Grim Reaper zero
時はさかのぼり、およそ一年前のこと。
終わった。やっと終われた。
自ら毒をあおった
横になった人の足元に立ち、その人を連れ去っていくあの忌々しき「死神」に一人で立ち向かい続けることなんて、もうしなくていい。
救えなかった悔しさも怒りも悲しみも、もう感じなくていい。
誰にも何にも縛られない、何の悩みもない。何もない世界に行ける。
存在するのは、ただの虚無のみ。なんて素敵なことだろう。
「『助けないでね』って、言ったのに」
気持ちよく寝入っていたところを不快な刺激で起こされたような感覚と共に、まだ自身の置かれた状況の把握も微塵も済んでいないのに、真っ先に抱いた感想がそれだった。
――え、何デス、これ?
全身が重い。特に頭部が。
目と鼻の先には、無機質で真っ白な天井。混乱しているうちに、勝手に視線が降ろされる。それでもなお妙に高い視界には、大量の薬品やそれらが配置されたたくさんの棚、用途のよく分からない機械類が雑然としている。
――本当に何デス、この状況? どこデス? 見覚えある気もするデスが……
……いや、そんなことよりもっとおかしいことがあるデス。だって、名付は……
死んだはずデス。
その思考に答えるように、視界がさらに下へと移された。
――!?
息を呑めるものなら、呑んでいたに違いない。
肌が雪のように真っ白に変色し、マネキンか何かのように硬直した…… 一目で血が通っていない、生きていないと分かる…… 大理石か何かのように、まるで美しいものであるかのように、一糸まとわぬ姿で大事に大事にベッドに横たえられた。
そんな自分自身の死体を、目にしてしまったのだから。
――なん、で……
決して目にするはずのないそれ。思考がさらに混乱を極め、叫びだしたくなったその時だった。
「名付さん!」
懐かしい声が響いた。
なんだか変な響き方だ。まるで自分が言っているように間近で聞こえる。今、口も勝手に動いた気がした……
「良かったです…… 本当に良かったです…… 私、誰だか分かりますか?」
――ドクトル
「そうです! ああ、本当に良かったです!」
景色がぴょんぴょんと上下する。足が交互に持ち上げられ、床に降ろされる。
――止めるデス、くらくらするデス……
いや、そうじゃないデス。なんでここにいるデス?
左胸、ドッ、ドッ。
――なんでそんなにはしゃいでるんデス? 何が良かったんデス?
口と鼻、スースー。
――なんで声はするのに、あなた様が見えないデス? なんで名付、自分の意志に関係なく飛び跳ねてるデス?
体温、ポカポカ。心、ヒヤリ。
「本当に良かったです…… あなたを生き返らせることができて」
すぐ手の届くところにいたのに、みすみす自殺させてしまった。
そんな相手を、目井さんが諦められるわけがなかった。
目井さんはひとまず名付の遺体の体内をできる限り洗浄し、目井クリニックの巨大な冷蔵庫に冷凍保存し、考えた。
名付ともう一度きちんと話をしなければ。気持ちを理解できなかったことを謝罪し、今度こそ救わなければ。
だいぶ時間はかかってしまったが、名付を蘇生させられそうな治療を発案した。
カーテンを引いた診察室の奥。そこで自身と名付の頭に、複数のコードで接続されたヘッドギアをそれぞれ被せる。そして、増幅した目井さんの脳波を名付の脳へと流し込む。他者の脳波の刺激によって、機能を停止した脳を呼び起こせるのではないか、と。
だが、そう計算通りいくはずもなく。
治療の結果、名付の遺体には微塵の変化も生じず、代わりに。
どうしてそんなことになったのかは全く分からないが、目井さんの脳の中に、名付の脳内に残存していた名付の思考と記憶。その全てがコピーされた。
「と、まあこういうわけなんです。あなたという人格が、私の頭の中に宿ったわけですね。
これでやっとお話できますよ。まずはあなたのことを理解できなかったこと、本当にごめ」
――ふざけるなデス。
「え」
――せっかく死ねたのに!
――名付は死ねて幸せだったデス! あのまんま、誰にも理解されないで不毛に生きてたくなんてなかったデス! どうして手間かけてこんなことする必要があったデス!?
「それ、は……」
――名付を救いたいなら、死なせたまんまにしておけば良かったデス! あんたは今、名付から救いを奪ったデス!
「うっ……」
よろめいたと思ったら、目井さんが頭を抱えて苦しみ始めた。
――患者様に説教されただけで頭痛デス? よくそれで「救う」なんて大口叩けたもんデス!
「あ…… あ……」
どうやら自分が目井さんの精神を傷つける発言をすればするほど頭痛が酷くなるらしい。さらに罵ってやろうとした。
が、そこへ「目井さーん」と呼ぶ二人分の声が病院玄関から聞こえてきた。患者様がやってきたのだ。
(い、行かないと……)
――いいんデスいいんデス。どんな患者様も最後には死ぬんデスから、診察するだけ無駄デス。
(そんなことありませんよ。診察室に出て……
ああ、
――まだ間に合うデス。見捨てるデス。
(申し訳ありません、痛いんです。少しだけ静かにしてください…… 椰子の実を頭に打ち付ければ、少しは紛らわせられますかね……)
ゴンッ ゴンッ ゴゴゴゴンッ ゴゴンゴ ゴン
(移路さんが行方不明なんて。一体何が……)
――ほらみたことかデス。どっかで死んだんデス。検査、無駄だったデショウ?
(あ、頭が…… そんなことはありませんよ。そんなことは……)
それからも名付は、目井さんの頭の中で日々囁き続けた。
諦めろ、救う必要なんてない、どうせいつか死ぬ、全て無意味だ、あんたは無力だ、と。
目井さんは普段は痛みに耐え、人前では何事もないように振る舞っていたが、患者様を救えなさそうな状況に陥った際は、名付の言葉が堪えようのない激痛となって刺さった。
頭を抱え、呻き、それでも、力の限り名付に意義を唱えながら、患者様を救おうとするのを止めなかった。
誰にも相談することもなく、あったとしても
蘇生させられてから何日もしないうちから名付は気付いていた。
今の名付には、目井さんの思考と記憶の全てがあった。過去のそれらはもちろん、目井さんが考えたこと、感じたこと、記憶したことの全てを手に取るように把握できた。
初めは脳を共有しているからだと考えていたが、それとなく探りを入れてみた結果、どうやら目井さん側は名付の思考を読み取ることはできないらしかった。
これは自身に圧倒的に有利な状況だ。何故なら…… 目井さんの頭脳ならば、あの最悪の禁忌の薬品を制作する方法を考えつけるからだ。
多様な生命を救うために蓄積された、膨大な知識と豊富な経験。それらを逆に使用すれば、多様な生命を殺戮することが可能だ。
こうして、目井さんの心を傷つけ続ける。今はギリギリ耐えているが、自分には分かる。時間の問題だ。頭をぶつけた衝撃で人格が入れ替わるほどにヤワにもなってきている。もう少しだ。
やがて限界を超え、目井さんの意識は闇に落ちる。そうなればこの身体の主導権は自分が握れる。
そうなった暁には、あの薬品を作成し、世界中にばら撒く。そうして、全ての生命を殺す。
自分が死ぬだけじゃない。みんなが死ぬんだ。これは、全ての生命を巻き込んだ心中。全ての生命を解放する儀式。
ああ、心が躍る。
そして、あの夕刻。
直前に外因的な頭痛を感じていたことも良かったのだろう。名付は遂に、目井さんの意識を闇へと追いやることに成功した。
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