#7 Memori(es)

 私が初めて誰かと付き合ったのは、高校の一年生の時でした。


 きっかけは彼の告白でした。

 「ずっと好きでした。付き合ってください」。都内の私立高校の、人気のない階段の奥で、彼は私にそう言ってきたのです。私はそれに頷きました。私は特に彼のことが好きだったわけではありませんでした。ただのクラスメイトでしかなかったのです。でも別に嫌いなわけではありませんでしたし、その時は、誰かと交際するということに何か憧れのようなものを抱いていました。

 私たちは互いにみんなに隠れて付き合っていました。

 恥ずかしいから、と彼は私に言いました。誰にも言わないでほしい、と。私としてもそれは歓迎すべきことでした。交際が周知の事実になっても、特に何の利にもなりませんから。プライバシーが減るだけなのです。

 彼はかわいい人でした。

 身長は私より少しだけ高く、頭は私より少しだけ良くて。

 私たちは街中を散歩したり公園で寛いだりして二人で時間を過ごしました。それは彼の告白と同じくらい教科書的で一般な高校生男女の生活でしたが、でも私はそういうものを求めていました。常識的で社会的な個人的交際関係。

「久しぶりだ」とある時、公園の芝生で寝そべりながら、彼は言いました。

「何が?」と私は訊きました。ちょっとした優しさを含んだ声色で。

「こんな風に太陽に当たって、無為に時間を過ごすことが」

 確かに、と私は思いました。

 私たちは中高一貫の学校に通っていました。大抵の東京都内の私立進学校は今時そうですが。私たちは小学四年生の時から塾に通い、放課後も机にへばりついて中学受験のややこしく複雑な処理を機械的に学習し、それから中学高校と先取りを極めたカリキュラムの中で、将来に迫りくる大学受験のことを片隅で考えながら生活していました。特にもう私たちは高校生で。従って周りの人はかなりの確率で予備校にまで通っていました。


 彼は私の初めての恋人で、ファースト・キスの相手で。でも、私が彼について明瞭に覚えていることは、もう随分と減ってしまった気がします。時間は私たちを明白に削っていくのです。良いことも悪いことも、均等に。少なくとも、そういう顔をして。

 私が初めて彼に抱きしめられたのは、付き合ってひと月後でした。

 私たちは最初、基本的にそんなにスキンシップが激しいカップルではありませんでした。親しい間柄からそういう関係になったわけではありませんでしたから。私たちはどこかで、例えば渋谷駅で待ち合わせて、それからただ二人並んで歩き、代々木公園で時間を過ごして、そして手を繋いで原宿駅で別れる、そんなデートをしていました。手を繋ぐのは大抵の場合、私からでした。少し暗くなって、雰囲気が出てきた時期に、繋ぎたくなって繋ぐのです。それはとても健康的な営みでした。

 彼はデートの時にはいつも、隣で歩きながら、私の話に頷き、共感し、そしてあまり建設的でない、でも私を認めてくれるような言葉を送ってくれました。それは私の求めているそのままの答えでした。人に相談する時には、一般に人はすでに答えを自分で見つけているのですから。相談する人が求めているのは、大抵の場合、自分の罪悪感の分散と、それから他者からの承認でしかないのです。


 そう、付き合って一か月程が経って、私達はその時デートをしていました。天気予報が当てにならない季節でした。気象庁の予算が足りないだとか、ウェザーニューズの報告システムに不備があるとか、そういう問題ではきっとない、六月の終盤の季節。私たちはいつものように公園に行き、そして東屋の中で雨に降られていました。

 南国の昼的な、情緒ある、ただ湿るだけの雨でした。七月の迫る東京は、夏に既に覗かれていて。私たちは水の積もる石積みの地面と、水滴が長く落ちる小雨をずっと眺めていました。戯れに伸ばしてしまった私の腕と、雨に遅れた彼の、薄い黒のアウターは水に酷く汚れてしまっていて、私たちは湿り気を背負った、東屋の木製の椅子の上でずっと座っていました。

「ねえ、濡れちゃった」と私は言いました。

「濡れちゃったね」と彼はそれに返しました。真剣な目でした。

 それから彼は座る私の背中を、斜め後ろから、ぎゅっと抱きしめました。彼の両腕が私の腹部をずっと一周しているのが私には見えました。それから体温がゆっくりと伝わりました。水の中から何かが沸きあがるように。それは鮮烈な体験でした。私はその時何一つ出来ませんでした。身動きも、発声も。彼はその腕から私に軽い力積を掛け続けていて、背中から伝わる体温は彼に全身を包まれているということを私に明白に意識させました。

 彼はそれから暫くして私から離れてゆきました。

「ごめん」と彼は言いました。「突然こんな」

「いいの」私はそれに返しました。「それにもっとしていい」

 私たちはそれから、椅子を立って、正面から抱きしめ合いました。私はそこでもまだ動けず、何も言えないままでした。体温が今度は全体で伝わりました。人に包まれるというのはこういうことなのか、と私は思いました。私の世界観はこの時に本当に百八十度変わってしまったのです。

 右肩が東屋から出てしまっていたみたいで、私はそれで右半身を大きく濡らしていました。彼は左を。でもそれは私たちにとっては些細なことでした。私たちはきつく抱きしめ合いました。私は彼の肩に頭を載せて、すると顎から彼の体温と弾力と、生きているものの全てが伝わってきました。その時、私は心から、『生きている』と感じていました。私は生きている。彼の中で、彼に包まれながら。彼の生を通して。

 私は辺りから泣き音のような雨が過ぎ去るまで、彼に触れ続けていました。


 彼は優しい人でした。

 私は彼を思い出す度に、申し訳ない気持ちで一杯になります。ひどい別れ方や、付き合っている最中の私の態度や、そういう雑多で、そして大切なものが、私に針を刺すのです。

 私たちのファースト・キスは、また同じように公園の中でした。

 彼が私の肩に手を載せて、それから二人で、少し顔を傾けながら、唇を近づけて。ひどくおぼろげに触れた彼の唇は、私のそれに曖昧で柔らかい力を与えました。それは何だか、何かの儀式のようで。私はそれに特に何の感情も抱きはしませんでした。

 私たちはその日に、数え切れられないくらい唇を重ね合いました。潰すようなキスや、触れるようなキスや、そういうヴァリエーションを、全てやりきるまで。私にも少し憧れがありました。キスをすることに対して。だから私は私自身のその心の凪について納得できるまでそれを続けたのです。

 私は彼の前で何度か服を脱ぎました。

 彼は、幸いなことに、私のそれについて、全て受け入れてくれました。私は肌を晒し、鎖骨を見せ、胸を見せて。彼はそれを大切なものを扱うように見て、触れ、それから包み込んでくれました。彼も肌を晒しました。私にとっては彼のそれの方が衝撃が大きいものでした。何となく恥ずかしかったのです。私たちは上半身裸で抱きしめ合い、そうすると私はひどい高揚感と呆れるほどの充実感に襲われました。


「抱きつくの、好きだね」といつか彼は私に言いました。

「好き。私もう誰かと一緒に居なければ死んでしまいそうなくらい」

 そう言って私は彼に腕を伸ばしました。彼は私を軽く抱いて、それから私の目を見ていました。促すように。だから私はその次の言葉たちを紡ごうとしました。

「初めて抱きしめられた時、私、ひどく満たされて。満たされすぎて普段が欠陥のように思えてきたのよ。わかる? あなたに触れていると、私、自分の何か致命的な欠点が補完される気がするのよ」

 彼はそれに、そうと言いました。それから、少し考えて私にこう言いました。

「ねえ、それは僕だからそうなの? それとも誰とでも?」

「わからない」

 そう、と彼は言いました。それで話は終わりでした。彼はそれでも私をずっと抱きしめていて、その場は恋人的な柔らかい沈黙に支配されました。


 私は結局、付き合っている最中、彼に言われるままに服を脱ぎ続けていました。

 彼は胸を揉んだり、性器に指を入れたり、あるいはそれらを舐めたりしていました。別に私はそれによる快感を覚えることはありませんでした。感じるのは、くすぐったさと少しの違和感と。そんなもの達だけ。でも彼は痛いと言えば止めてくれたし、次はそんな風にはしませんでした。だからそれは結局慣れることにしか繋がりませんでした。

 それから、私たちの関係に終止符を打ったのも彼の言葉でした。

「別れてくれ」

 六文字のシンプルな言葉たちでした。どうして、と私は訊きました。

「切ない」と彼は言いました。「付き合っていても、君といると切なさが消えないんだ」

 私はそれに結局は頷かざるを得ませんでした。彼の目には覚悟が宿っていたからです。

 こうして私たちは一年間のそれなりの長さの交際を終えました。

 私にとってそれはとてもとても不可解な原因でした。私は彼の要求通りに身体を捧げ、それから任意のタイミングで彼を抱きしめ、それからキスをしていました。そういう関係の何が切ないのか、私には何の見当もつきませんでした。どちらかと言えば私は彼に対してずっと誠実だったのです。少なくとも、私の視点では。

 だからそれは私にとってある種の呪いになりました。

 私は確りと人と付き合っているつもりでも、その人を悲しませてしまうのだという呪いに。私は彼のあの目を忘れることが出来ないのです。悲しい覚悟の目。

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