完成しないパズル
扇智史
第1話
切り立って、削られて、ごつごつとした岸壁の上に立つみたいに、彼女はベランダに寄りかかった。私も、そのそばに近づいて、明け方の住宅街を見下ろす。向かいのマンションのゴミ捨て場で、褐色の肌をした男の人がゴミを捨てていた。なんだかこそこそとして、まるで悪事でも働いているかのよう。
「ひょっとしてルール違反な奴かな」
私はふと、冗談半分につぶやいた。ときどき、ヒステリックな女性の声が窓の外から響きわたるのを聞くこともあるし、ゴミ捨て場のフェンスにはいろんな国の言葉で張り紙がされている。何度警告しても聞く耳を持たない人がいるのだろう。
「ルール、通じてないのかもね」
彼女は、男性の背中をじっと見下ろしたまま、つぶやく。
「日本語も、他の言葉も、うまく通じてないんなら、理解しようがないじゃない」
「そういうこと、あるのかな?」
「どこにだってある」
首を振って、彼女はそう言った。彼女は私の目を見ようとしない。口からこぼれる声は、路上にただ投げ捨てられていく。聞いているとすれば、言葉の通じない異国の男だけ。
彼女は、人と言葉を交わすということに、何の期待もしていないようだった。そういうあきらめの気配を、彼女は最初から匂わせていた。
私は彼女の横顔を、諦めずに見つめる。ずっと見つめ続けている。彼女と寝るようになって、私にも彼女の諦念が伝染していたのかどうか、それは分からない。自分の発する匂いに自分で気づけないように。
明け方の空が白んでいく。そのうち、人の姿が増えてくるだろう。また、ゴミの捨て方が間違っている、という絶叫が聞こえるのかもしれない。聞こえるだけで、誰も気にとめない声は、しかし確実に人の気持ちをささくれさせていく。息苦しくなる。
「別れようか」
彼女が、突然言った。
少しの間、息を止めた。驚いたけれど、予感していたような気もする。少なくとも、切り出してくるのは彼女の方からに間違いない、と思っていた。それが今だった、ということだけ、予想外だった。
振り返る。ベランダに腕を乗せて体重を預けた彼女は、ガラスのように動かない目でずっと遠くを見ていた。3ヶ月前にいっしょに買いに行ったパジャマは、ふわふわで、ピンク色で、あまり彼女に似合っていない。彼女が自分で選んだわりに、ちっとも彼女らしくなくて、私はそれがおかしくて長いこと笑ってしまった。彼女は、首から提げたもこもこのポンポンをはじいて、微笑みを返してきた。
あれは、受け入れたという意味だと思っていた。
誤解だったのかもしれなかった。
「どうして?」
手すりに斜めに体重をかけ、彼女の方にすり寄るようにしながら問いかけた。その接近の気配を感じていながら、彼女は振り向こうともしない。
「本棚をさ」
「うん?」
「組み立てたじゃない」
「……いつの話だっけ、先月?」
「先々月ね」
彼女の部屋に新しい本棚を設置するというので、私も手伝ったのだった。ふたりで力を合わせて組み立てたIKEAの本棚は、リビングの隅に据え付けられたばかりで、まだピカピカだ。
「あの時。私がちょっと休んでジュースを買いに行った間に、あなたが全部完成させてしまったでしょ?」
「そうだっけ?」
この手の作業にはつい凝ってしまう方で、集中してしまうと周りのことがあんまり目に入らなくなってしまうのは、私の悪い癖だ。
ねじ回しを一心不乱に回していた時、彼女と何を話したか、何を口にしたか、私は碌に覚えていない。部屋の隅に本棚がぴったりと収まるまで、私はどこか別の世界に跳んでいたような気さえする。
ふう。明け方に似合わない、気怠い彼女の吐息。
「あれでさ。きっと、あたしたちはもううまくいかないんじゃないかな、って、そう思ったの」
「それだけ?」
詰るように言って、彼女に詰め寄る。肩をぶつけるようにして、彼女の冷たい横顔を睨め上げる。
「私たちの関係って、そんな、本棚のねじより軽いものなの?」
彼女はこちらを見ない。それがますます私を苛立たせる。
「そんなにイヤなら、どうして、その時言ってくれなかったの? 私だって、何か直せたかもしれないのに」
きっと、本棚のことはパズルの最後の1ピースに過ぎなかったんだろう。時間をかけて、すこしずつ積み重なっていた感情が、その一瞬に完成しただけなのだ。
そんな理屈はおいてけぼりで、私は声を張り上げる。
「何も言ってくれないなんて、そんなの、残酷だよ。私は言葉の通じない外国人なんかじゃないのに」
「……違う。話が逆だよ」
ぽつりと、低く重たい声で彼女がつぶやく。胸の奥に溜まったものを吐き出すような声。事実、彼女はわずかに咳き込んだくらいだった。
「逆って何がよ! 私のせいにするの?」
「あなたの方が、あたしを必要としてないから」
えっ。
どこか遠くで、鳥が鳴いたのかと思った。自分の声が自分のものに聞こえなくて、声を発したという感覚さえなかった。
ふいに、ひんやりとしたベランダの手すりの固さが二の腕に押しつけられたように感じた。角張った金属製の手すりは、塗装がすこし剥げて鉄の匂いがする。自分の肌に錆がへばりついてしまうような感じがして、思わず腕を放す。
膝が崩れて、その場にしゃがみ込んだ。つかのますがりつくように手すりの上に残った両手が、そのまま滑り落ちて、ベランダにぶつかる。指の骨に、ジンと痛みがしみた。
そのすべてを、彼女は、見下ろしていただけだった。
「泣かないよね」
そして彼女は告げる。
「痛くても、苦しくても、あなたは泣かない。わめかない。助けを求めない。定期忘れたときとか、冷蔵庫が空っぽになったときとか、課題を忘れたときとか、それと、お婆様が危篤だったときも」
彼女のことばが、私の時間を巻き戻す。全部、彼女の言う通りだ。私は彼女に何も言わず、全部心に抱え込んで、無理矢理解決した。解決できないことは、心の奥底にしまい込んで、忘れるに任せた。
それは、私の中でとどまっていたはずの出来事だった。
なのにそれが、彼女と私を遠ざけていたなんて。
見上げると、彼女の顔が、薄い陽射しを浴びて淡く光っていた。朝の光の中にいる彼女はとてもきれいで、これからも絶対、その顔を見つめて飽きることはないんだと思った。
だけど、その日は来ない。
「あなたの中に、あたしの居場所がないの。あなたの心はあなただけ」
「そんなこと……」
「あたしのことを想って、あたしのためにたくさんの時間を使ってくれているのかもしれない。けれど、それだけじゃ足りないの。あたしが、あなたの方に、ほんのすこしだって居場所を作れなくちゃ、意味がない」
告げる彼女の声音は、平らかでなめらかだった。気持ちを抑えて語る練習を、何度もしてきたかのようだった。
「助けて、って。ひとことでも、そう言って欲しかったの」
鈍い音が、頭上で聞こえる。彼女が、額を自分の両腕にぶつけた音だった。それはどこか遠くで響くこだまのようで、現実感がなかった。
彼女の長い髪が、幕を引くように、横顔を閉じてしまう。私には、表情さえも見えなくなる。
どうして閉ざしてしまうの、と、私は問うべきだったのかもしれない。
だけど私にはそれを詰問する資格はなかった。私が彼女に、立ち入ることを許さなかったのだから。
最初から、私の方が閉じていたのだから。私には、彼女の心をこじ開ける権利も力もない。
ふたりのパズルに噛み合う場所はなくて、だから、ふたりの鍵はどちらからも開かない。
私と彼女の嗚咽が、かすかに、朝の空気に流れていく。向かいのビルの女性が、ヒステリックに、ゴミ捨て場の扉を蹴飛ばした。
完成しないパズル 扇智史 @ohgi_
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