#8 Government Office

 彼が提案した日付から一週間だけ遅らせて、私はまた椎名と軽いデートをしました。

 端的に言って覚悟が出来なかったのです。

『私たちは、誰かとの関係をぴったりそのまま維持することなど出来やしない。』

 ――それが、私が十九年生きて実感として受け取った二つの教訓の内の一つでした。そして、この会合において、私たちの関係が僅かでも進展する方向に転ぶのはわかり切っていました。

 私は彼が嫌いではなく、彼は私のことが好きでした。私は彼を振る勇気もなく、付き合う勇気もありませんでした。


 実際に一週間遅らせたところで、私の覚悟は全く決まりませんでした。それは一週間前の自分にもわかり切っていたことでした。それでも私は遅延策を取ったのです。嫌なことは後回し、これが十九年間の人生で形成された私の無数の欠点の一つでした。

 私は新宿の地下街で彼を待っていました。

 待ち合わせにはまだ随分余裕のある時間でした。私は人の溢れる通路の、柱の陰に隠れ、多義的な意味で所在なく立ち尽くしていました。新宿の街は毎電車から人を抜き去り、その風景に作り替えているようでした。スーツ姿の男性、女性、それから私服の男女、有り余る金と時間を捨てに来ているのだろう人々。そこは人の展示場と化していました。

 そして私はその中に女性を見かけました。

 彼女は背が高く、地面を確りと踏みしめていました。その動きは洗練されていて、彼女はその長い脚を丁寧に、そして大胆に伸ばし、私を魅了するのには十分すぎるくらいに綺麗に歩いていました。服は決して流行りに従っているわけでも、主張的でもなく、でも彼女にそれはとても似合っていました。

 アカネでした。

 私はそれを視認したその時から、足が絡みそうになるくらいに急いで、彼女の元に向かっていました。それは無意識的な動作でした。どう声を掛けるか、どう対応するか、そんな理性的なことはその時には一切重要ではありませんでした。私は人が隠そうとする彼女の背中を無心で追いかけ、人に時々軽くぶつかりながら地下通路を歩いていました。

 そして突然に私は誰かに腕を掴まれました。

 私は頓狂で少し外れた悲鳴を挙げ、それからその誰かの方に振り向きました。

 椎名でした。

 彼は私のその少し抜けたような悲鳴に少し意表を突かれたようで、顔にちょっとした困惑の色を浮かべていました。

 それから私は急に現実に戻ったような気持ちになりました。そうだ、私は彼と約束していたんだ、と私はいつもより低回転になった頭蓋の中で思いました。そして私は周りを見渡し、今まで追いかけていたアカネの姿を探しました。

 それはもうどこにもありませんでした。そこにあったのは呆れるほど鮮やかな照明と、その元で照らされる意味の判らないくらい多数の人々の群れだけでした。私はそれに心の中で少しだけため息をつきました。

「どうしたんだ?」と彼が言いました。

「何でもない」と私は答えました。それにもう理由を言ったって仕方がなくなっていました。「少し走りたくなっただけ」

 彼は一通り怪訝そうな顔を私に向けて、「気を付けなよ」と忠告しました。

「そうすることにする」と私は答えました。


 私たちはそれから新宿三丁目のカフェ・ベローチェに入って、コーヒーを飲みました。

 私が「入ろう」と言って、彼はそれに従ってくれたのです。

 ベローチェのホットコーヒーとハムサンドで私はもう昼食を終えようとしていました。注文する前に彼にそれを伝えて、そうすると彼はまた少し怪訝な顔をして私の方を向きました。でもそれは全体的に私が悪かったことでした。もうここで食べる、と言う私の声は、自分で聞いても酷くぶっきらぼうで、自己中心的なものでしたから。

 私はそれから席について、コーヒーに軽く口を付けながらサンドウィッチを食べていました。彼はそれを少し窺うように自分のコーヒーを飲んでいました。

「その白いアウター、よく似合ってる」と彼は言いました。

「黒いの、昨日の雨に降られちゃって。ちょうどいいのがこれしかなかったのよ」

「すごく似合ってると思う。黒も綺麗だけど。君は何でも似合う」

 彼はそんなことを真剣な表情で私に伝えてきました。それを見て私は、彼への申し訳なさを深く胸に覚えて、内心でため息をつきました。

「ありがとう」と私は彼の言葉に答えて、それから少し丁寧に、出来るだけ誠実に言葉を紡ごうとしました。

「ねえ、ごめんね。私断じてあなたが嫌いなわけじゃないのよ。少し気分が乗らないだけなの。めんどくさいでしょ、私こんな人間なのよ」

 彼はそれから私を見て少し微笑み、また話してくれました。

「そんな時、誰にでもあるさ。気にしてない。嫌われてないなら良かったよ」

「ありがとう」と私はそれに返しました。

「優しいね、ほんとに。でも私その好意にちゃんと応えられる自信がないわ」

「いいさ、別に。見返りを求めてるわけじゃない」

 それから私たちの間にはまた沈黙が訪れました。でもそれは、今までのような殺伐としたものではなくなっていました。私はそれに少し安心し、それから彼の方も私を窺わずに済んでいるみたいでした。


 私たちはそれから、映画を見て、都庁の展望台に上がり、決して悪くない雰囲気で時間を過ごしました。彼は、前のデートでも気付いていたことですが、決して焦らない人でした。基本的には私から手を繋がなければ私たちは手を繋がなかったし、展望台の端に私が居ても彼は決して後ろから抱き着きもしませんでした。彼はほとんどどんな時でもごくごく冷静で、私たちはまるでもう円熟した男女同士か、あるいはどちらにも恋愛感情の無い友達同士のようでした。一切も衝動的でない関係。でも私は何となく彼にちゃんと好かれているんだと感じることが出来ました。それはそれで何となく幸せでした。

 帰り道、椎名は私を小田急の新宿駅まで送ってくれました。

「ありがとう」と私は言いました。

 端的に言ってそれはいいデートでした。私は何不自由なかったし、それにあるいは感情的にかなり満たされてもいました。私はその時最初に見かけたアカネの存在をも忘れていたくらいでした。

「どういたしまして」と彼はそれに返しました。

「ねえ」と私は切り出しました。「どうして私にこんなに良くしてくれるの。あなたにはメリットなんて一切ないじゃない」

「会いたい人には、自分から会いに行かなきゃ一生会えない」

 彼はそう言いました。一文節一文節を強調するように、ゆっくりと。

「僕はそう思ってる。それに、どうせ会うならその人に良い思いをしてもらわないと余りに自己中心的に過ぎる。そうは思わない?」

 それから彼は私に手を振りました。

 私は彼の振る手を見ながら改札を渡り、それから邪魔にならないところで彼に手を振り返しました。それから私はまだ余裕のある海老名行の急行電車に乗って、窓の外を行き交う人々の姿を見ていました。


 私はその中の誰一人も知りませんでした。それは予想されたことでした。そして私はそれを確認して、小田急線の狭い座席の中で眠りにつきました。

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