#5.5 Dolphin

 その年の夏もいつも通り、マスメディアは異常気象という言葉を連呼し、熱中症に倒れた人の数や、それから外に出ることへの注意を、声高に叫び続けていました。

 東京はフライパンの中みたいに加熱されていました。アスファルトは溶けそうに白く煙を上げ、コンクリートはその涼しそうな外観に信じられないくらいの熱量を溜め込み、それから、まるで世界中の殺意が具現化したような、嘘のように熱を持った光線を私たちに浴びせていました。髪の毛先の一本一本まで包み込む大気は、それに溶け切らないくらいの量の水分を含んで、冬の世界中から熱を集めてもまだ足りないくらいの温度で、私を蒸していました。きっと中華料理の点心たちはこんな気持ちなんだろう、と私は思っていました。あるいは、このまま夏が続けば、私の身体にはきっと彼らのように穴が開いていくのかもしれません。水分が蒸発して。まるでスポンジのように。

 そう、八月は本当に、そんな取り留めのなく意味のないような思考が永遠に回るほど私は暇で、それから世界は意味の判らないくらいに熱を溜め込んでいました。


 夏休みには、サークルの活動がいくつかありました。

 私はその内の二つだけに参加しました。五つも六つもある活動に、全部参加していくのは、私には何となくバカげたことのように映ったのです。確かに私は暇でしたが、でも別にだからといってサークルに特別に時間を割く必要なんてない、と思っていました。彼らは一回の活動に三千から五千くらいの金額を飛ばし、それを代償として、人間関係と楽しい時間を練成していました。でもそれは一方ですごく非生産的な行動じゃないか、と私は思っていました。毎回顔を合わせて、徐々に嫌なところを見つけて、複雑な人間関係に絡めとられて。知り合ってすぐの人達の、ぎすぎすした関係など、私は全く知りたくもありませんでした。あるいは私は人と接するのが本質的に苦手なのかもしれません。

 その二回とも、私は近くの女子たちと話して、それから椎名と話していました。

 あの時、サークルの人間関係は目まぐるしい変化の最中でした。私は色々な人達の噂を聞かされ、あるいは多分に嫉妬の含まれているような悪口を聞き、それから自分のことについて詮索されました。でも私はそれを聞いたところで軽い同意と自分に関する噂話の否定しかできませんでした。あまり興味がなかったのです。私は特に誰も好きではありませんでしたし、それに誰も込み入って嫌いではありませんでした。生理的に受け付けない人は最初から避けていましたし、それに誰とも深い関係を持つ気はありませんでしたから。私にとってサークルは過去問の入手手段と就職面談での話題作り、人恋しくなった時の保険くらいの意味しかありませんでした。

 私はそれから椎名に話しかけられて、彼と話していました。特に会話の内容は覚えていません。でも別に私は彼が嫌いではありませんでした。彼は話がうまく、私の話をちゃんと聞いてくれました。適度に笑い、適宜冗談を混ぜていました。彼と話していると心地良さを覚えることも多かったのです。そして彼が去ると、私は女子何人かに詮索を受けました。でもまあ、話題がない人とでも、ない時にでも盛り上がれるものなんてそんなにヴァリエーションがあるわけではありませんから、それは妥当な経緯でした。


 それから、私はアカネと待ち合わせて、水族館に行きました。

 私は彼女に殆ど毎日のようにメールを送り、彼女を何かしらに誘い続けていました。アカネはそれに折れたような形で、私との待ち合わせを許諾したのです。

 ペンギン、と彼女は言いました。

 その鳥は目の前の水槽に囚われていました。日本の、しかも東京で、彼は、あるいは彼女は、民主主義の基本とか人権とかを全く知らずに育っていました。

 アカネは、淡い青色のシャツに小豆色のスカートを合わせ、軽く涼しそうな服装をしていました。でもそれは上品で大人っぽいものでした。どうしても高校生感が抜けない私とは比べ物にならないくらいに。

 かわいい、と私は言いました。彼女への賛辞も多分に含みながら。

 確かに、と彼女は答えました。私の気持ちには多分気付かず、ただ水槽を見ながら。

 私たちはそれから水族館を私の気が済むまで隅々と見回りました。彼女は何も言わず、時々紙コップに入れられた売店の高いジュースをストローで吸いながら、私についてきてくれました。彼女は常に私と拳一個分くらいの絶妙な距離を空け、私よりずっと優雅に歩いていました。長い脚を伸ばして、滑らかに重心を移動させて。それは何となく私にとってもどかしいものでした。決して嫌われていることはなく、でもきっと心を開いてくれているわけではないくらいの距離に、彼女は居るのです。そして彼女はそれをプロフェッショナルな仕草で、淡々と、私を魅了するように行っているのです。


 それから、午後三時のイルカショーを、私たちは見ました。

 彼女はオレンジ色の、プラスティックで作られたよくある椅子に腰かけ、まだ誰も、何もいない空白の水槽を眺めていました。

 こんなところに来るのは久しぶりだ、と彼女は言いました。

 水族館に?、と私は訊きました。彼女はそう、と答えました。東京に来てからは初めてになる、と。それから彼女は急にため息をつきました。それから、一人で来ても面白くないしね、と、息を吐くついでのように、私に聞かせる気もない独り言のように発音し、私に整えられた微笑みを浮かべました。

 それから、定型的で、何の意味もなく、でも限りなく遊戯的なショーが始まりました。彼女はそれを目を細めて見ていました。恐らくは、彼女の地元でも、同じようなショーが繰り広げられているのだろう、と私は想像しました。それから、私はでもそれに魅了され、驚き、感心していました。


 そしてまだ夏の長い日の差す五時に、私たちは駅に着きました。

 今日はありがとう、と私は言いました。

 ごめんね、何回も誘ってしまって。楽しんでくれてたらいいな、と言い添えて。

 彼女はその言葉に、少し目を大きくして、それから手を振りました。

 そして、ありがとう、楽しかった、と、彼女は一文字ずつ区切るように言いました。

 私達は別れて、彼女は横浜行の電車に、私は品川行に、それぞれ乗り込みました。


 そして夏の二ヶ月は終わり、秋学期が始まりました。

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