unfaithful tentacles

「どうしたんだ? 急にデートしようだなんて」

 ホテルのレストランの向かいの席。恋人の屈託のない笑顔。

 八本橋はっぽんばしは今後の展開を想像し、生唾を飲み込んだ。既に痛み始めた胃を孕む腹を直接押さえたいところだったが、その表面をぬらぬらと這い回り、湿り気のある粘液を残す存在のせいで、それは叶わなかった。


「てか、コート脱げば? どんだけ厚着してんの。暖房も効いてるのに……」

 こちらを気遣う恋人の優しげな声に、ますます胃が握りつぶされたようになる……

 ええい、ままよ。

「あのさ」

 口を開く。今さっき唾を飲んだはずの口内はカラカラだった。


「ん、何?」


「別れてほしいんだ」


「……は?」


「ごめん、その…… 本気じゃなかったんだ、あなたのこと」




 その日、八本橋は朝一で目井めいクリニックを訪れていた。

 12月に入り、寒冷な日々が続く中である。だがそれを加味しても、八本橋の風体は奇異だった。

 手入れされた様子も、メイクが施された様子もない髪と顔。何よりも本来の痩身の倍ほどに膨れ上がるほどに着込んだ衣類。普段身だしなみに最大限に気を遣っている人物とは思えない。


「どうなさったんですか?」


「その…… ええと……」


「あまり見せたくない、言いたくないことなんですね。でも、大丈夫ですよ」


「うう…… じゃあ……」

 散々二の足を踏み、けれどようやっと決心して、八本橋は一番外側に着たダウンコートを脱いだ。

 一枚、一枚、と脱いでいくにつれ、目井さんはその身体からだの異変に気づき始めた。

 蠢いているのだ。腹側ふくそくが。もぞもぞ、もぞもぞ、と。長いイモムシか何かが這いずり回っているかのように。肉眼で確認できるほど激しく。

 身ごもっているわけでもない八本橋なのに。よしんば赤子がいたとしても、首のすぐ下から下腹部にかけてが波打つように蠕動するなどありえない。


 脱ぎ捨てて脱ぎ捨てて、最後に残った白いシャツは、うっすらと暗い赤色を透かしていた。ここへ来て再び戸惑い、けれど息を一つ吸い込んでから、八本橋は思い切ってシャツをまくった。


 途端、白いニキビにも似た吸盤がポツポツと多数浮き出した深緋色の、細長い触手がボロリと顔を覗かせた。

「ほう、なるほどですね」

 一人で何やら頷きつつ、自身の方に向けて伸ばされた触手を撫で回す目井さん。

「今朝起きたら何かがお腹をぬらぬら這い回る感じがして…… というか、その気持ち悪さで目が覚めて。で、見てみたら背中から生えたやつがこうしてお腹の表面を這いまくってて…… 刺激でお腹の中身が撹乱されて、せり上がってくるような吐き気がするんです。しかもこの触手、自分の意志に関係なく勝手に動き回ってるんです。余計に気味悪くて、急いでここに来たんです……」

 蠢くものを抑えつけるように両手を腹部に置いたまま、八本橋は説明した。


「そうなんですね。これはですね、タコさんの足なんです」


「タコ?」

 唐突に出てきた頭足綱鞘形亜綱八腕形上目のタコ目に分類される生物の名に戸惑う八本橋。


「ええ。失礼ですが、あなたが今お付き合いしている方は…… お一人ではありませんね?」


「なっ、んで、それを!?」

 泡を食って思わず口走ってから、慌てて口を手で覆った。


「やはりですか。これはですね、相手の同意を得ず、密かに複数の方とお付き合いをしている方にだけ現れる症状なんです。

 他の人達にバレないように、自分の中にだけいくつかの恋心――真剣じゃないものも含まれますが――を秘め続けていると、やがて抑えきれなくなり、こういった形になって体外に溢れてしまうんです。

 二股のことを『タコ股』とか『タコ足交際』とも言うんですが、あれはこの症状からきた言葉なんです」


「眉唾感が凄まじいんですが」


「凄まじくとも事実です。で、治療法としてはサメさんに食べてもらうというのがあります。ただあくまで一時的な方法なのでおすすめはしませんね。食べてもらってもまた生えてきてしまう可能性が高いんです」


「ねえ今何つったどんな方法だっつったちょうど耳をタコ足が覆ってたせいでよく聞こえなかったけどそれにしても変なことが聞こえた気がしたよねえ」


「それか、これも一時的な方法ですが、ご自身で召し上がってみてもいいかもしれませんねえ。聞いた話によると普通のタコさんと同じような味がするらしいですよ。タコさん料理といえば、私はタコ焼きとカルパッチョとタコさんウインナーが好みなんですが、八本橋さんはいかがですか?」


「ねえ聞いてるのかなさらっと言ってるけどセルフカニバリズムしろってことなのかなタコさんウインナーはタコさん関係ないんだけどなねえねえねえねえね」


「ダメですか? 失礼しました。まあ、完治させるのに最もおすすめなのは付き合ってる方々に正直にタコ股なのを説明してお別れするということですね。

 お一人への想いにつきタコ足が一本生じているので、お一人とお別れするごとに、タコ足が一本消滅するという仕組みになっています。全て消すには、今付き合っている方全員との関係をすっぱり絶たなければならないということです」

 途端、血の気が引く八本橋。

「え…… 別れるなんて、それも本命じゃないなんて告げなきゃいけないんですか!? 絶対無理です! 本命の人とイチャイチャしつつ、キープの子達とも遊ぶことによって引っ張りダコ感を味わって、多幸感に浸りたい人生なのに!」


「お辛いしれませんが、根本的な治療法といったらそれしかないんです。

 と言いますか、あなたの場合」

 一度言葉を切ってから、続ける目井さん。

「どなたが本命なのか分からなくなってらっしゃるかもしれませんが」

 その物言いには、流石にムッときた。

「そんなことないですよ! 一番はあの人で…… あ、いや、あの子かな? けど、あれの相性はあいつの方がいいし、でも趣味は微妙に合わないからその点あの方なら…… いやでも…… あれ?」

 声が小さくなっていく。満々だった自信を徐々に失い始める八本橋を、目井さんは黙って見つめていた。


 やがて。

「……分かりましたよ。ともかく、恋人達とは別れます。これ本当に嘔吐感があって気持ち悪いので……」

 逃げ道はないことに気付き、残った道を進むしかないのだと悟り、そう宣言した。

「それがいいと思いますよ。いろんな意味で」

 目井さんの返答に、図らずも大きな溜息が出た。




 そうして恋人の一人に別れを告げた八本橋は、「ちょっと一回表出ようか」と近所の路地裏に引きずり出され、今まで騙し続けていたことについて散々罵声を浴びせられた。当然、二人の関係はそれで終わった。罵声がほぼほぼ「このタコがー!」という内容だったのは、偶然だと思う。

 

「うう……」

 首を垂れ、八本橋は一人繁華街を歩む。

 さっきのは遊びのつもりで付き合っていた人物だったが、やはりああまで徹底的に自身の不貞を責め立てられると、自分の中のプライドというか、何か大事なものがズタボロになった気がした。

 腹の上のあの忌々しい感触は、確かにほんの僅かに、ちょうどタコ足一本分、消えはしたが、それすらほぼ何の慰めにもならない気がした。


 浮気が褒められた行為ではないことは理解していたつもりだった。けれど、一人の恋人にしてもらえることなんて限られているではないか。

 常に誰かにチヤホヤされたい、一人からの愛だけでは、満足できない。だから仕方ないじゃないか、と思っていた。誰にも気付かれないように隠し通しさえすれば、誰も傷付けず、自分自身も含めて誰もが幸せに「恋人」として過ごせると、そう思っていた。


 けれど、どうやらそうではないらしい。自分が独占していると信じていた想いが他の者にも向けられるのは、どうやら世間一般の人からしたら腹立たしいことらしい。

 この後、どうなるのだろう。先程の恋人…… 今となっては「元」恋人だが、あの人は自分の恋人達の中では比較的温厚な方だった。そんな人物でもあそこまでなるということは、他の恋人達はどうだろうか。


 罵声では済まないかもしれない。タコ殴りにされるかもしれない。刺されるかもしれない。一生許されないかもしれない。そんなつもりはなかった。大事にしてもらいたかっただけだったのに。けれどそんな言い訳は、騙された方には無関係だ……


「は、はは……」

 ろくなことが起こらないと保証された未来を思い、そして元はと言えば全て自分が悪いという事実を思い、失笑が漏れた。


 寒さ以外の理由で小刻みに震えだした手で、分厚い手帳を開く。デートでダブルブッキングやトリプルブッキング、それ以上ブッキングをしないようにと、毎日のスケジュールが分刻みで記されたそれを、涙目で見やる。

「この後はあの人と別れて、その次はあいつと…… あの子は明日になるかな。ああ、でももしボコボコにされたらこの限りじゃないもんな…… はは……」

 残り二十三本のタコ足に胸部や腹部を撫で回されながら、残りの恋人達とどう別れるか思考を巡らせる八本橋だった。

 

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