under the tree
この旅が始まったのは、ちょうど去年の今頃のことだった。
私の住む街には、樹齢数百年といわれる桜の木がある。
小高い丘のど真ん中にそびえ立つその木。下に立って見上げると、空を覆い尽くすのではないかと錯覚するほど大きく、輝いて見えるほど美麗な桜花を携えた木。みんなに愛されて、とりわけ春は大勢の人達が集まってお花見をして。
美しいだけではない、どこか不思議な魅力のある、みんなに幸せをくれる木。
大切に手入れをされて、長いこと生き続けて。けれど、やっぱりやがて限界が近づいてきていた。
どんなに頑張っても、もってあと数年だそうだ。
それを聞いた時は、みんな悲しんだ。みんなってもう、みんな。
私ももちろん、例外ではなかった。
私が生まれた時から、中年と呼ばれる年齢になった現在まで、桜の木はそこにいてくれるのが当たり前の存在になっていたから。毎年家族や友達とお花見をするのが恒例になっていたから。思い出の中のたくさんの場面に、存在していたから。
知った日から、もう毎日毎日寂しくて。特に夜、一人で過ごしている時なんかにふと思い返して切なくなってしまって。
いつしか、毎晩眠る前に木を訪れるのが日課になっていた。部屋着に薄いコートだけ羽織って、サンダルを履いて。
訪れるといっても、ただその根元で巨体を見上げるだけ。もちろん、返事なんて返ってこない。木は見事な花を咲かせているだけ。
全てを目に焼き付けようと、精一杯眺め続けた。
その夜もそうやって木に会いに行っていた。そうしたら、唐突に思いついた。
そうだ、旅に出よう、と。
あまりに唐突すぎるし、自分でも全く意味が分からなかった。でもどうしてか、絶対に旅に出なければならないと決心した。桜の木と別れなければならなくなるのに。
「またね」
木に短く別れを告げた。そうしてからすぐに家に帰って荷造りをし、翌朝、家族にも友人達にもろくに説明もせず、仕事もほっぽりだして旅に出た。
理由も目的も自分でも分からなかった。けれど見えない何かを求め続けるように、歩みを止めることはしなかった。
あちらの町、こちらの地域。見たことも聞いたこともない世界。
ひたすらに渡り歩き続けて。
そうして、旅を始めておよそ一年後、貯金も尽きかけてきた頃。とある早朝、遂に見つけた。
とある町の空き地。草も何も生えていないがらんとしたそのスペースがうってつけだった。
何がどううってつけなのかは分からなかったけれど、とにかく心の底から歓喜が湧き上がってきた。
嬉々として空き地に駆け込む。うん、やっぱりいい。丁度いい広さだし、人通りもそこそこある。ここにしよう。
……え、ここで何するんだろう……
眠りからゆっくりと目覚めていくような、そんな気分になり始めていたら、その音が聞こえてきた。
ばきっ
えっ、と周りを見回す。そんな音を立てそうなものはない。
ばきっ
でも聞こえる。
ばきっ
やっぱり聞こえる。すぐ近くで。
ばきばきばきばきばきばきばきばき
急に背中が重くなった。考える暇も与えられず、引き裂かれるような激痛が走る。
ばきばきばきばきばきばきばきばき
「ような」じゃない、私の内側から何かが大きくなっていく。骨を砕き、皮膚を破って、背中の真ん中から何かが出てきている。
抑えようとした両手さえ、出てくる硬くてごつごつの何かに引っかかってちぎられていく。
ばきばきばきばきばきばきばきばき
何かはどんどん大きくなっていく。背中はまるで壊れた噴水のように止めどなく血を吹き出し続けている。もう立ってなんていられず、地面に腹ばいになる。痛い痛い痛い。痛いなんて言葉じゃ表現できない。もうやめて。でも止まらない。
ばきばきばきばきばきばきばきばき
あれ、この匂い。桜の匂いだ。あの木と同じ、桜の……
ばきばきばきばきばきばきばきばき
何かがあまりにも重くなりすぎて、私の
重い。臭い。痛い。潰れる。
やめて。やめてやめてやめて
や め
朝。ランニングをしていた
具合でも悪いのかと慌てて駆け寄って…… 取り越し苦労であったことに気付いてほっと胸を撫で下ろした。
「あっ!? 目井さん! あ、いや、その……」
「分かりますよ。童心に帰りたくなっちゃいますよね、私もたまにやります」
嫌味のない笑顔でフォローしてもらい、照れて頭をかきながら立つ上。
「でも植物も考えたものですよね。動けないなら風や動物に種を運んでもらえばいいなんて」
「そうですね。生命の神秘です…… おや」
ふわり。
目の前に漂ってきた淡いピンク色の花びらを、目井さんは手のひらで包み込むように捕まえた。
2人で花びらがやって来た方を見上げる。空を覆い尽くすのではないかと錯覚するほどの、1本の大きな木が、輝いて見えるほど美麗な桜花を携えて立っていた。
「こんなところに桜の木なんてありましたっけ?」
「なかったはずですが…… でも、綺麗ですねえ……」
その木の下に埋まっている存在のことなどつゆ知らず、2人はひたすら見入っていた。
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