


 今まではずっと、綺麗だとしか思っていなかったのだけれど。

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