#19 Trace(s) of Tear(s)

 アカネの家は、五階建ての新しげなマンションの最上階にある、単身者用の部屋で。広さや間取りを考えれば、それは、恐らくはそういう部屋の中では平均より多少豪華なのだろうと思われるくらいのものでした。学生の一人暮らしには、相当以上に大きそうな。

 彼女は靴を脱ぎ捨て、真っ直ぐにリビングに向かい、その入り口のフローリングに荷物を放り出し、それから着ていた黒色のコートを、無造作に荷物の上にかけました。私が廊下の真ん中で、戸惑うようにして立っているのを見ると、彼女は余り感情の読めない、不確かな目をして、来てと言いました。私が部屋に入ると、彼女はリビングの椅子に倒れるように座り込んで。私は彼女の横で、彼女を見つめながら立っていました。


 そこは、びっくりするくらい殺風景で、味気のない部屋でした。人一人がリアルに生活しているとは到底信じられないくらい。恐らく据え付けだろう靴箱しか置いていない玄関も、ただフローリングが敷いてあるだけの廊下も、私は少し理解し得ませんでしたが、リビングはそれとは比べ物になりませんでした。本当に、何もないのです。その時、彼女の部屋にあったものは、テーブルと、椅子と、彼女だけでした。ニスの塗られた、少し黒めの木製のテーブルに、恐らくはそれとセットなのだろう椅子が二つと、そして、プラスティック製の、赤い、デザイナー・ワークなのだろう椅子が、それも二つ。彼女は木製の椅子に座り、テーブルに体重を掛けながら、私の右腕を掴んでいました。

 それから、彼女は声をあげて泣き始めました。私は彼女に腕をぎゅっとつままれながら、彼女の方をじっと見ていました。彼女は、下を向き続けていました。頭も殆ど動かさずに、ただ私を掴んでいる手を、支えにするようにして。それから、暫くして彼女は顔をあげました。頬に髪の毛を何本か張り付けながら。それから、見ないで、とひどく震える声で言いました。ごめんなさい、でも、お願いだから、と。消え入りそうな声で。だから私は、顔をあげて彼女から目を逸らし、暫くの間、彼女の部屋のその余りにも味気のないリビングを見回していました。白い壁紙に、フローリングの床。奥にはカーテン。でも、それはレースで。外からの光が、夜とは思えないくらいに、白く注ぎこんでいるのです。そしてだからその部屋は、ひどく色彩に欠けているような印象を私に与えました。彼女の横と向かいに置かれた、部屋の中にあるそれ以外の全てのものから疎外されているような、それだけがひどく生々しく鮮やかに赤い椅子の存在も、どちらかと言えば、その印象を増幅させる効果を持っていました。それの持つ強烈な色彩性は、私に、無造作に絵の具の出されたパレットを想像させました。溢れる、沢山の色の世界。だから私には、それの対比として、部屋の色数の少なさが、一層際立って感じられたのです。

 彼女はずっと泣き続けていました。私は彼女に掴まれていない左手で、彼女の髪を梳きました。彼女はそれに反応するように、一瞬だけ泣き声を止めて、それから私の腕をさらに強く掴み、それまでよりもっと呼吸を荒くして、本当に鮮烈に泣きました。部屋の中には、恐ろしいくらいに純度の高い、涙というもの、もしくはずっと広く、泣くという行為それ自体が、充満しているように感じられました。床に落ちた粒たちが、小さな水音を立て、アカネの荒い呼吸音が、それに加わって。そこは、啜り泣くための空間でした。


 時計のない彼女の部屋において、彼女がどれくらい泣いていたか、客観的な指標は、殆ど存在していませんでしたし、だから書くこともできません。だけれど、彼女は本当に、本当にずっと泣いていました。最後には彼女はしゃくり上げるようにして、息も絶え絶えになりながら、泣くのにもしんどそうで。それでもまだ泣いていました。私は彼女のその涙を、私の左腕を必死に掴む彼女の右手の力と、それが作る痛みとして、ずっと感じていました。

 彼女はそれから、まだ呼吸が乱れているまま、ふらふらと椅子から立ち上がって、部屋の入り口にあるスイッチを、前傾気味に、大儀そうに押しました。少しオレンジ色っぽい光が、部屋を覆って。私が彼女の方を見ると、アカネはひどく赤い顔をして、涙袋を腫れさせながら、でも私に笑みを向けました。それから、彼女は私の横をすり抜けて、部屋の奥へ歩き、少し薄めの茶色をしたカーテンを、シャっと閉めました。

 アカネは手で目を擦り、涙を拭いながら、少し自虐げにすら見える微笑みを私に浮かべ、私のところまで歩いて来ました。

 あはは、泣いちゃった、なんて。小さな声で、少し茶化すようにしながら。でも、私は、そんなことをされても、どうしていいのか、どうすればいいのか、全くわからなくて。何も出来ずに、ただ固まってそれを見ていると、彼女はその投げやりで悲しい芝居を止めて、まるで怯えているような、真剣な表情を浮かべました。

「ほんと、ごめんなさい」、と彼女は言いました。「泣くつもりは、なかったんだけど」

 その後にも、彼女はごめんなさいという言葉を繰り返しました。彼女の声は本当に悲痛さに満ちていて、私はそれを聞いているだけでひどく悲しい気持ちにさせられました。私には分かりませんでした。どうしてあんなに泣いていた人間が、しかもひどく悲惨に、本当につらそうに泣いていた人間が、また謝らないといけないのか。それに、だって彼女は決して感情的な人間ではないのです。私はいつもの彼女と今の彼女を重ね合わせて、本当に本当に悲しい気持ちになりました。涙が出そうだ、と私は思いました。

「いいの、本当にいいの。これ以上謝らないで、私までもう泣いちゃいそう」

 それから、その言葉を聞いて、彼女はまた涙を落としました。彼女は手でまた目の周りを拭い、それから顔を洗ってくると言って、廊下の方に消えて行きました。

 顔を洗うと言った、彼女の顔の微笑みは、本当に本当に優し気なもので。私はその場に立ち尽くして、意味も分からないまま、涙を流していました。


 私たちはそれから、買ってきた適当な食べ物たちを並べて、夕食を摂りました。

 彼女に勧められるままに、私は彼女のはす向かいの椅子に座りました。木製の椅子。彼女も同じように、対のそれに座っていました。

 アカネは、顔を洗ってからは、涙の跡など全く残さずに、いつもと同じように笑みを浮かべ、いつもと同じように話し、いつもと同じように私に接してくれました。それは少し無理しているような平穏でしたが、でもそれも彼女の、私に対する優しさなのだと思うと、私はそれを享受し、維持する気持ちになりました。

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