In my eyes

「で、最近どーなの?」


「……時折、きっかけがあると頭痛はしますね。あなたの時のように患者様に失礼なことを言ってしまうことはありませんが。まあ、大したもんじゃありません」


「マジだね?」


「マジです」


「無理してない?」


「してません」


「本当に、あたしには何もできない?」


「……はい」


「誰か他の人にも?」


「……そうですね」


 スーパーのエレベーター横。設置されたベンチに隣り合って座る目井めいさんの返答に、視野原しのはらしいは小さく溜息をこぼした。

 こうした相手には、何と伝えるのが正解なのだろう。根拠なく下手に励ますのも違う気がした。さりとて、何のフォローもしないのも違う気がした。


「言えないなら言わなくていいよ。

 だけどね。話はいつでも聞くからね」

 そんな言葉を残し、そっと腰を上げた。

 そんな言葉しか言えない自分が、嫌だった。




「ただいま」

 そんな数日前の目井さんとのやりとりを反芻し、もやもやしながら帰宅した。

「おー、おかえり」

 スマホを片耳に当てたまま、玄関に出てくる母のるみ。


「……また、電話してるの?」

 続く「ケンちゃんに?」という疑問は、何故か喉につかえた。


「ああ。あいつまた出やがらねえ」

 電話を切ったるみは、疲労の色が浮かんだ顔で、けれど微笑んだ。

「マジ、どこで何してんだろうな。近頃寒くなってきたってのに」


「……」


 最愛の配偶者が行方をくらませたその日から毎日、るみは暇さえあればケンのスマホに連絡を取ろうと試みている。

 起床後すぐ、食事の前後、仕事の合間。

 信じているのだ。ケンは、生きていると。生きていて、いずれ必ず帰ってくると。

 信じて、疑っていない。


 椎は母のるみのことも、父のケンのことも大好きだ。

 けれど、るみが配偶者と我が子を愛している度合いと比べたら敵わない自覚がある。

 愛情の強さに順位などつけるべきではないのは承知だ。承知だけれどやはり、自分はるみには敵わないと感じてしまうのはこういう時だ。

 だって自分は、信じたいけれど、僅かに、ほんの僅かにではあるけれど、ケンの生存を危ぶんでいる面も、どこかにはあるから……

 一方でるみは、とにかくケンを信頼している。決して疑うことなく、その全てを愚直に信じているのだ。


 と。


 ――♪

 通話を切ったばかりのるみのスマホから、着信を知らせるメロディ。


「!」

 るみは泡を食ったように画面に目を落として…… ふっ、と力が抜けたように苦笑した。

「目井さんからだった」

 微笑の中に落胆を滲ませ、スマホを耳に当てたるみ。通話相手との話が進むに連れ、その表情が驚嘆に満ちたものになっていくのが、椎には分かった。




 きっかけは何だったのか覚えていないし、きっと大した理由でもなかったのだろうと、涙川なみだがわケンは思う。




 ケンには幼馴染がいた。幼稚園の時に出会って以来、ずっと親しかった、これ以上ないほどに反りが合う、親友と言って差し支えない相手だった。

 大きな喧嘩もなく、穏やかに過ごしていた。中学一年の秋頃までは。


 何故そんなことになったのかは、大人になった今考えてもやはり分からない。

 とにかく、夏休み明けくらいから、親友はクラスメートからの嫌がらせを受けるようになった。

 私物を隠されたり、わざとらしく指差して笑ったり、事実無根にもほどがある噂を流したりと。教師もアテにはならなかった。

 明るい笑顔が印象的だった親友はあまり笑わなくなり、無口になっていった。

 そんな親友にケンは…… 何もしなかった。

 二人きりでいる時はこれまで通りに接し続け、親友がいじめられている現場を目撃した際は…… 目を逸らし、知らぬ存ぜぬを貫き通し。加害者達がその場を去ってから、声をかけた。


 怖かったのだ。

 親友が傷付けられるのを見て平気でいられるはずはなかった。できることなら飛び出していって止めたかった。

 頭の中ではいつでもその様をシミュレーションし、次に親友がいじめられたら助けようと心に決めていた。けれど、実際にその状況になってしまうと、足がすくんだ。

 加害者集団の、子どもらしさの欠片もない下賤な笑い顔は、「出ていったら、自分もあんな風にやられる」と思わせるには十分だった。学校と家庭以外の世界を殆ど知らない子どもにとって、学校でいじめられることは世界が崩壊するに等しいことだと言っても過言ではなかった。「いじめを静観しているのは、いじめているのと同じ」という言葉があるが、そう言うその人物は、いじめというものに関わったことがないのではなかろうか。

 ケンは何もしなかった。唯一自分にできる、「親友で居続ける」という行為を続けたこと以外は、何も。けれど、ケンの限界は徐々に近付いていた。


 いじめが開始してから数カ月後、その日もケンと親友は共に下校していた。学校からは別々に出て、途中の道でケンが偶然を装って合流するという方法で。学校から一緒に出たら、自分も狙われるかもしれないと危惧し、いつの頃からかこんな奇妙な方法を取るようになってしまっていた。

 その日も、特に普段と変わった様子はなかった。ケンはできるだけ明るい話題を振り続け、親友がそれに相槌を打つ、という形で会話が進んでいった。

 

「じゃ、また明日な!」

 やがて分かれ道に差し掛かり、ケンは手を振った。親友がぎこちなく振り返してくれたのを確認し、自宅に続く道へと歩を進めた。

 十歩ほど進んで…… 背中に強い何かを感じ、振り向いた。


 目と目が、合った。

 親友が、こちらを見つめていた。

 ただ黙って、見つめていた。

 口を一文字に結び、黒い真珠にも似た二つの瞳いっぱいに、強い感情がこもっていた。

 「助けて」と。

 ただただ心の奥底を射抜くような目で、無言で。

 ランドセルの両の背負い紐を、手が白くなるほど握りしめ、微動だにせず。

 ケンにとって睨まれるよりも沈痛な双眸だった。


 ケンは…… 何もしなかった。

 数歩後ずさって、身を翻し、駆けた。逃げた。

 走りながらも、家に帰って家族と笑いながら話しながらも、好きなTV番組を見ながらも、あの強烈な二つのまなこが脳裏に焼き付いて離れなかった。


 翌日からケンは学校に行くことができなくなった。

 今度親友に会って、またあの目で見つめられたら、今度こそ自分は崩壊する。数ヶ月の間どうにか背負い続けてきた罪悪感が爆発する。

 どんな強い言葉で責められるよりも心を壊す方法で、何もしなかったことを責められる。

 それが怖くて、逃げた。逃げたんだ。こうしている間も、親友は学校に通い続け、いじめられ続けているのに。

 どうして俺が逃げているんだ。あの子は今も耐えているのに。なんて卑怯なんだ。

 でも、無理だ。自覚しきっていることをあの目で改めて糾弾されたら……

 

 身勝手な恐怖と身勝手な罪責感しか、そこにはなかった。




 理由も何も言わず、自室に引きこもってしまったケンを心配した家族は、ある時ケンにフリースクールを進めた。気が進まないながらも、一度だけなら…… と登校してみて、同学年の視野原るみに出会った。

 当時から人目を引く派手なメイクや服装、髪色や髪型を好み、校則違反として学校に注意され、「好きな格好をすることの何が悪いのか」と反発して学校に行かなくなったるみ。ずば抜けて目立つ容姿から最初は怖そうな人だと思ったけれど、おろおろするケンを見かねて世話を焼いてくれたり、ケン以外の生徒に対してもいじめるどころか優しく朗らかに接する姿に、少しずつ好意を寄せるようになっていった。


 色々な出来事を経て仲を深めていき、大人になって、結婚し、現在の町に越してきて、雑貨屋を始め、子どもを授かり。

 初めて我が子の顔を見た瞬間は、想像していた目とだいぶ違うことに驚きはしたが、すぐに愛おしさがそれを上回り。周囲の子達と違う我が子が、誰かに「可哀想だ」と言われる度に「この子は可哀想なんかじゃない! 可愛いんだ! キュートなんだ!」と主張し返すほど深く椎を愛するるみの姿に、やはりこの人と一緒になって良かったと感じ。

 誰に何を言われても、るみに言われた言葉を信じ、「あたしはキュートなんだ!」と唯一の、それも巨大な目を輝かせて無邪気に笑う椎の姿に、生まれてきてくれてありがとうと感謝し。


 そんな日々がずっと続くと、信じ込んでいた。


 あの日、愛する我が子の単眼に、親友のあの表情が浮かび上がっていた。

 沈黙し、目だけでケンを非難する、あの光景。まるで椎の角膜に写真でも貼り付けられているかのように、くっきりと。

 椎の目だけではなかった。るみの目にも、雑貨屋に来た客達の目にも、町中でふとアイコンタクトした人の目にも。

 あの日の親友が、映って見えた。


 恐る恐る、鏡を見てみた。そうではないことを、心のどこかで願いながら。

 虚しい願いだった。怯える自分自身の目に、他ならぬ自分自身を責めるあの目の持ち主が、映っていた。

 

 忘れていた。自分が卑怯者であることを。

 あんなにも罪悪感に潰されそうになったくせに、幸せな日々を過ごす中で、いつの間にか自分の罪をきれいさっぱり忘れ去っていた。

 忘却された罪が、今になって牙を剥いた。思い出せと。お前は幸せに過ごしてはならないのだと。


 椎もるみも、他の人々も、各々の目のことは何も気にしていないようだった。ケンにしか見えていない、もしかしたら幻か何かなのかもしれなかった。

 目井さんのところに行けば治してもらえるかもしれなかったが、そうはしたくなかった。罪と向き合わなければならないと思った。


 家族に黙って、こっそり故郷に帰ることにした。かつての親友に、謝りに行くつもりだった。簡単に許してもらえるはずはない。何時間も罵倒され、殴られるかもしれない。それで良かった。それを望んだ。自分はそれくらいのことをしたのだから。苦しむ親友を、助けを求める親友を捨てたのだから。

 家を出るところを椎に見つかってしまったがなんとか振り切り、一人電車で故郷へと辿り着いた。あの日以来会っていない、連絡すら取っていない親友の家を訪ね、土下座でも何でもするつもりだった。


 結論から言うと、土下座すらさせてもらえなかった。何故なら、親友は数年前、病でとっくにこの世を去っていたから。

 ケンの罪を知らない親友の家族が、ケンを歓待して聞かせてくれたところには、親友はあの後も一日も休むことなく中学校に通い続けたらしい。そうして、遠く離れた地域の高校に入学。大学への進学や就職もその地域で行ったが、急な病に倒れ…… ということらしかった。家族の口ぶりからして、いじめられていたことは誰にも相談しなかったようだ。


 あの後もずっと、いじめられたままだったのだろうか。二年以上も、ずっと……

 たまらなかった。全ては遅すぎた。

 やはり親友を地獄に突き落としていた。しかも、もう謝る権利すら認められていない。謝って恨んでもらうことも、断罪してもらうこともできない。ずっと償うことのできない、軽くなることは決してない罪を抱えて生きていかなければならない。

 ケンは呆然と仏壇の遺影を見つめた。何の悩みもないかのような笑顔の親友が、そこにはいた。写真に映った人の目なら、あの表情は映らないんだなあ、と、ぼんやり思った。

 

 謝罪する、という行き場は無くした。そして、自宅へも帰れないことに気が付いた。

 こんな重い罪を抱えておいて、家族と幸せに暮らすなど許されない。何より、自分はもう、文字通り家族と向き合えない。人の目には、今も最後に見た親友が映る。自分の家族の目にも、まだ浮かんで見えるに違いない。

 きっとこれは、罰なんだ。人を捨てた自分は、もう人の目を見てはならない。人と関わってはならないという。

 特に椎は、人と違うあの大きな単眼を自身のチャームポイントだとしている。それを見てくれない親をどう思うかなど…… 簡単に想像できる。


 人間の眼球を模した、ネックレスのペンダントトップを、ぎゅっと握りしめた。

 一つ溜息をこぼし、身震いした。どこか人の来なさそうな、寒さをしのげる場所を見つけないと。これからが大変だな。

 ああ、そうだ、前髪伸ばそう。人とできるだけ目が合わないように。




 そうして暮らしていたのに…… なんてことだ。知人の親戚の葬儀に来ていた目井さんに見つかってしまうとは。

 目井クリニックの病室で、ケンは焦燥に駆られていた。

 目井さんに発見され、そのままここに連れてこられてしまった。今までの事情も、訊かれるがままに思わず大雑把にではあるが口走ってしまった。きっと今頃、家に連絡もされてしまっているに違いない。

 目井さんは、目のことについてはゆっくり治療していけば良くなるかもしれないと言ってくれた。けれど、そういう問題ではないのだ。


 逃げなければ、二人が来てしまう前に。こんな罪人が家族なんだと突きつけてしまわないように。

 

 常に病室の前に目井さんの気配があったため大人しくしていたが、やがてその気配がふっ、と途切れる瞬間があった。

 今だ!

 素早く窓を開け、身体からだを無理やりねじ込むようにして外に出た。脇目も振らず、駆け出す。

 走って。走って。走って――黒いアスファルトしかなかった視界の中に、いきなり蛍光ピンクの派手なスニーカーが飛び込んできた。

 はっ、と足を止め、思わず顔を上げた先には、濃い色のサングラスを掛け、仁王立ちするるみ。その後ろに、似たような色の単眼用のサングラスを掛け、似たようなポーズの椎。


「あ」

 どうしよう。会って、しまった。


 互いに無言だった。一分間にも、一時間にも思える間、二組は見つめ合った。


 あれ、あの子が見えないな。ああ、そうか、サングラスで目が隠れてるからか……

 ケンが一人内心で納得しかけたのと、るみが口を開いたのは同時だった。

「大体は聞いたぞ。目井さんに」


「……」


「お前がフリースクールに来ることになった理由、聞いたことなかったもんな。お前が話したくないならそれでいいと思ってたけどよ……」

 ふーっと長く息を吐き、続ける。

「今ちょっと怒ってんだけど」


「……」


「けど多分、お前が思ってるのとは違う理由で怒ってる」


「……?」


「分かってると思ってた。ウチがお前を大事なのも、椎がお前を大事なのも、全部伝わってると思ってた。いつも示してきたつもりだったから。お前だから、大事なんだって。

 けど、違ったのか。伝わってなかったのか。どんなになったお前でもいてほしいって思ってたのに。お前がいなくなることが、一番辛いんだって思ってたのに!」


「……るみ、さん……」

 愛しい配偶者は、今サングラスの下でどんな目をしているのだろうか。


「……けど、ウチらもだな。お前が椎とウチのこと大事なのも、分かってるつもりだった。いつも伝えてくれてたもんな。

 けど、分かってなかった。こんな形で愛を表現するような奴だったとはな……

 まあ色々あるが、まずはこれだけ」

 るみの手が、ケンの目を覆う前髪を掻き上げる。サングラスのおかげで、るみの目はやはり見えなかった。

「ウチはお前を信じてる。きっとお前が思ってる以上に。だから、もっと話してくれ。ウチに言っちゃいけないことなんて、何もねーから。

 あと、他の何から逃げる権利はあっても、ウチらから逃げる権利だけは、お前にはもうねーからな。ぜってー逃さねえ。覚悟しろよ。

 それと、」

 張り詰めていた空気が、ふっと穏やかになった。

「おかえり」


 同時に、背後から椎に抱きつかれる。

「おかえり、ケンちゃん」

 目の前のるみの顔が、滲んで見えた。

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