Grim Reaper five
「わたくしには『お一人ですべてを背負わなくていいんです』って言ってたくせに、これじゃ説得力ないわよね」
「ハあ……」
身代はそんな噛裂をちらりと見やり。ふう、と小さく息を吐いた。
「そろそろ予約の患者様がいらっしゃるから行ってくるわ。Vet杓子達にお食事持っていってあげて」
「あ、ハあ」
杓子の病室のドアをスライドさせた瞬間、ちょうど桜餅の最後の一口を口内に放り込んだ
「あれ、杓子サンハ?」
むんむんと漂う酒の匂いに僅かに顔をしかめつつ尋ねる。
「行っちゃったよ~」
我が物顔でベッドに腰掛け、足をぶらつかせながら言う甘井。
「ハ? 行っちゃったってどこに?」
「ちふるんるんと一緒にね~、めいめいを探しに行ったんだよ~」
「ハ……………… ハあ!?」
あらゆる意味であまりに予想外すぎる事態に脳は少し処理に時間を要し。処理し終わったと同時、ぶっ飛ぶほどの衝撃を受けた。
「なんで止めなかった!?」
「僕も
爆弾発言の主は芋羊羹の包みを開封しながら、自分の独り言で笑っている。
「何を頭の中オハナバタケな! まだ外出していい状態でハ…… というか、ハン人と被害者を……」
「しーちゃん、ありがとね~」
「ハ!?」
「『そばにいればいい』って教えてくれて、ありがと~」
言うが早いが、芋羊羹にかぶりつく甘井。
噛裂はなんかもう何も返せず…… ただ電気によって煌々と照らされる純白の天井に顔を向け、「ハあああー」と長いため息をつく他なかった。
分からなかった。あと一つ。本当に、あと何か一つを加えるだけでいいはずなんだ。
そうすれば、今自分の手にしているこの薬品は完成する。生きとし生けるもの全てを救うこの薬品が。
それなのに、そのあと一つが、分からなかった。
生きていても仕方がない。はっきり言えば、何の意味もない。
「誰が」という話ではない。全ての生命の話だ。人間だろうと植物だろうと動物だろうと関係ない。
全ての生命は皆平等に、生きていても仕方がない。はっきり言えば、何の意味もない。
どんな功績を残そうと、どんな強い思いを抱いていようと、どんなに誰かに愛されようと、それらは全て終わりを迎える。死という終わりを。
死は何の慈悲も遠慮もない。貧乏人も金持ちも年寄りも子どもも善も悪も、いずれは等しく皆連れ去っていく。
死は全ての終わりだ。迎えた瞬間、その生命は二度と息をすることもものを食べることも憎むことも慈しむこともなくなる。
「生きた証」は遺る、などという言葉もある。けれどそれとて永劫ではない。
その「証」も、それを知る生者も、いずれは必ず風化、あるいは死亡する。そのようにして、死んだ生命は再び死ぬのだ。
どんなに必死になって足掻いて、努力をしたところで、死を避けることはできはしない。
決して忘れない。あの患者様の最期。
「心配には及ばない。あなたの病気は必ず治す」そう宣言し、あの忌まわしい白い影を睨めつけながら、できることは全てやった。
それなのに、救えなかった。
苦しそうに表情を歪め、弱々しく息をして。けれど、視線だけは空気さえも切り裂けそうな程にこちらに向けて鋭く尖らせて。そのまま、逝ってしまった。
あの目が、脳裏から離れなかった。何をしている時も、無言で責められ続けている気がした。
何人もの患者様を救えなくて、それでも逃げずに向き合って、耐えてきたつもりだった。
けれど何日も脳内で責められ続けていたある日、ぷつん、と何かが切れた。
もう諦めよう。どんなに抵抗しても、死という定められた運命を覆すことは誰にも無理なんだ。
受け入れよう、どうしようもないことなのだから。どんな生命にも訪れることなのだから。
ああけれど、自分は医者として多くの人達を助けてしまった。どうせ死ぬのに、わざわざ無駄なことをしてしまった。
なかったことにしなきゃ。自分のした「余計なこと」を。
うまくいくと思ったのに、途中で邪魔が入った。自分の行為の意味を分かってもらおうとした。この人なら分かってくれると思った。
けれど、全くそんなことはなかった。
悲しかった。
衝動的にキッチンに向かい、一つの瓶を手にとった。制止の声をものともせず、あの人に別れを告げてから、中身を一気に煽った。
これでいい。自分はやっと、生の苦痛から解放される。
二度と無駄な努力に酔って傷つけられることも傷つくこともない。こんなに悲しい思いをすることもない。
これで終わりだ。かつて死んだ全ての生物が経験した、これが、死か。
なんだ、こんなにも簡単なことだったんだ。
そう、終わるはずだったんだ。あれで。それなのに……
何者かは、目井さんの唇を噛み締めた。
目井さんが余計な真似をした。だから自分は今こうして存在してしまっている。しかもよりによって目井さんの中に。
何故わざわざこんな無意味なことをしたのだろう、あの人は。そうまでして命という無価値なものを救いたいのか。
ますます落胆した。ここまで分かってくれないとは。
だが、時間はかかったがこの
手中の蓋がされた小さなフラスコ。その中で泡立つ、無色透明の液体。
かつての自宅だったこのあばら家で自作した、医療従事者の間で最悪の禁忌とされている薬品。開封すれば瞬く間に空気中に広がり、解毒も不可能な猛毒と化す。
そして、動く者、呼吸をする者、根を張る者、食す者、心臓が動いている者、光合成をする者、飛ぶ者、泳ぐ者、走る者、生み出す者、吐き出す者、血を流す者、泣く者、笑う者、憎む者、愛する者。
人間も植物も動物も関係なく、命と言えるもの全てを瞬時に死に至らしめる。
止める術はどこにもない。一度拡散されれば無限に広がり続け、殺し続ける。作為など皆無。ただそこに命があれば殺す。触れた命がなんであっても殺す。ただ一つの命も許さず殺す。地球に、いや宇宙全体にすら誰もいなくなるよう殺す。究極の平等性をもって殺す。殺して、救ってくれる。
もう誰も、生命活動という無駄な営みをする必要はない。恐怖も悲しみも抱かなくていい。
その先に待ち受けているのはただの無だ。何の苦痛もない理想の世界。
それが、もうすぐ実現する。そのことを思うと興奮が抑えきれず、歓喜の声を上げたい気分にすらなる。
けれど、分からないのだ。
あと何か一つ、加えるだけでこの夢の薬品は完成するというのに、考えても考えてもそれが何なのか見当がつかないのだ。
自分の知識はもちろん、目井さんの頭の中の膨大な知識を活用してもなお分からない。分からないと言うよりも、これはまるで……
「久しぶりであるな」
かつて「死んだ」時のように、心臓が止まったかと思った。
信じられない思いで錆びたパイプ椅子から立ち上がり、後ろに向けた目はやはり信じられない光景を捉えた。
2mほど離れたところに佇む、
電気の通っていない薄暗い室内なのにどうしてか判別できる、緊張したように強張った顔と、何の感情も読み取れない顔。
一心にこちらに向けられた、四つの目。
嘘だ。どうして生きている。殺してあげたはずなのに。
生き物はみんな死ぬ。そんな常識から外れた存在が許せなかったから、計画の手始めに殺そうと思った千古。それを止めようとしてきたから、ついでに一緒に殺そうと思った杓子。
何故、ここにいる。あの部屋からは出られなかったはずだ。
幸せな幻覚の中で、幸せに死んだはずだ。どうして、どうしてどうしてどうして……
思考が混濁しだす。
杓子は霊魂の類を信じていない。
もしもそんな者がいるのならば、今まで救えなかった動物達や……
だから、どういう理屈なのかは分からなかった。けれど、目の前にいる人物の驚愕に満ちた顔と、そんな中でも無表情を保ったままの目を見て、その正体を確信した。
「やはりここにいたんであるな。かつての自分の家であるものな。
さて、突然で悪いが帰るであるぞ。皆、心配しているであるからな。どんな手段を使っても、吾輩達と共に。
なあ、目井氏。いや ……
その声は、荷物の少ない室内に最後の審判のごとく反響した。
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